第三章8
その日のCloud houseでの春香は、笑顔を崩さないように努めて、なんとか仕事をこなしていた。
今日は和哉も休みで、違う男性スタッフが彼の代わりをしていた。それに凜もいない。
そのおかげということもあるかもしれない。
かといって二人が勤務の日に休むなんてことはもうできない。
そんなものはただのわがままというやつだ。子どものすることだ。
だから本当は慣れるべきなのだ。
たとえそれがどうしようもなく辛くても。
「いってらっしゃいませ、ご主人様!」
春香はそう元気がありそうな声で言って、退店する二十代の男性客に頭を下げた。
扉を開ける音とともにベルが鳴って、それから扉が閉まってまたベルが鳴る。
音が鳴り止むと、周りの人に聞こえないように、そっと息を吐き出した。
仕事の方はもう慣れていた。
仕事内容もそうだけれど、残念なことにメイド服に袖を通すことにもだいぶ慣れた。
嫌だという気持ちはある。あるけれど、仕事だと割り切れるようになっただけだ。
けれど、メイド服に慣れてしまっているという事実が春香を悲しくさせた。
そんな悲しみを頭から追い出して、仕事に戻ることにした。
いつまでも呆然とできるような時間ではない。
退店した男性客が座っていた席に行って、テーブルを台拭きで拭いていた時だった。
来客を報せるベルの音が店内に響き渡った。
顔を上げて扉の方を確認してみると、ヘッドホンをつけた少年が入ってくる様子が見えた。
彼は入店してすぐにヘッドホンを首へとかけ直した。
その少年は一ノ瀬和哉の恋人、倉持裕樹だった。
今日の裕樹は。白の半袖パーカーに迷彩柄の膝丈ほどのカーゴパンツ。紺色ベースのランニングシューズ姿。
彼はいつもだいたいパーカーを着ていて、今日も例に漏れずという感じだった。
けれどいつも同じパーカーではないから、きっとパーカーが好きなんだろうなと春香は勝手に思っていた。
周りを見回してみると、手が空いているメイドはいなかった。
みんなそれぞれに接客をしている。春香が対応するしかなさそうだった。
手早くテーブルを拭いて台拭きを戻すと、すぐに裕樹のもとへと向かった。
「おかえりなさい、ご主人様!」
裕樹を接客するとき、時々その顔を見てお嬢様かご主人様か迷ってしまうことがある。
ご主人様でいいはずなのにわからなくなってしまう。
極稀に一瞬だけ右と左がわからなくなる、あの感覚に似ている。
ちゃんと考えたら思い出すあの感覚。
それはやっぱり中性的な顔だからなのだろう。
カウンター席を希望したので、裕樹をそこへと案内する。
「今日はかず……一ノ瀬くん休みだけど、どうしたの?」
椅子に座った裕樹と対面になるためにカウンターをくぐり抜けてから、春香はそう言葉を口にした。
裕樹がCloud houseにやってくるのは大抵和哉がいる時で、それはバイトが終わったあとでデートをするためであるらしい。
それ以外で来ることはあまりないというのが、裕樹に対する春香の印象だった。
だから和哉がいないのに裕樹が来店するのは珍しいことだった。
「ちょっとここのハンバーグカレーが食べたくなってね。好きなんだ、ここのハンバーグカレー。メイド喫茶にしてはリーズナブルだしね」
「そうなんだね。じゃあ注文はハンバーグカレーでいいかな?」
「うん、大盛りでお願いします」
裕樹とはもう何度も顔を合わしたし、会話もしてきた。だからもうある程度は仲が良くなっていた。少なくともタメ口で話せるくらいには。
「……あのさ」
春香が注文を厨房に伝えて戻りお冷を出した時、裕樹がそう話しかけてきた。
「どうしたの? ゲームでもする?」
笑顔を意識しながら問いかけると、裕樹は「そうじゃないんだ」と言って首を横に振った。
それから少し悩むような表情を浮かべて、やがて決意したように口を開いた。
「なにかあった?」
「なにもないけど……どうして?」
「なんか、元気なさそうに見えたから」
「そう? でも、もしかしたら少し疲れてるのかも」
笑って誤魔化す。
「そうじゃなくて。うーん、なんて言えばいいのかな」
裕樹は水が入ったガラスのコップを、その冷たさを感じるように両手で握って、その視線を水面に向ける。
何かを考えるようにそうしていた彼はやがて顔を上げて、春香の瞳を見つめてきた。
「……昔のカズくんみたいだなって」
そう言った裕樹に春香は首を傾げてみせる。
単純にわからなかった。
どうしてここで和哉の名前がでてくるのか。昔の和哉とはどういうことなのか。
「それってどういう……、」
「ボクに告白してくれる前、カズくんすごく元気がないというか。笑っていてもどこか辛そうだったんだ。実際に辛かったみたいで」
「辛いってどうして?」
和哉という人間は他人からの評価を気にしない。
同性愛者であることを好きになったのだから仕方がないと言い、世間が何を言おうがどうでもいいと言ってしまえるのが和哉だったはずだ。
そんなに強い彼が何を辛がるというのか。
まさか春香のように普通ではない恋をしてしまったと苦しんでいたわけではないだろう。
想いを伝えてはいけないなんて、そんな辛さを抱えていたとか。今の和哉からは想像のできないことだった。
ありえないとも思ってしまう。
だけど。そのはずだったのに。
裕樹は悩むように俯いて、コップを指先で軽く叩く。
ガラスが小さな音を立てて、中の水が揺れる。
なんとなく春香もその水面を見つめていると、「あのね」と裕樹が呟くように言った。
春香は顔を上げて、視線を裕樹へと戻した。
裕樹はまだガラスコップを見つめていたけれど。
「そのさ。……こっちから言い出しておいて勝手なことだけど、ぼくからはあまり詳しく言いたくはないし言えない。それでもいいかな」
そう口にしてから、彼はゆっくりと顔を上げた。
裕樹はコップから手を離して、カウンターテーブルの下に手をおろした。
春香は小さく頷いた。
「……ぼくたちって普通の恋愛関係とは言えないじゃない? そういうあれでさ、カズくんもすごく苦しんでた時期があったんだよね。……そのときに見せた笑い方に似てたんだ、今の春香ちゃんの笑顔がね」
「……、」
意外だった。
あんなに他人はどうでもいいと言っていたのに昔の和哉は苦しんでいた。
詳しくはわからないけれど、その気持ちはわかる気がした。
だってそれは今の春香と同じだったから。
「なにもないならいいんだ。でも、もしもなにかあるのなら誰か。春香ちゃんが信頼できると思った人に言ったほうがいいよ」
それは和哉にも言われた言葉。
和哉も裕樹も、一人で抱え込まないほうがいいと言ってくれたのはそういう経験があったからなのだろう。
それなのに、春香は何も知らないくせして「わからないくせに」なんて言ってしまった。
本当にわかっていないのは春香自身だった。
わかってほしいと願っていたのに、春香は和哉をわかろうとしていなかった。どうせわからないと決めつけていた。
わかろうと、知ろうとしなかったのは春香だったのだ。
それなのに勝手にすべてを諦めて、和哉に酷いことを言ってしまった。
本当にわかってほしかったのなら和哉のことを知ろうとするべきだった。
同じじゃないから和哉のことがわからないと、違うのだと否定すべきじゃなかった。
すぐに否定せずに、もっと踏み込んで理解しようとしていれば、今とは違う未来が待っていたかもしれない。
和哉には謝らないといけない。
そう春香は思った。
「余計なお世話だったかもしれないね。でもね。……ぼくは後悔してるから。もっと早くカズくんのこと、気づいてあげていればって。だからせめて……。そう思って」
「そっか……、」
「……春香ちゃんさえよければ、話す相手はぼくでもいいからね」
「うん。……心配してくれて、ありがとう」
「うん」
「でもその前に、やらないといけないことができたよ」
「やらないといけないこと?」
「そうだよ。いちの……和哉くんに謝らないといけないんだ」
春香は小さく頷いた。
和哉に謝る。
すべてはそれからだ。
「……そうなんだね」
事情なんて何も話していないけれど、それでも裕樹は何も聞かずに、少し笑ってそう言ってくれた。
「……あのさ」
コップに口をつけて、水を飲んでいる裕樹を見て、春香は静かに声をかけた。
少しだけ勇気が必要だった。気恥ずかしかったのだ。
それでも裕樹に聞きたいと思ったことがあった。
「ん?」
「裕樹くんは、和哉くんのどこが好きなの? できれば教えてほしいなって」
和哉がどういう人間なのか。春香はもっと知りたいと思ったのだ。
もう遅いのかもしれない。手遅れなのかもしれない。今さらすぎるのかもしれない。
それでも知るべきだと思った。
知って、少しでもわかりあえたのならいいと思った。
ゆっくりでも、少しずつでもいいから。
「……少し、恥ずかしいな。でも、そうだね。カズくんはああ見えて優しいんだ。普段はからかうようなこと言ってきたり、そういう人なんだけど。けっこう人を見ていてね。気遣ってくれたりしてくれるんだ」
裕樹は少し恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに和哉の話をしてくれた。いろんな話を。
春香はその話を聞き続けた。
和哉について春香が知らなかったことを聞いた。
和哉と裕樹が出会った時のこと。和哉の好きなもの、苦手なもの。得意なこと。不器用だということ。意外にも遠慮することがあるということ。
本当にいろんなことを聞いた。
それは裕樹が退店する直前まで続いた。




