第三章4
ぴちゃりと、水滴が落ちる音がした。その水滴は湯船に落ちて、その水面をわずかに揺らした。
湯船に浸かっていた春香は、それを見ていた。小さな波紋が消えたあともじっと。
水面の先には同年代の平均より小さいけれど、確かに膨らんだ胸が見える。
時々。春香はそれを毟り取りたい衝動に駆られることがある。
その度、拳を握って耐えてきた。そんなことをしたって何も変わらないと知っているから。
ただ両親を悲しませるだけだとわかっているから。
どうして、こんな風に生まれてきてしまったのだろうか。
その疑問は自分の正体を知った中学生の頃から、変わらずに今もずっと胸の中にある。
考えたって仕方のないことだとわかっているのに、どうしたって考えてしまうのだ。
心と身体に矛盾などなく、普通に生まれてきていたのなら、こんなことを考える必要はなかったのだろう。
自分の胸を引き裂きたい衝動と戦うこともなかっただろう。
両親を悲しませるような、誰かに嫌われるような隠し事をしないでいられただろう。
『一度仲良くなった相手を嫌いになったりしないよ、あいつは』
凜の言葉を思い出す。
和哉は春香を友だちだと言ってくれた。仲良くなれたと言えるのだろう。
凜の言葉が正しいのであれば、和哉は春香を嫌ってなどいないということになるのだろう。
けれど、春香はそれを信じることはできなかった。
だって春香の言ったことは普通のことじゃない。
トランスジェンダーというカミングアウト。
親友だと思っていた相手にすら嫌われたことを言ってしまったのだ。
それなら、和哉にも嫌われたと考えるべきなのではないだろうか。
そう春香は確かに思っていて、凜の言葉をありえないと否定している。
それなのに、考えてしまう。
簡単に信じることはできない。
けれど、その可能性は本当にないのだろうか。一%もないと言い切れるのだろうか。
和哉に確認をとったわけじゃない。だからその可能性もあるのではないか。
ただ春香が思い込んでいるだけで、拒絶しているだけで。本当は嫌われてなんかないのかもしれない。
それはただの希望だ。ただの理想だ。
ありえない。わかっている。
わかっている、はずだった。
けれど『一度仲良くなった相手を嫌いになったりしない』という凜の言葉が頭から離れない。
消えてくれない。
何度も否定しているのに、言葉が頭に浮かんでくる。
それどころか。受け入れてくれると思っていた人に拒絶されたのなら、その逆もありえてしまうのではないかと思えてきた。
今のままでは本当に和哉が春香を嫌っていないのか、それを確認することはできない。
凜が言ったように和哉と話をすること以外、本当にそうなのか確認する術はないのだろう。
会話をしなければわからないのだろう。
それなら、話をしてみても――。
いや、何を馬鹿なことを。と春香は思った。
そうやって信じて、傷ついたじゃないか。結局はわかってくれなかったじゃないか。
何が佳奈美とは違うかもしれないだ。一緒に決まっている。
だって和哉も佳奈美と同じで自分とは違う存在で。女のくせに男だと思っている人に気持ちなんか理解してくれない。
そうだ、そのはずだ。そのはずなんだ。
どんなに優しい人間だって、理解なんてしてくれない。
春香はそうやって自分の中に芽生えかけた可能性を、もう一度強く否定する。
叩き潰す。
一%も可能性はない。絶対にない。理想は理想だ。
思い出すのは過去の記憶。
小学生の頃の記憶。女子から聞いた悪口。みんなの変なものを見るような視線。一人ぼっちで過ごした教室と放課後。
そして中学生の頃。親友だと言ってくれた春香の初恋相手の顔。
『……気持ちが悪い』『そんな人間がいることを私は認められないし、そう思っている人間は頭がおかしいって思っているの』『あなたがそんな人間だって気が付かなかった自分に腹が立つ』『それに……私のことが好き? やめてよ』『どうして。どうしてよ。どうして普通に生きられないの』『男なら男として、女なら女として生きるのが普通でしょ。どうしてそれができないの』『……馬鹿みたい。……絶対におかしいよ』『もう、私に近寄らないで。……話、かけないで』
あの日の言葉が頭の中で繰り返される。
何度も、何度も。
記憶は経験だ。経験は絶対だ。経験したことがすべてなのだ。
間違っても理解してくれるだなんて思うな。
春香は押さえつける。
浮かんだ希望を押さえて、押さえて、押さえて。心の奥底へと沈めていく。
もう二度と浮かんでこないように、徹底的に沈めていく。
あの時に決めたのだ。決めたはずだ。
もう夢なんて見ないと、そう決めたはずだ。
だから――。
その時。春香の頬を涙が流れた。
そしてどうしてか泣き叫びたい衝動に駆られた。
それでも泣き声はあげられない。叫びたいのに叫べない。
家族に知られるわけにはいかないから、噛み殺した。
「……なんだよ。……なんなんだよ、これ」
その涙の理由を、春香は知らなかった。




