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第四章3

 落ち着いたクラシックのピアノ曲が静かに流れていた。春香でも知っている曲、パッヘルベルのカノンだ。

 そこは喫茶店だった。音楽と同じで店内も落ち着いた雰囲気が流れていて、心が休まるような気がする。

 春香と佳奈美は、窓際にある四人がけのテーブル席に向かい合って座っていた。大きめの窓からは夕日が差し込んでいて、淡いオレンジ色の光が二人を包んでいた。


 天井では四枚羽のシーリングファンがゆっくりとした動きでくるくると回っていた。店内の明かりはシーリングファンの中心に付いたライトから落としている。

 テーブルの上には二つのガラスコップ。中身はどちらも焦げ茶色のアイスコーヒー。無数の水滴が張り付いたそのコップの中の氷が時折音を立てる。佳奈美のアイスコーヒーはガラスコップの三分の一ほど減っていたけれど、春香のそれは少しも減っていない。

 店内の雰囲気もあってか、春香の身体の震えは治まっていた。


 けれど佳奈美への恐怖は未だ春香の胸の中にあった。そのせいか対面に座る佳奈美の顔を見ることができない。俯いて、足の間に置いた自分の手を見つめていた。

 膝の痛みはもうほとんどなく、代わりに感じるのは絆創膏が貼ってある感触。佳奈美がくれたそれを貼ることには少しばかりの気不味さがあったけれど、くれた本人の手前貼らないわけにはいかなかった。


 二人の間にも少しばかり気不味さが流れていた。ここに来てから、二人の間に会話はない。黙ったまま向かい合うだけだった。

 そのままどれくらいの時が流れたか。口火を切ったのは佳奈美だった。


「……久しぶり、ね。元気だった?」

「……、」


 春香は何も答えなかった。

 聞きたいことはあった。だから会話すべきだと思った。けれど上手く言葉にできない。どんなふうに話すべきかわからなかったし、何より何かを言うことが怖かった。

 黙ったままの春香を見てどう思ったか、佳奈美はしばらくしてから言葉を続けた。


「最初にあなたを見た時、誰だかすぐにはわからなかったわ。だって雰囲気が変わっていたから。髪型も服装も、ずいぶんと女の子らしくしているのね」

「……、」

「……それって、やっぱり私のせいよね。私が春香に酷いことを言ってしまったから、自分を隠しているのよね」

「……、」

「本当にごめんなさい。許してほしいだなんて思っていない。それでもね、どうしても謝りたかったの。……ずっと、謝りたかった」

「……な、んで」


 春香はようやく声を出せた。それはまるで幼児のようにたどたどしいものではあったけれど、それでも春香は言葉を続ける。


「なん、で。……謝る、んだ? だって、あれは……か、なみの。本心だったんじゃ」

「……そうね。確かにあの時は本心だったわ。……認めたくなかったのよ。あなたのような人を。だって私の兄がそうだったから」

「え……、」


 春香は思わず顔を上げていた。じっと佳奈美の顔を見つめてしまう。

 佳奈美は水滴がついたガラスコップを両手で包むようにして、中で微かに揺れるアイスコーヒーの水面を見つめているようだった。少しして、佳奈美がガラスコップを指先で撫でた。その影響か、中身の氷同士がぶつかって、涼しげな音がした。

 そうして、ガラスコップを見つめたまま、佳奈美はゆっくりと口を開いた。


「私の兄は……。いえ、私の姉はトランスジェンダーなの」


 春香にとって、それは初めて聞く事実だった。

 佳奈美にも兄がいることは知っていたけれど、まさか春香と同じ境遇の人だったとは思わなかった。そういえば、佳奈美は変な兄だと言っていたことがあった。変、といいうのはそういうことだったのだろうか。


「私が中学生になったばかりのことだった。兄だと思っていた人が、突然家族に自分の心は女だと言い出したの。当時高校生だったあの人にとって、それはきっととても勇気のいるカミングアウトだったと思う」


 それはそうだと思った。

 家族という血の繋がった相手であっても、受け入れてくれないという話も聞いたことがある。もちろん受け入れてくれたという話もある。

 佳奈美の【姉】もそういうことは調べて知っていたはずだ。そして自分が家族にすら受け入れてくれない側であったらどうしようという、そんな不安だって抱えていたはずだ。


 春香はその不安に負けて言えずにいるけれど、佳奈美の姉は勇気を振り絞ってカミングアウトした。

 春香にはとてもできないことだ。


「私は兄だったあの人のことが自慢で、憧れの存在だったの。頭も良くて、運動も得意で。容姿も整っていて、それにとても優しかった。そんなあの人がカミングアウトした時、私は信じられなかった。当時の私はトランスジェンダーといことを欠点だと思っていた。だから完璧な兄がそんな欠点を持っているなんて信じられない。そう感じてしまったの」


 やはり当事者でなければ理解できない存在で、トランスジェンダーであることを欠点だと忌避する人間も多いのかもしれない。そして佳奈美もそっち側の人間だったということだ。

 知っている。そんなことは知っていた。あの時、佳奈美に振られた瞬間から、知っていたことだった。

 そうでなければ春香に対してあんなふうに罵詈雑言を浴びせたりしなかっただろう。


「だけど両親は違ったわ。すんなりと受け入れた。それがまた私を怒らせた。あの時の私は家族が大嫌いだった。よく喧嘩もしていたわ。……だけど今思えば、私は混乱していたのだと思う。初めてトランスジェンダーに触れて、しかもそれが家族だった。だからどうしていいのかわからなくて、そんな自分に苛立って。その苛立ちをあろうことか家族にぶつけていたのよ。……親友であるはずのあなたに対してもね」


 佳奈美がゆっくりと視線を上げた。春香と佳奈美の視線が合わさる。


「けれどあの人と接していくうちに、トランスジェンダーがどういうものなのかだんだんとわかってきたの。そうやって知っていくうちにようやくあの人が、姉がどういう苦しみを抱えていたのか、きっと全部ではないけれど理解できたの。……ようやく、受け入れることができたの」

「……、」

「本当は春香にもはやく謝りたかった。でもね、その資格がないと思っていたの。あんな酷い仕打ちをしてしまったくせに、許してもらおうとするなんて、そんなの都合が良すぎる。そう思った。それは今でも変わらないわ。だけどそれでも謝るべきなんだって、そう思えるようになったの」

「……、」

「もう一度言うけど、許してもらおうだなんて思っていないわ。だから許してくれなくてもいい。酷いことを言われる覚悟だってある。ただ、ちゃんと謝らせて」


 そう言うと、佳奈美はその場に立った。彼女の座っていた椅子が音を立てて、後ろへとその脚を滑らせた。


「ごめんなさい」


 そうして佳奈美は頭を下げた。何度目かの謝罪を口にした。

 何度目かでも、その言葉は今までで一番重たい気がした。


 春香はその姿を見つめていた。

 その心の底はさっきまでのざわめきが嘘のように、どうしてか酷く静かだった。

 それはまるで凪いだ海のように、少しの揺らぎもなかった。


 ずっと苦しんでいた。

 佳奈美からされたことが忘れられなくて、それはずっと心を鎖のように縛り付けていた。鎖の先には重りがぶら下がっていて、その重みに身体が動かず、前へと進むことができずにいた。

 ずっと消えることはないのだろうと、心のどこかで思っていた。その鎖が解けかかっているような気がした。


 どうしてなのだろう。春香は頭を下げ続ける佳奈美を見つめ続けながら考える。

 どうして今、自分はこんなにも心を凪いでいられるのだろうか。あんなに苦しかったのに、あんなに痛かったのに。どうしてなのだろう。


「……顔上げて」


 落ち着いた口調で言う。

 佳奈美は静かに顔を上げた。


「……一つ、聞いてもいいか?」


 佳奈美がコクリと頷く。

 春香はテーブルの下で両手の指を絡ませる。


「佳奈美は……。今の佳奈美は、俺のことを、どう思ってんだ?」


 自分の中にある疑問を形にするように、春香はゆっくりとした口調でそう尋ねた。

 佳奈美は静かに座ると、耳を隠していた黒髪をかき上げて、その綺麗な形をした耳へとかけた。そうしてから口を開けた。


「……そうね。あの時は何も受け止められなかった。あなたの事情も、あなたの気持ちも。……だからあなたの告白にあんなにも酷い言葉を返してしまった。だけど、今は違う。私はあなたを、春香という人間を否定しない。認めて、もう一度。……できることならもう一度、春香と友だちになりたい。そう思っているわ」

「……友だちに」

「それからね、こうも思っているの」


 佳奈美はそこで言葉を止めて、にっこりと笑った。柔らかくて、綺麗な笑顔は、とても優しかった。


「私を好きになってくれて、ありがとう」


 春香は黙っていた。

 佳奈美の言葉を自分の中に染み込ませるように、春香は心の中で何度か繰り返してみる。

 そうやってどれくらい経ったか。


 春香は絡ませていた自分の両手を解く。そうすると知恵の輪が解けた時のような、そんなスッキリとした気分が心の底から広がってきて、それは身体全体へと広がっていった。

 冷え切っていたすべてが温かくなっていく。


「……そっか」


 小さな声で、春香は口にした。

 そうすると、凪いでいた心が再び揺れ動き始めた。ゆっくりと、本当にゆっくりと。心の水面に波が広がっていく。けれど違う。今までとは違う感情の波だった。

 謝ってほしかったわけじゃない。きっとそうだったのだ。


 春香は佳奈美が謝ってくれればそれでいいだなんて。そんなことで救われることはなかっただろう。

 求めていたものは違った。もっと温かくて、心の隙間を埋めてくれるような。そんなものがほしかったのだろう。

 つうっと、頬を流れるものがあった。それはやけに温かかった。温かくて、なぜだが嬉しい気持ちにしてくれた。


 それは春香の知らない涙の感触だった。

 きっと、それが聞きたかった。その言葉を聞けたらなら、春香は笑えていたのだ。

 恋人になれなくてもよかった。ただ春香は、ありがとうという言葉を待っていたのだ。


「春香……?」


 佳奈美の声が聞こえる。春香はその声に首を横へと振った。

 涙を手のひらで拭う。けれど、涙は止まらなかった。濡れた手のひらを見つめて、けれど春香は笑っていた。笑うことができた。

 涙で濡れる顔のまま、その笑顔を佳奈美へと向けた。


「なあ、佳奈美」

「なに?」

「俺はさ。……俺はお前のことが好きだったよ」

「……うん。ありがとう」


 そうやって、春香と佳奈美は笑いあった。

 ようやく。この時ようやく、春香の初恋は終わりを迎えた。

 次は。そう次は、新しい恋へと向かうのだ。


「俺、好きな人ができたんだ」

「そうなのね」

「ああ。だから俺は、その気持ちを伝えようと思う」

「うん」

「……そう思えたのは、佳奈美のおかげだ。ありがとう」

「……私はなにも――、」

「そんなことねえよ。確かに俺は過去に酷いことを言われた。だけどもういいんだ。佳奈美の言葉で救われたから。ありがとう」

「……、」

「だからさ」


 そう言って、春香は佳奈美に向かって片手を差し出した。


「もう一度、友だちになってくれねえか?」

「え……、いいの?」

「お願いしてんのはこっちだ」


 佳奈美を安心させるように、春香はもう一度笑った。

 佳奈美は春香の手を見つめて、それから俯いて。再び顔を上げた時、彼女は泣いていた。


「どうしたんだ?」

「……もう、友だちにはなれないと思っていたの。そんな権利、私にはないんだって。だから、嬉しくて。……本当に、いいの?」

「もちろん」


 そうして、佳奈美は春香の右手を握った。握り返す。もう離れないようにしっかりと、春香は握り返した。


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