第四章2
春香の中の時間が止まる。
振り返った姿勢のままで固まってしまう。
焦ったような顔をしていた凜は、すぐにしまったとでも言いたそうな顔になる。
「え、いや……その。ちょっ、ちょっと話を聞いちゃって」
凜はらしくもなく動揺をしてしまっているようで、忙しなく視線を泳がしている。けれど無理矢理落ち着かせたのか、すぐに春香へと視線を真っ直ぐに向けた。
「駄目だよ。その選択はしちゃ駄目。壊れた方が良いなんて、そんなわけないから」
咎めるような口調で放たれた凜の言葉は、けれど春香の耳に届いていながら無意味だった。春香は頭が混乱していて、言葉の意味までは理解できずにいたのだ。
聞かれた。何を? 話を? 誰の? それはつまりどういうことだ?
春香の頭の中はそんな疑問ばかりがぐるぐると回っていて、凜に話を聞かれていたという意味すら理解できない。理解しようとしているのに思考が空回りしている。
もしかしたら無意識に理解することを拒絶しようとしていたのかもしれない。
けれどずっとそうやって理解を放棄することはできなかったようで、やがて春香は理解する。理解してしまった。
その途端、春香の身体は動いていた。
制止の言葉が二人分聞こえた気がしたけれど、頭には入ってこなかった。声だけじゃない。周りの景色すら見えず、ただ地を蹴る足裏の感触だけを感じる。そのおかげで走っているということだけはわかっていた。
走って、走って。
その胸中は絶望が渦を巻いていた。
凜に聞かれた。春香の凜に対する想いを知られてしまった。きっと嫌われてしまった。気持ち悪いと思われてしまった。
思い出すのは過去に言われた春香を傷つけた言葉たち。
『……気持ちが悪い』『そんな人間がいることを私は認められないし、そう思っている人間は頭がおかしいって思っているの』『あなたがそんな人間だって気が付かなかった自分に腹が立つ』『それに……私のことが好き? やめてよ』『どうして。どうしてよ。どうして普通に生きられないの』『男なら男として、女なら女として生きるのが普通でしょ。どうしてそれができないの』『……馬鹿みたい。……絶対におかしいよ』『もう、私に近寄らないで。……話、かけないで』
「あ、あ……。あああああ……。ああああああああああああああ」
叫ぶ。
周りがどうだとかそんなことどうでも良かった。言葉にできない絶望をそうやって口に出さなければ、心がどうにかなってしまうような気がした。
同じ理由で駆ける足を止めることができなかった。立ち止まれば自分が壊れてしまうと思った。壊れることを望んだくせに、それでも立ち止まることができなかった。
けれど絶望は消えてくれない。だんだんと大きくなって、身体全部を侵食し始めていた。やがてそれは死にたいという気持ちを形作っていく。
どうしようもない気持ちが膨らんでいく。
もう、駄目だと思った。
――そして。
春香の右肩がなにかにぶつかった。
衝撃に前へとよろけて、そのまま地面に膝をついてしまう。ミニスカートから飛び出た膝を擦りむいて、ひりひりとした痛みがやってくる。血がにじみ出る膝に視線をやって、それからしゃがんだ姿勢で振り返った。見上げた先には少女がいた。
高校生くらいだろうか。
肩甲骨辺りまでの綺麗な黒髪。陶磁器のように白く透き通った肌。手足が長く、背も高めだ。クールビューティという言葉が似合いそうな少女だった。
春香はどこかで見たような気がした。いつだったか、少し昔どこかで。
「ごめんなさい」
そう言って、少女は少し屈みながら、春香に手を差し伸べてくれる。春香はその手を見つめて、それからまた少女の顔を見上げて。二人の目が合った。
宝石のように輝いた黒い瞳だった。どこまでも深い瞳。それもやっぱり見たことが合って――。
そこで、ようやく春香は思い出した。
「……か、なみ」
心臓の鼓動がはやくなった。その大きな鼓動はどくどくと全身を回っていく。
寿佳奈美。
かつての親友。
かつて春香が恋をした少女。
そして、かつて酷い言葉を春香に浴びせかけてきた張本人だった。
「え……、」
佳奈美は一度困惑した顔をしたけれど、すぐにハッと気がついたように片手を口へと当てた。
「春香……?」
周りの喧騒がかき消えた。
瞬間に立ち上がると、春香は駆け出そうとした。佳奈美から逃げるという選択肢しか春香にはなかった。それ以外のことは考えられなかったし、考えるだけの心の余裕はなかった。
凜に春香の気持ちを知られた。そしてトラウマの原因である佳奈美との再会。その二つの苦しみは心をかき乱して、もはや春香にはキャパオーバーだった。
佳奈美の前での長居はできるわけがなかった。
それなのに、春香は駆け出すことができなかった。なぜならその右手首を佳奈美が掴んでいたからだった。
「待って! 話があるの!」
佳奈美の言葉を無視して、春香は手を振り払おうとする。春香には話なんてなかった。というよりも話をできる状態にない。
身体が震えていた。手足も震えている。そのせいか上手く手を振り払えない。それで立ち上がったはずの足から力が抜けてその場に座り込んでしまう。佳奈美の手が掴んでいる部分がやけに熱い気がした。
離してと言おうとして、けれど開いた口からは言葉が出てこなかった。
心臓が痛い。鼓動が暴れ回っている。胸に手を当てても収まらない。呼吸が乱れ始めていた。
そのことに気がついているのか、それとも気がついていないのか。佳奈美は春香の手首を掴みながら、言葉を続けた。
「春香。私、あなたにずっと言いたかったことがあるの」
言いたかったこと? それはなんだ? きっとまた罵倒されるのだ。酷いことをたくさん言われてしまうに違いない。
春香はそう思ってしまって、さらに心の中に絶望が広がっていく。どんどんと息が苦しくなってくる。
そうやって過呼吸気味になりかけていた時、すっと手首が放される感覚がした。そして背後で誰かが動いたような気配があった。
春香が緩慢な動きで振り返ると、佳奈美が頭を下げていた。深く、頭を下げていた。
「ごめんなさい」
佳奈美はそう言った。
最初、春香は何を言われているのかわからなかった。佳奈美の言葉が意味のない状態で、頭の中をぐるぐると回る。
それはいったいどういう意味だっただろうか。それを理解した時、相変わらず身体の震えはあったけれど、乱れた息が落ち着きを取り始めていた。
「ごめん、なさい……?」
春香は、呆然と佳奈美を見つめていた。




