第四章1B
話し終えた和哉は、小さく息を吐きだした。
春香は何を言うべきなのか考えて、けれどしっくりとくる言葉が見つからなかった。ただ、やっぱり似ていると思った。
好きになった人に好きということができなくて、好きと言う権利のない人間だと思っていて。どうしようもなく悲しい気持ちを抱えていた。だけどそれを押し込めて、我慢して……。
春香の場合は告白してフラれてしまって、酷いことを言われて。そうして我慢しなければならないと思うようになった。
和哉は察しのいい子どもだったのだろう。自分が大多数の人間とはずれているとなんとなく気がついていて、だから最初から我慢していた。
その違いはあれど、我慢することが正しいと信じていたのはきっと同じだったのだろう。
そうやって我慢できると、できていると勘違いしていたのも同じ。
そして我慢することが辛いことだと知ってしまった。
本当に。
春香は思う。
本当に、どうしてわからないくせになんて言ってしまったのだろう。
「……あのさ、俺の話も聞いてくれるか?」
和哉はきっとあまり話したくないと思っていただろうに、それでも自分の辛かった過去を春香に話してくれた。それなら春香も話すべきだと思った。
そうでなければ和哉の決意を無下にすることになる。
春香もなけなし勇気を振り絞って過去を明かすべきだ。そう思った。
けれど、それだけじゃない。
相手が他の誰でもない、和哉だからだ。似たような辛い思いをした和哉相手だからこそ――。
「お前には言えそうな気がするんだ」
「ああ、聞かせてほしい」
春香は一つ息を吐いて、そうして覚悟を決める。
「前にも少し言ったけど俺は、身体は女だけど心は男。トランスジェンダーなんだ」
言ってしまって、それから和哉の顔を窺う。彼は普段通りの顔をしていて、だからどんな感情を抱いているのかはわからなかった。
不安ではあったけれど、それでも話を続けることにした。
語る。過去にあった、辛いことを語る。
小学生の時。一人ぼっちになった経緯。
中学生の時。親友ができたこと。その親友に恋をしてしまったこと。告白したこと。罵倒されて、フラれてしまったこと。
「俺はその後、何もしたくなくなった。学校をサボって怒られもした。自殺しようとしたこともあった。しようとしただけだ」
小学生の頃に初めて辛いと感じた時よりも辛かった。辛かったのだと思う。当時の春香は自分の抱えている感情がどういうものであるのか、わからないでいたから。今になって辛かったのだろうと思えるだけで、それすらも正しいのかわからない。
「やっぱり自分はおかしい奴で、嫌われるのは仕方のねえことなんだ。そればっかり頭にあって。きっともう友だちもできない。恋すら許されない。このまま一人ぼっちなんだ。そう思ってた」
ある時、春香は楽しそうに会話をしながら歩く少女たちとすれ違った。当時の春香より少し年上の高校生だった。彼女たちを見て、羨ましいと思った。
自分が普通であったのなら、あんなふうに誰かと笑い合えたのだろうか。春香はそう思って、辛くなって、耳を塞ごうとした。
けれどその直前、ふと思った。だったら普通になればいいのではないか、と。
「女らしく振る舞えば友だちができるんじゃねえかって。恋はできねえけど、一人にはならない。一人ぼっちの苦しみだけは消えてくれる。そう思った。……だから嘘つきになろうと決めた」
そして夏休み中に勉強した。どうすれば女の子らしくなれるのか。自分の容姿が周りにどんな評価を受けているのか。勉強して、研究して。そして中学二年生の二学期。それは成功した。
「最初はみんな困惑してた。クラスの奴らは暗い俺しか知らなかった。それが急に変わったんだ。そりゃ困惑して当然だ。……けどだんだんと受け入れられるようになって、普通の人間として溶け込めるようになっていった。すっげえ嬉しかったよ」
だからそれでいいと思っていた。それだけで笑って生きていけると。
春香が【魔法少女マジカルドリル】に出会ったのはその頃だ。
マジドリの主人公の一人。【ナツキ】は少女であるけれど、少年のような心を持っていた。ようなというだけで、トランスジェンダーではない。ただ少年が好きそうなものを好きになって、走り回るのが大好きで。いつも顔に絆創膏を貼っているような、少年のように活発な少女というだけ。
春香とは違っていて、けれどどこか似ている。そしてナツキは好きなものを好きだと言える。
周りの人間にそれは女の子らしくないと言われても、それでも『うるせえ、オレはドリルが好きなんだ!』と言い返すことができる。そんなナツキに憧れて、だからマジドリが好きになった。
「だけど、それはそれで俺は辛いと思う時があった。今ならそう言える。……だけど当時はそこから目を逸らして、わからないフリをしてた。お前に言われて、ようやくそこを見た。見てしまった」
心の奥底。春香の知らない自分は自分を押し殺し続けることの辛さに、気がついていたのだ。
目を逸らしていただけで。
だからマジドリというアニメに惹かれ、そしてそれを心の支えとした。きっとそれがマジドリにハマった理由なのだ。
「けど、それがわかっても。俺は自分を隠し続ける。一人ぼっちになるよりマシだ。……一人ぼっちじゃなくなったんだ。だから、もう一人ぼっちになりたくねえんだ」
そう言った春香に、和哉は腕を組んで、何かを考えるように視線を上へと向けた。沈黙の時が流れた。
春香はここまで話した今でも不安を覚えていた。
だから視線を逸らして何も言わない和哉が怖いと思った。
もしかしたら受け入れてくれないのではないか。その恐怖が胸から消えてくれない。
春香は自分が冷や汗をかいていることに気がつく。心臓が強く脈打つのを感じる。
自分の手元と和哉を交互に見つめていた春香に、やがて和哉が視線を戻した。
「……僕にはその怖さが、わかる」
和哉は言いづらそうに、だけど確かにそう言った。今度はちゃんと春香に言ってくれた。
「自分の事情を話したら、みんな離れて行くかもしれない。そう思うと怖いよな」
「……うん」
「ハルのように、実際に拒絶された過去があるのなら尚更。僕の場合は離れていく前に自分から離れて逃げた。ハルは自分を隠す選択をしたんだな」
「……うん」
「だけど、少なくとも僕は受け入れるよ。ハルがそういう人だと認めるよ。……裕樹だって凜だって、きっと受け入れてくれる。他にだっているはずだ」
「そうかもしれない。現にお前は受け入れてくれた。けど他がそうとは限らない」
和哉が受け入れてくれないかもしれないという不安は、確かに今消えてくれた。けれど、それとこれとは別だ。
不安はあった。
それでも話せたのは相手が和哉だったから。それ以外の似たような思いを抱いたことのない相手には、まだ怖くてとても話そうだなんて思えない。
だってそういう経験があった。
似たような思いを抱いたことはないけれど、それでも人柄的に受け入れてくれると思っていた相手がいた。けれど彼女は受け入れてくれなかった。
だから今春香が信頼している他の人間。里中凜や倉持裕樹、湊楓や近藤陽菜。家族。彼らも受け入れてくれないかもしれない。
春香の気持ちがわからないから、気持ち悪いと軽蔑するかもしれない。
そう思うと怖くてたまらない。一歩も動くことができない。
「受け入れてくれる確証がない」
「だけど裕樹と凜は僕を受け入れてくれた。僕だって世間からは普通じゃないと思われている、同性愛者だ。僕は普通だとかそうじゃないだとか、そういうふうにわけることがおかしいと思っている。だけど世間はそういうものだろう。それでも二人は受け入れてくれた」
「けど俺は同性愛者じゃない。トランスジェンダーだ。その違いは世間からしたら大きいかもしれねえ。もっと理解できないかもしれねえ。考えすぎかもしれねえけど、その可能性だってあるだろ」
「それは……。確かに他の人間ならないとは言い切れない。だけど、裕樹と凜は違う。あの二人は理解できなくとも認めてくれるはずだ。特に凜はない。ずっと傍にいたんだ。それは自信を持って言える」
「お前はそうでも俺にはわからない。里中先輩とは仲がいい。それなりに人となりも知ってる。それでもまだ半年ほどの付き合いだ。俺にはそこまでの自信はもてねえ」
「……そう、か。それでも僕は信じてくれとしか言えない。だがたとえ受け入れてくれなかったとしても、まだチャンスはある。この世界は広い。だったら他にも受け入れてくれる人が近くにいるかもしれない。いやきっといるだろう。諦めずに探していけばいい。もちろん手当り次第なんて話じゃない。ハルが信頼できる人を見つける度に確かめていけばいい」
「そうやって話して、全員に嫌われたらどうすんだ」
「……、」
「傷つくばかりだ」
傷が増えていくだけだ。それは痛いだけだ。辛いだけだ。苦しいだけだ。
春香にはきっと堪えられないだろう。
「……それでも、少なくとも僕一人はいる。それでは駄目か?」
「そうじゃねえんだ。確かにお前がいてくれるのはすごく嬉しいし、安心もできる。だけどそういうことじゃねえんだ。……受け入れてくれる人が見つからないかもしれないっていう怖さもある。だけどそれ以上に怖いのは、嫌われることなんだ」
春香はそこで俯いた。
自分の足を見つめ、その右膝を意味もなくゆっくりとさする。冷房で冷えたのか、触れた膝は少しだけ冷たかった。
そうしながら、春香は小さく口を開く。
「俺は……怖いんだ、誰かに嫌われるのが。……自分が信じたい、好きになった相手に嫌われたくねえんだよ」
「だから隠すのか?」
「そうだ」
「……凜への気持ちも?」
「それ、は……。隠したいというよりも消したい」
床に落ちた言葉は静かに広がる。生まれた静寂の中で壁掛け時計が音を立てた。
和哉からの言葉はない。それが先を促す沈黙だと理解して、春香は再び口を開く。
「最初はその恋心も心にしまって、我慢していこうって決めてた。もう一人ぼっちの苦しみはなくなった。それだけでいいと思っていた。だから我慢できると思ってた」
そう思っていたのに。
「里中先輩に恋をして、それで考えちまったんだ。里中先輩もいつかは誰かと恋人になって、幸せになるかもしれねえ。でも……、その誰かは俺じゃねえ」
そう思ったら辛くなった。自由に恋ができないという苦しみがどれほど辛いのか、知ってしまったのだ。知らずボロボロだった心が、ついに崩壊を始めてしまった。
「里中先輩だけじゃない。この先、人生の中で誰かに恋をしたとしても。その誰かは俺じゃない他の人を好きになる。俺のことを恋愛対象として見ることはない。それがどうしようもなく怖くなった。そしたらさ、我慢することが苦しくなったんだよ。だけど我慢しなくちゃいけなくて。どうしようもなく胸が痛くなった」
一人ぼっちにならなければあとは我慢できるなんて、そんな馬鹿な話はありえなかった。
「だからあの時。凛の姿を見つけて走り出したのか」
「そうだ。……だから、そんな思いをするくらいなら消したい。恋愛感情を、消してしまいたい」
「……そう、だな」
それは同意の言葉だった。
呟くような和哉の言葉に、春香は顔を上げる。
対面に座る和哉は片腕をスタッキングテーブルの上において、その白い表面を撫でながら何もない壁を見つめていた。
それはまるで遠い何かを見つめるような瞳をしていた。何もない壁面に自身の過去でも映し見ているのかもしれない。
和哉はそのままで口を開く。
「自分は恋をすることが許されていない。そう思うと。今だけじゃない、未来のことだって不安になるよな。不安になって、それで恋愛感情がなくなってしまえばいいと思ってしまう」
「ああ。だってそうでなきゃどうしていいかわかんなくなる」
「そうだよな、動けなくなる。怖くなってしまう。だけど、」
そこで和哉は言葉を切ると、肘を膝について少し前屈みの姿勢になった。そしてじっと春香の瞳を覗き込んできた。
「それを解決できる方法がある」
「え……、」
「それどころか。……自分を隠さないといけないという脅迫じみた思いも、消すことができるかもしれない」
そんな方法が本当にあるというのだろうか。
春香は半信半疑ながら、その真意を知ろうと続く和哉の言葉を待った。
「ハルは自分の事情を話して、拒絶された過去がある。だから怖いんだろう? また同じ目に遭うんじゃないかって。だから必要以上に自分を隠してきた。恋をしていけないと思ってきた」
春香は小さく頷く。
それはすべてその通りだった。今の怖がりな春香がいるのは、過去の出来事のせいだ。拒絶され自分を否定されたという過去の出来事が、春香のトラウマになっているのだと思うのだ。
「だから。だからこそ、ハルは凜に告白すべきだ」
「……何を、言ってんだ」
春香は本当に意味がわからないと思った。それのどこが解決策というのだろうか。
春香の気持ちを知ってか知らずか、和哉はなおも言葉を続ける。
「ハルは凜を信じきれない。知らない部分がまだあるからだ。だったら知ればいい。凜は他とは違う僕たちを否定なんてしない。悪い奴でない限り、あいつは嫌いなんかならない。それを自分で確かめてみるしか、ハルのトラウマは消えない」
「……なんだよ、それ。それができねえから恋愛感情を消したいって言ってんだぞ」
春香は呻くように口にした。
それができたらここまで悩むなんてことはない。苦しい思いをしないで済んでいたはずだ。
「わかっている。だからできるかできないかの話はしていない。僕は解決策の話をしているだけだ。だがこんな荒治療でもしなければ、自力では解決の難しい問題なのは確かだ」
「……、」
「誰かに否定された経験があるなら、誰かに認めてもらう経験を作る。そうすることで否定されるばかりではないという納得ができるようになる。……僕がそうだった。僕は自分が否定されることのある人間だと知っていた。だから誰にも認められないんだと勘違いしていた。その勘違いに気がつけたのは裕樹のおかげだ。裕樹が僕という人間を認めてくれたから、今の僕がいる。……ありのままの僕でいられる」
筋は通っているように思えた。なにより和哉の経験からくる解決方法だ。説得力はある。
「……無理だって言ってんだろ」
けれど駄目なのだ。頭で理解しただけでは行動に移せない。だって和哉が言うように春香には誰かに認められたという経験をしていない。経験がすべてなのだ。
「無理に決まってる。俺にはそんなこと、できるわけがねえ。このままでいるしかねえんだよ」
「それでいいのか? このまま苦しさを抱えたままで、本当にそれでいいのか?」
よくはない。いいわけがない。このままでいいだなんて思っているわけがないのだ。
わかっている。今のままでは苦しみは増していくのだと、わかってはいるのだ。わかっているけれど、変えるための行動をする勇気がない。
この先が地獄だとわかっていて、それでもその道を進むことしかできない。背後に広がるのもまた地獄だとわかっているくせに、それでも別の地獄へと進んでいる。
その先で壊れた自分がいるのだろう。それでも歩みを止められない。
たとえ別の明るい道を示されたとして。その道へ行くために切り立った岩壁を登らないといけないのなら、頂上の光を羨ましいと思いながら通り過ぎるのだ。
その岩壁を登って傷を負ってしまうことが嫌だから。怖いから。
だって一度落ちてしまった記憶がある。落ちた時の痛みを知っているのだ。だから怖い。
「一人ぼっちになった時のことが忘れられねえんだ。好きな人に否定された時のことが忘れられねえんだ。この苦しみが消えるなら、本当はどんなことでもしたい。でも怖いんだ。できないんだ」
「難しいことはわかっているつもりだ。だけどたった一度でいい。僕を信じてくれ。今すぐにとは言わない。ゆっくりでいい。……もし間違っていたら僕を恨んでくれてかまわない。だって好きなんだろう。このままじゃ後悔することになる」
「好きだからこそだ。……俺は里中先輩を胸が苦しくなるくらい好きだから。……だから、無理だ」
だって、好きな人に嫌われるのは辛い。苦しい。痛い。
ああ、なんて自分は怖がりなのだろう。笑い出したいくらいに情けなくて、泣きたいくらいに無様だ。
春香は強く拳を握りしめて堪えて、けれど頬を伝う雫は静かにゆっくりと流れ落ちていく。止まらない。
「里中先輩が好きだ。どうしようもなく好きだ。だから嫌われたくねえ。嫌われるくらいなら壊れってしまった方が……、」
言ってから、そうかと気がつく。
春香は自分が壊れかけであると知っている。このままであれば確実に壊れてしまうことだろう。壊れるということはきっと心が死んでしまうということなのだろう。
それはつまり、痛みも苦しみも感じなくなるということなのではないだろうか。
それだけではないのだろう。
喜びも幸せも感じられなくなるのだろう。ロボットのようになるのだろう。
それは人間にとっては悲しいことではあるけれど、今の春香にはとても幸福なことのように思えた。
だったらいっそのこと壊れてしまった方が――。
スタッフルームの扉が勢いよく開かれたのはその時だった。
「それは駄目!」
そこに立っていたのは焦ったような顔をした里中凜だった。