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第一章3

 春香が痴態を和哉に見られたその日の夜。

 春香の部屋の扉がノックされた。考え込んでいた春香は、そこで我に返った。

 両頬を叩いて、それから普段の、家族の前での自分へと切り替える。


「どうしたの?」


 扉が開かれて、顔を見せたのは母親だった。


「お風呂湧いたから入っちゃって」

「お父さんは?」

「遅くなるって」

「じゃあ先に入るね」


 着替えを持って、春香は浴室へと向かった。

 脱衣所で服を脱いで、そこで鏡に映った自分の身体を見てしまう。

 じっと見つめて、それから自分の胸へと手を当てる。モヤモヤとした気分がやってきて、春香はため息を吐き出した。


 本当に、春香は自分の身体が好きにはなれない。

 それは同年代の女の子と比べてほんの少し発育が良くないとかそういう話ではなく、もっと根本的な部分からやってくる嫌悪感。違和感。

 それはきっと【普通の人】には理解できない。

 とっくに諦めてはいるけれど。諦められているはずだけれど、それでも嫌いなものは嫌いだった。嫌悪感や違和感は消えない。


 鏡に背を向けて、浴室への扉を開けた。

 身体を洗い終えて、春香は浴槽へと浸かる。

 浴槽に縁に頭をおいて、ぼうっと天井を見上げた。


 そうしていた春香は、けれど気がつくと昼間の出来事を思い出していた。

 あの一ノ瀬和哉という男は実に嫌な奴だった。

 あのからかうような、意地悪な笑顏。人を怒らせることを言うあの口、態度。どうしてか無性に苛立つ言動をする相手だった。


「なんなんだよ、あいつ。むかつく」


 浴室内に春香の罵倒が木霊する。それが止むとひっそりとした静寂がやってきた。

 滴る水の音が耳に強く残るほどの静寂だった。その静寂の中で、けれど怒りではない感情もあることに気がつく。


「……男子とあんな風に話すの、久しぶりだな」


 自分を偽った口調や姿ではなく、本来の葛木春香としての口調と姿で男と話をした。それは小学生振りで、懐かしい気持ちになると同時に、嫌な気分にもなった。

 理由はわかっていた。わかってはいたけれど、春香にはどうすることもできない。もどかしくて苦しかった。

 水面に映る自分の顔を見つめて、それから春香はため息を吐き出した。それから頭を振って気分を切り替える。


 水滴の落ちる白い天井から目をそらし、浴室にある小さなすりガラスの窓を見上げる。微かに月の影が映っている。ぼやけた月は、それでも淡い光を放っていた。

 それにしても、だ。大変なことになってしまった、と春香は思う。

 自分が隠していた秘密、その片鱗を一ノ瀬和哉に知られてしまった。


 エロ本に興味があるということと、一人でいるときの男口調を知られた。

 それはほんの氷山の一角でしかない。それでも知られたくはないことだった。秘密にたどり着かれる可能性が高まるからだ。

 そもそも。


 実際にはどうかわからないけれど、世間一般的にはエロ本に興味があるのは男性だと言われているし、男口調もその言葉通り男性が使うものとされている。

 だからどちらも男性をイメージするだろうし、女性をイメージすることはあまりないだろう。

 要するに【普通】ではないと判断されてもおかしくはない。

 春香は普通でありたかった。


 そして、他の誰にも言わない代わりに、と。和哉は条件をつけてきた。

【ある場所】で働いてくれということらしいけれど、結局それがどこなのかは教えてもらえず、詳しいことは明日と言われた。

 明日、春香と和哉は駅前で待ち合わせをしている。そこから和哉が働く場所へと案内してくれるらしい。場所へと案内されるまではなにもわからないということだ。職種すらも、だ。


 いったい、春香は何をさせられるのだろうか。わからないというほどに不安なことはない。

 非合法なことであったらどうしようかと思うと、バックレたくなってくる。けれど、それはできない。

 学校生活、ひいては社会生活がかかっているのだ。

 大袈裟ではない。それほどの秘密であると思っている。だから嫌でも行かなくてはならない。


 ため息を吐き出す。それは浴室内によく響いた。

 願わくは、まともな職場であってほしい。春香はそう思うばかりだった。


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