行間C
その日、葛木春香はゴミ捨て当番だった。
春香の通う高校の本校舎は四階建てで、一年生の教室は二階にある。
その上が二年生、さらに上が三年生の教室となる。
一階には昇降口、職員室、放送室、家庭科室等がある。
ゴミ捨て場は特別教室棟の裏手にあるということで、一旦昇降口から外へ出る必要があった。
春香は教室を出て、階段を下る。
昇降口へと向かう。
昇降口について、校内用スリッパからローファへと履き替える。そして外へと出た。
昇降口前には大きな桜の木が一本あって、春香はなんともなしにそれを見上げる。
入学式の時は満開で綺麗な桜色だったのに、今はもう見る影もない。
日本の桜はソメイヨシノが多いらしい。
春香には判別することは難しいけれど、きっとここにある桜もそうなのだろう。
それは満開から一週間ほどで散ってしまうという。
だから仕方のないことなのだろう。
高校一年生の春だった。
高校生になったばかりでまだ制服も馴染んでいないし、校内の地図もしっかりとは頭に入っていない。
ゴミ捨て場に行くのも初めてで、特別教室棟の裏に行くにはどういうルートがいいのかもまだわかっていない。
だからキョロキョロと辺りを確認するように移動していく。
歩きながら考えて、本校舎の裏に回って特別教室棟の裏を目指すことにした。
そうして本校舎の裏にたどり着くと、どこからか話し声が聞こえてきた。
辺りを見回すと、声の元はすぐに見つかった。
人目につきにくい校舎の影に一組の男女が立っていた。二人は向かい合っていて、会話をしている。
その雰囲気はどうも普通ではないような気がした。
その雰囲気を感じたせいか、春香は思わず隠れてしまった。
そんな春香の耳に会話が聞こえてくる。
盗み聞きするような趣味はなかったけれど、聞きたくなくても聞こえてしまう。
「先輩、こんなところに呼び出してごめんなさい」
そう言ったのは少女の方だろう。声が高い。
「いや、別にいいんだけど。どうした?」
「えっと、その」
「うん」
「なんていうか、その。あたし、先輩のことが好きみたいです」
その言葉を聞いて、春香は気がついた。
二人を見て感じた普通ではない雰囲気はこういうことだったのだ。
春香も体験したことがある。
だからその雰囲気に気がついたのだろう。
ただ違うのは好きだと言った少女の声色に緊張からくる震えはなかったこと。
春香の時は自分でもわかるくらい震えてしまっていた記憶がある。
この少女はメンタルが強いのかもしれない。少し羨ましいと思った。
本当は立ち去るべきなのだろうけれど、なにか物音を立てて邪魔はしたくなかった。
動かなければ物音を立てる可能性は限りなくゼロになるだろう。
だから春香はその場から動けずにいた。
「えっと……、それは」
「もしよかったら、あたしと付き合ってくれませんか?」
「……ずいぶんと軽く言うんだね」
「あたしはこういう性格なんです。知ってますよね?」
「まあ、そうだね。……だけどさ、里中だって知ってるだろ。俺のこと」
「彼女さんがいるってことですか?」
「そうだよ」
「それでもです。それでもあたしは告白したかったし、付き合えたらいいなって思ったんです。返事がほしいって、思ったんですよ」
「そっか。里中らしいね。……でもごめんな。俺、今の彼女が好きで、大切にしたいと思ってる。だから……、」
「はい」
「ごめん。里中の気持ちは嬉しい。だけど、付き合うことはできない」
「……先輩、なら。そう言うと思ってました。わかってました。そういうとこが、好きだったので」
「……ごめん」
「何度も謝んないでください。これでもあたし、ホッとしてるんです。先輩が今の彼女さんを裏切るようなマネしたらぶん殴るところでしたよ」
「……それは、嫌だな。里中の拳は痛そうだ」
「どういう意味ですか、それ」
「はは、深い意味はないよ。……ありがとな、告白してくれて」
「……いえ」
その少女は振られたはずだった。
それなのに泣いたような声には聞こえない。相手すら暗くさせる声色ではなかった。
悲しみも落ち込みも感じられない。逆に声色には明るさが混じっている気さえした。
それが春香には不思議だった。
その顔はどうなっているのだろうか。その表情も暗いものになっていないのだろうか。
気になって、春香は顔だけを物陰から出す。
少女の表情は笑顔だった。太陽のように眩しい笑顔。暗さなんて微塵もない。
思わずその笑顔に見惚れてしまっていた。
と、その時。
春香はその少女と目が合ってしまった。
慌てて顔を引っ込める。
見つかってしまった。どうするべきか。
考えている間に足音が聞こえてきた。何か文句を言いにくるのかもしれない。
覚悟を決めた時だった。人が現れた。
けれどそれは少女の方ではなく少年の方だった。
目が合って、彼は足を止めた。
胸元には三年生を示す【Ⅲ】の形をした学年章があった。
春香が軽く会釈すると、少年は少し考えるように春香を眺めた。
そうしてから、春香の持つゴミ箱を見たのだろう。
「あ、ゴミ捨て場か。中庭突っ切っていった方が早いよ。ここまで来たらもう遅いけど」
「え、あ……。は、はい。ありがとうございます」
「それじゃあ俺は行くよ。……あ、そうだ。入学おめでとう」
そう言って、三年生の先輩は立ち去った。
呆然と彼が去っていった方を見つめていると、ポンと肩を叩かれた。
振り向くと、すぐ傍に少女が立っていた。
告白をして、フラれてしまったあの少女だった。
「やあ、一年生ちゃん」
「こ、こんにちは」
少女の学年章は【Ⅱ】の形。二年生だった。
「一年生ちゃんさ、名前は?」
「……く、葛木、春香。……です」
「なるほど、春香ちゃんか。あたしは凜。里中凜。見ての通り二年生だよ。よろしくね」
握手を求めるように片手を差し出してきたので、春香は条件反射でその手を握る。
彼女の手は柔らかくて、そして温かった。
「よ、よろしくお願いします」
少女、里中凜の手の柔らかさにドギマギしながら返す。
「さて、春香ちゃん」
「は、はい」
「話、聞いてたでしょ」
「あの……、はい」
「素直でよろしい。それじゃ罰としてあたしの話に付き合ってもらうから」
「話、ですか?」
「うん」
そう言って、凜はニッコリと笑った。
「それでね、気がついたんだ。先輩が好きなんだって」
凜はそう言って話を締めくくった。
校舎の壁に背中を預けて、春香と凜は並んで立っていた。
凜はどこか楽しそうに、校舎裏にあるちょっとした雑木林を見つめていた。
春香と言えばその横顔を見つめていた。
あの後。
凜が罰として話に付き合ってと春香に言った後、凜が話し始めたのは彼女の恋愛話。
彼女があの三年生に恋をするまでの話だった。
「あの」
「ん?」
「どうしてわたしにその話を?」
「なんとなくね、誰かに聞いてもらいたかったんだよね。ケジメってやつをつけたかったのかも」
「ケジメ、ですか?」
「うん、この恋はもうおしまいっていうケジメ。告白自体もね、そういう気持ちでしたの」
春香は凜の告白シーンを思い出す。
あの時、凜は相手には恋人がいると言っていた。
それを知っていながら、それでも告白をしたのだと。それでも返事がほしかったのだと。
つまりフラれる覚悟もしていたのだろう。
叶わぬ恋だとどこかで気がついていたのだろう。
だからケジメをつけようと思ったのだろう。
どうして。春香はそう思った。
振られるとわかっていたのに、どうして告白なんてしたのだろう。
振られるということは、好きではないと言われるのと同義だ。
それは辛いことなのではないのだろうか。
わかっているのなら、それを聞かないようにするのが自然じゃないのか。
少なくとも春香ならそうする。
無駄に苦しむのは嫌だった。
「……どうして、ですか」
「なにが?」
「里中先輩は振られるってわかっていたんですよね? それなのにどうして、告白なんてしたんですか?」
「後悔しないためだよ」
即答だった。
凜は何かを悩むような表情も見せず、すぐに答えてみせたのだ。
「後悔、ですか?」
「うん。……たとえ叶わない恋だとしても、告白しないと一生後悔するって思ったんだよ。だから告白したんだ」
強いと思った。
春香なら嫌われることが、相手は自分を好きではないと知るのが怖くて踏み出せないだろう。
ましてや振られるという結果がわかっているのなら尚更。
告白して嫌な思いをするくらいなら恋心を押し込めたほうがいい。
けれど、里中凜は違った。
振られるとわかっていながら、後悔したくないから告白をした。
辛くなるはずなのに、悲しくなるはずなのに。
強いと思った。怖がってしまう自分とは違う。
凜は春香にないものを持っている。
羨ましいと思った。
この人みたいになれたら。そんな風に思った。
それは憧れだったのだろう。
春香は凜に憧れて、彼女に惹かれたのだろう。
それが、春香と凜の出会いだった。
やがて憧れが恋心になることを、春香はまだ知らない。




