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第一章2

 ほんの出来心だった。

 キャップを目深に被り、半袖とハーフパンツの上下ジャージを着た葛木春香は、誰もいない公園にいた。

 普段の春香を知っている人が今の服装を見たのなら、全員が全員違和感を抱くことだろう。


 上下ジャージは黒に白のラインが入っている暗めのもので、大抵は男子が好みそうな色合いだろう。それに少しだけボロボロになっている箇所もある。

 髪は縛っておらず、肩にかかりそうな長さのそれは風に吹かれて微かに揺れていた。

 被っているキャップだって普段の春香なら選びそうもない、可愛さのかけらもないものだった。

 強いて言えば、背負っている薄桃色のミニリュックだけが普段の春香らしい。


 普段の春香なら、友人の前で絶対にこんな格好はしない。学校ではもちろん、私服もそうだ。

 絶対にスカートだし、髪だっていつも縛っている。ボロボロの服なんて着ないし、もっと可愛らしい色合いのものを選ぶ。

 人前では少女らしい格好をしているのだ。

 春香が今の格好をするときは決まって一人でいるときだけだった。


 理由は男っぽい格好を好むと思われたくないから。たったそれだけの理由だった。

 だからキャップを目深に被っているのも、万が一知り合いに会ったときに別人だと思わせるためだった。

 それは家族にも適用される。だから家を出るときは少女らしい服装で、公園のトイレなどでジャージに着替える徹底ぶりだ。


 そんな春香は公園内にある、古びたコンクリート壁のトイレを出たすぐ近くのベンチに座っていた。そしてすぐ隣の座面を見つめていた。

 そこには放置されたとある雑誌がある。


 表紙には赤と白でできた縞模様のナニかを持った女性が、どうしてか半裸状態になっているイラストが描かれていて、隅の方にアラビア数字の十八が斜線で消されたよくわからないマークがあった。

 ナニかわからないその雑誌を春香はじっと見つめていたのだ。


 どれほど見つめていたか。春香は一度顔を上げ、辺りをキョロキョロと見渡す。小さな公園なので全体を見ることができた。

 昨今は遊具が危険だといって撤去されている場所が多いというけれど、例に漏れずこの公園も不自然に遊具が少ない。春香が小学生の時にあった回転ジャングルジムやシーソーすらも今はない。

 幸いにして、公園内には誰もいなかった。春香だけしかいない。


 視線を雑誌へと戻す。そしてゴクリと唾を飲み込んだ春香は、そっと雑誌へと手を伸ばす。

 心臓が早鐘を打っていた。やがて、蝉の声が響く中で、雑誌を掴んだ音がした。

 もう一度辺りを見回して、春香は雑誌のページをめくった。


「……やばいな、これ」


 ポツリと呟く。


「え、マジで? マジでそんなことしちゃうのか」


 あまりの内容に、思わず身を乗り出してしまう。

 勢いがよかったのかキャップが地面に落ちたけれど、雑誌に夢中になっていた春香は気が付かない。ただ興奮に身を任せ、ページを次々とめくっていく。


 こんな姿を知り合いに見られたのなら、きっと今までの評価は崩れ去るだろう。というよりも、真っ昼間から公園で表紙も隠さず【少女】がエロ本を読んでいたら、誰だってギョッとするはずだ。

 春香はそれが嫌だった。少女らしくないと誰にも思ってほしくはなかった。

 だから早く読むことをやめるべきなのだ。やめるべきなのに。わかっていても手が止まらない。性的探求をやめることができない。もはや取り憑かれていた。


 だからだったのかもしれない。近づいてくる人の気配に気がつくのが遅れた。

 ガサリという音がした。ビニール袋が揺れたような音だった。

 ゆっくりと。春香は顔を上げた。


 そこに立っていたのは、コンビニのビニール袋を持った少年だった。白いシャツにジーンズ、スニーカーというラフな格好の彼は、感情の読み取れない表情で春香を見つめていた。

 その少年は、あろうことか春香の知り合いだった。


 一ノ瀬和哉。それが少年の名前。

 春香のクラスメイトで、けれど言葉をかわしたことはあまりない。だから仲がいいわけではないけれど、クラスメイトだから顔と名前くらいは知っているし、彼もまた同じはずだ。

 他人でもなければ友だちでもない。けれど互いのことは少しだけ知っている関係。いわゆる、ただのクラスメイトというやつだった。


 和哉の顔を見て、春香はすぐにキャップをもっと深くかぶろうとして、手を空振った。そしてようやく、頭からキャップがなくなっていることに気がついた。

 春香は自分を見下ろして、自分の服装を確認する。それからまた和哉へと視線を戻す。もう一度下を見下ろして、今度は手元の雑誌を確認する。また和哉へと視線を向ける。

 そして、頭の中が真っ白になった。


「……えっと」


 和哉がそう口にして、後頭を掻く。そこで我に返った春香は、慌てて雑誌をベンチの上に投げ捨てた。そして「あはは」と誤魔化すために笑った。

 自分でも下手くそな誤魔化し方だと思ったけれど、頭の中がぐちゃぐちゃになっていて他に方法を思いつけなかった。


「……まさか、それで誤魔化しているつもりか?」


 案の定、誤魔化すことはできなかった。春香は何も言うことができない。

 和哉はそれからしばらく黙っていたけれど、春香からの返事はないと悟ったようで、再び口を開いた。


「いや、でも驚いたな。君みたいな子がそういうものに興味があるとは。人は見かけによらないとはこのことか。意外とエロいのな」


 和哉はからかうようにニヤリと笑った。

 意地悪な笑顔だ。その言葉もそうだったけれど、その笑い顔は春香を少しだけ苛立たせるものだった。

 この男はきっと性格が悪い。本能的にそう思った。


「まあでも、女がそういうものに興味があってもいいんじゃないか? ……じゃあ、僕は行くから。お楽しみを邪魔して悪いな」


 そう言って、和哉は背を向けた。そのまま歩き始める。そんな背中を追いかけるように、春香はベンチから勢いよく立ち上がって、和哉へと駆け寄った。和哉の腕を掴んで立ち止まらせる。


「待ってくれ! これは違うんだ! エロい本だって知らなくて!」


 あんな意地悪な笑顔を浮かべるような男だ。楽しそうに誰かに言いふらしてもおかしくはない。だから必死に呼び止めたのだった。どうにかして誤魔化すために。


「……あの表紙でそれはないと思うが」

「い、いやそれは……。なんというか。とにかく違うんだよ!」

「誤魔化すのが下手だな」

「ご、誤魔化す? な、なんことだか」

「エロい本が読みたかったから読んでいたんだろう? 認めたとしても僕は悪いとは言わないぞ」

「や、やかましい! 違うって言ってんだろ! たとえ読んでたとしても読んでない!」

「えぇ……、」

「だ、だいたいあんなところにエロ本置いてる奴が悪い。そんなの読んじゃうに決まってんだろ!」

「語るに落ちたな」

「……頼む」

「え?」


 春香はその場で正座になると両手を地面につけた。そして、頭を下げる。勢いがよすぎて額を地面に打ち付けてしまう。

 そう、春香は。それはもう綺麗な土下座を決めたのだった。


「頼む! 誰にも言わないでくれ!」


 体裁など気にしている余裕はなかった。和哉に見られた行為を他の誰にもバレたくない。その思いしか頭になかった。

 和哉に見られてしまったことはもうどうしようもない。けれどこれ以上の人間には知られたくない。知られるわけにはいかない。


 今周りに持たれている葛木春香のイメージを壊すことは、絶対に阻止しなければいけない。

 葛木春香という人間がエロ本を読むことはあってはならないのだ。


「土下座って……、そこまでするのか。というかいつもと口調が違うのな」

「……しまった」


 和哉に言われて自分のもう一つの失態に気がついた。

 慌てていたせいか、一人でいるときの口調で話しかけてしまったのだ。いわゆる、男口調というやつだ。

 普段なら少女らしい柔らかい口調をするように努めていたはずなのに、どうしてこうなってしまうのか。春香は自分で自分をぶん殴りたいと思った。


「だ、誰にも言わないでほしいの。お願い」

「口調変えてももう遅いと思うが」

「……このことも誰にも言わないくれ。……なんだってするから、頼む」

「別に、誰かに言うつもりなんて……。いや、待てよ?」


 なにかを考え出した様子の和哉の顔を、春香は不安になって見上げる。

 なんでもすると言ったのはいいけれど、今になってそれを後悔し始めていたのだ。余裕がないとはいえ、どうしてそんなことを言ってしまったのだろうか。

 相手は男子高校生。そんな年頃であれば性的なナニかを期待してもおかしくはない。


 そしてたとえそうだとしても春香は引くに引けない。男の相手をすることは死ぬほど嫌ではあったけれど、誰かに知られることのほうが嫌だった。

 そうなれば秘密に気がつく人間も出てくるかもしれない。自分の正体がバレてしまう可能性は少しでも潰したかった。


 もちろん、和哉がそういう要求をしてくるかはわからない。けれど、してこないとも言い切れない。

 だって春香は、一ノ瀬和哉がどういう人間なのかほとんど知らないのだから。


「なんでもすると言ったよな?」


 考えごとをするように腕を組んでいた和哉は、やがて腕をほどいて春香は見下ろして言った。彼が持っていたコンビニ袋がカサリと音を鳴らした。


「あ、ああ……、」

「なら誰にも言わない代わりにやってほしいことがある」

「……やって、ほしいことって?」

「難しいことじゃない。葛木には」


 春香はゴクリと唾を飲み込んだ。何をやらせるつもりなのだろうか。不安は春香の心臓を激しく鳴らしていた。


「あるところで働いてもらう。期限は一ヶ月。それだけだ」

「あるところ?」

「そう。そこでアルバイトとして働いてもらう」

「どこだって聞いてんだよ」

「それは行ってからのお楽しみだ」


 そこで、一ノ瀬和哉は意地悪そうにニヤリと笑った。


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