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第三章6

 気がつくと、春香は高架下にいた。

 小学生の頃、いつも鬱ぎ込んでいた場所だった。

 どうやってここまで来たのか。よく憶えていなかった。


 途中で電車に乗った記憶はあるけれど、その後はわからない。

 フラフラと柱に近寄って、崩れるように座り込んだ。

 まだ少しぼうっとする頭を柱にもたれさせた。日陰だからか少しだけ冷たい。


 熱を持った頭を冷やしてくれる。

 携帯を取り出して電話をかける。かけた先はCloud house。

 電話口に出た店長にバイトを休む旨を伝えた。


 理由は体調不良とした。

 もう間に合わないし、働ける精神状態ではなかった。

 集中して仕事ができる自信はない。


 それはきっと店にとっては迷惑でしかないだろう。

 このまま店に迷惑をかけるくらいなら休んだほうがいいと考えた。

 和哉との約束を忘れたわけじゃない。けれど理由は体調不良だ。


 和哉だってそこまで鬼畜ではないはずだ。そう信じたい。

 信じたいだなんて。

 信じてしまったことを後悔したくせに、それでもまた彼に縋ろうとしている。


 なんて自分勝手なのだろう。

 通話をしながら、春香はそんなことを思った。

 その後店長と二、三会話をして通話は終わった。


 しばらくじっと座っていた。

 川の流れる音。そして時折上を走っていく車の音と、それが揺らす高架の音が聞こえる。

 あの頃と同じ。河川敷は何も変わっていない。


 そして春香も。

 身体は成長しているはずで、それなのにどうしてかそう思った。

 心が疲れたような感覚がしていた。


 そのせいか感情の昂ぶりは治まっていて、けれど胸のざわめきはまだ残っていた。

 あのどろどろとした何かはまだ心の中にあった。

 自然、春香の頭に思い浮かぶものがあった。


 それは昔の記憶。

 中学生の頃の記憶だった。



『……気持ちが悪い』『そんな人間がいることを私は認められないし、そう思っている人間は頭がおかしいって思っているの』『あなたがそんな人間だって気が付かなかった自分に腹が立つ』『それに……私のことが好き? やめてよ』『どうして。どうしてよ。どうして普通に生きられないの』『男なら男として、女なら女として生きるのが普通でしょ。どうしてそれができないの』『……馬鹿みたい。……絶対におかしいよ』『もう、私に近寄らないで。……話、かけないで』



 一言一句。今でもすべて覚えている。

 辛くて苦しいはずなのに忘れることができない。

 辛い思い出は忘れるなんて言うけれど、春香はそれを嘘っぱちだと思った。


 中学生の頃、春香は恋をした。初恋だった。

 相手は同級生で、唯一友だちと呼べた存在。親友とまで言ってくれた女の子。

 彼女に想いを告げたのは中学二年生になったばかりの頃。春だった。


 勇気を振り絞って告げた。

 春香の事情と、好きだという気持ち。

 恋人になれると思っていたわけじゃない。それでもその気持ちだけは認めてくれると思っていた。


 事情を話したわけではないけれど、それでも自分のような他とは違う存在を受け入れてくれた。

 だからわかってくれると信じていた。

 けれど、だめだった。


 振られた。

 春香の事情を拒絶された。

 春香の想いは気持ちが悪いと言われた。


 散々なことを言われた。罵倒された。絶交された。

 振られて、酷いことを言われて、傷ついて。そうして知った。自分が女の子を好きになることは間違っているのだと。

 こんな普通じゃない自分は、恋をすることが許されていないのだと。


 そうして、春香はたとえ恋をしても、もう誰にもその気持ちを明かさないことに決めた。

 普通じゃないから普通であろうと決めたのもその時だった。

 だから、凜を好きになった時も隠そうと思ったのだ。


 そうやって押し殺して生きていけると思っていた。

 自分が好きという感情を隠せばいいだけ。ほんの少し胸が痛むだけ。ただそれだけ。

 そうすればみんなに嫌われないで済む。もう一人ぼっちにはならない。


 それだけできっと幸せになれて、だから我慢して押し殺して生きていける。

 そう、思っていたはずなのに。

 この感情はなんだ。


 どうしようもなく苦しいこの胸はなんなのか。あの二人を見た時、心の奥底から一気に溢れ出したこれは。

 仄暗くざわめくような、重くなるようなどろどろした何か。

 寒気がするこの気持ちは何だと言うのだろうか。


 答えはわかっている。

 本当は最初から気がついていた。

 幼い頃、暗闇を見る度に感じたことがある。


 人間はいつか死ぬと初めて知った時にも感じた。

 小学生の頃、友だちが離れていってこのままずっと一人ぼっちなんじゃないかと思った、あのときにも感じた。

 これは、不安だ。


 それは恐怖と表裏一体に蔓延る不安。

 もしあの男が凜の恋人ではないとしても、この先にその時はやってくるかもしれない。あの男が凜の恋人になる日がくるかもしれない。

 そうなれば自分はきっと悲しい気持ちになる。


 辛いし、苦しいだろう。今よりもずっと。

 それだけならまだいい。

 けれど、この先の人生で好きな人ができる度にそれは繰り返される。


 そう思うと逃げ出したくなるほど不安になったのだ。

 それはきっとどうしようもないことだ。

 自分の心が男で身体が女である限り、どうすることもできないことなのだ。


「好きだなんて感情いらなかった。なんで、どうしてこんな感情があんだよ……、」


 こんな感情がなければ、こんなに苦しむことなんてなかったのに。

 高架下から見える川面に目をやって、それから膝を抱えて、その膝に顔を埋めた。

 もう何も考えたくなかった。


 こうやって視界を塞いで、現実から目を逸らして、そうやってずっと動かずにいたいと思った。

 そうしたところで何も変わらないのだと、知っていながら。


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