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第三章3

 帰り支度を終えて、春香がCloud houseを出た時だった。

 背後で裏口の開閉する音がした。

 なんとなく振り向くと、凜が駆け寄ってくる姿が見えた。


 彼女の格好はネルシャツにデニムのショートパンツだった。

 下は黒をベースとした、星のマークがついたハイカットスニーカー。

 動きやすそうなその服装は、やっぱり活発な彼女には似合っていると思った。


「一緒に帰らない?」


 春香の傍で立ち止まった凜は、背負ったボディバッグの肩紐の位置を両手で直しつつ、そんな風に言ってきた。


「は、はい」


 凜の申し出にドキドキしてしまいつつ、春香はなんとか頷いた。

 なんだか恥ずかしかったけれど、とても嬉しかった。

 しばらくは他愛のない会話をしながら歩いた。


 それは春香にとって幸せな一時でとても嬉しかった。

 それなのにモヤモヤとした何かが心の奥で渦巻いていた。

 それがどうしようもなく嫌で、けれどどうすることもできなかった。


 どうしてモヤモヤしてしまうのか。

 なんとなく見当はついていた。


 けれどそのことで頭がいっぱいになることを避けて、その理由を頭から追い出した。考えないようにした。

 そんなことを今は考えたくない。凜との楽しい時間を邪魔してほしくなかった。


 ふいに、頭上が陰った。

 見上げると黒い雲が急に集まってきている姿が見えた。

 やばい。そう思った時には遅かった。


 雨が降り始める。ただの雨じゃない。雨脚の激しい大雨だった。

 にわか雨に当たる春香は、凜と近くの公園にある屋根付きのベンチへと逃げ込んだ。

 春香も凜も傘を持ってきていなかったので、雨が止むまでしばらく留まることにした。


「いやー、濡れちゃったねー」

「そうですね」


 ボディバッグから取り出したタオルで頭を拭きながら、その視線を雨へと向けて凜が言った。

 彼女のネルシャツは少し濡れているようだったけれど、たまたま公園に近い場所で降り出したおかげでびしょ濡れということにはなっていない。

 代わりに濡れた髪から水滴がたれていて、それが妙に色っぽい。


 だから春香は気恥ずかしくなって凜から目を逸らした。

 激しい雨脚は視界を遮り遠くを見通せず、その雨音は春香たち声以外の音をかき消す。


 周りには誰もおらず、ベンチに座って雨雲を見上げるのは春香と凜だけ。

 並んで座る二人だけが世界から切り取られているような、そんな錯覚がした。


「にわか雨って困るよね。折りたたみ傘でも鞄に突っ込んどけばいいんだろうけど」

「そういう時もあるって知ってるのに、普段考えないですもんね」

「ねー」


 そんな話をして、けれどそこで会話は途切れる。

 ただ雨音だけが続く。

 そうやって沈黙が続いていると、どうしてか隣にいる凜を普段よりも強く意識してしまう。


 ちらりと横目に凜を見る。

 彼女は両手をお尻の横。ベンチの上につけて、少し身を乗り出すようにして雨空を見上げていた。

 どこか楽しそうに片足で地面を弄ぶ凜を見ていると、ずっと彼女の隣でこうしていたいと思ってしまう。


 できることならもっと踏み込んで――。


 ベンチに置かれた凜の手を見つめる。

 たとえばその手を握れるような関係になれたとしたら、それはどれだけ春香を幸せな気持ちにしてくれるだろうか。


 それを想像して、けれど無意味なことだと悟る。

 そんな想像をしたところで春香には意味がない。

 だってそれはどうあっても叶わないことだと知っていたから。


 自分の足元を見る。

 膝丈のスカートを穿いた春香。

 春香がスカートを穿かないような存在であったなら、あるいはそういう関係にもなれたのかもしれない。


「あのさ」


 意味のないことを考えていた春香に、凜がそう声をかけてきた。

 顔をあげると、彼女は顔だけを横に向けて、春香の顔を見つめていた。


「なんですか?」

「あいつ、カズとなにかあった?」

「……どうしてですか?」

「二人、いつもと違ってほとんど話さなかったから」


 凜もあの場所にいた。

 だから彼女も春香が和哉を避けていることに気がついていたのかもしれない。

 春香は自分でもわかりやすいと思う避け方をしていたのだ。

 気が付かれていてもおかしくはない。


 春香は俯いて、自分の濡れた靴を見つめる。

 言い出しづらくて、少し怖くて。凜の顔を見ていられなかった。


「いや、その、えっと。……ちょっと喧嘩しただけです」

「喧嘩、ね。嫌なことでも言われた?」


 凜の声はどこか春香の心を見透かしているかのような色に聞こえた。

 実際に見透かしているわけではないのだろうと思う。

 けれど何かの片鱗には気がついているのかもしれない。どうしてかそんな気がしたのだった。


 それもあって、春香はすべてを隠すことはできそうにないと思った。

 それ以外にももしかしたら、心のどこかで話したいと思っていたのかもしれない。

 凜に事情を話すことにした。もちろん春香の隠し事には触れない形で。


「……その、なんというか。勝手にわたしの事情に踏み込んできて、いろいろ言われたんです」

「なるほど。それで喧嘩になったわけか」


 春香は「はい、まあ」と頷いて、それからベンチに深く座り込んで、背もたれに背中を預けた。

 そして雨空を見上げながら、曖昧な笑みを浮かべた。


「わたしだっていろいろ考えてきて、それで今の現状があるんです。それでいいし、そうすることしかできなかったからここにいるのに」

「うん」


 それを知らないくせに。


「でもかず……一ノ瀬くんはそのできないことをやれって。わたしだってその方がいいと思ってるんです。でもそうできないから……、」


 だから苦しんでいるのだ。

 理想と現実は違う。

 素直になれば嫌われる。それなら素直になれない。

 だからずっと我慢してきたのに。


 けれど和哉と出会ってしまって、好きなものを好きと言えて。思い出してしまった。

 素直になれるという喜びを。

 凜の『好きなことを好きだって言えないのは悲しいことだと思うから』という言葉の意味を、理解してしまった。

 辛いだけではなく、とても悲しいことなのだと。


 だから和哉の言葉が春香の胸を貫いたのだ。

 好きなものを好きと言える喜びを思い出してしまったから、心の奥に押し込め続けてきた素直になれないという苦しみがはちきれてしまった。爆発してしまったのだと思う。


 その結果、自分の秘密を口にしてしまうことになった。

 そして和哉に嫌われてしまった。


「わたし、腹が立って」

「うん、うん。そうだよね。あいつそういうとこあるからねー。人が気にしてることに平気で踏み込んできて、説教臭いこと言ってきたりさ」


 凜はそう言った。

 和哉という人間はもともとそういう性格のようだった。


「余計なお世話だよね。それが腹立つんだよね。わかったように言うなーって」

「……そう、なんです。わたしのことなんか全部知らないのにって」

「うん、わかる。そう思うよね。……でもさ、勘違いしないでね」

「え……、」


 凜の言葉に、春香は顔を彼女へと向けた。

 自分を見つめる、凜の瞳を見つめ返す。その真意を覗き込むために。


 彼女の瞳は透き通るように澄んでいて、綺麗すぎて何もわからなかった。

 それはからかう時以外はポーカーフェイスじみていて、何を考えているのかわからない和哉と違って、美しすぎる景色を見たときに何も考えられなくなるのと同じ。


 綺麗すぎるものは頭を真っ白にして、考えを鈍くさせる。

 そんな感じだった。

 だから春香は、凜の心は簡単に覗けそうにないと思った。


「あいつはあいつなりに相手のこと考えてるんだよ。不器用だから上手く伝えられないだけで。そうしたほうがいいと思って言ってくれてるんだよ。……そしてそれは、あながち的外れとは言えない。だって春香もその方がいいと思ったんでしょ?」

「それは……、」


 言い淀む。

 それは確かにそうなのかもしれない。

 和哉は何も間違ったことは言っていないのだろう。


 嫌になるくらい正しいことで、けれど春香にとっては理想だった。

 理想だから受け入れることができなかった。

 それは今さっき、自分で凜に伝えたことでもある。


 けれど春香にとっての理想を言ったということは。言い当てたということは、それはつまり春香をちゃんと見てくれていたということ。

 それが言えたのは春香のためなのだろう。

 そうでなければ放って置くことだろう。


 春香だって赤の他人にはそうする。

 わざわざ相手の欠点を口にしてアドバイスをするなんてことはしない。

 相手のことを思ってなければできないことのはずだった。


 だからと言って。

 それに気がついたからと言って、春香に変わろうという意思が生まれるわけではないのだけれど。

 だってできないとわかっているのだから。どうせ無理だとわかっているからだった。


「むかつくなとは言わないし、仲直りしろとも言わない。だって腹立つのはすごくわかるし。ただね、悪意から言ってるわけじゃないってことだけは覚えておいてあげて」

「……よく知ってるんですね」

「そりゃあまあ伊達に幼馴染やってないしね。悪いとこも良いとこも知ってるよ。たぶん、あいつもね」


 そう言った凜は少し前かがみだった体勢を変える。

 デニムのショートパンツから伸びる足を前へと投げ出す。

 星マークのついたハイカットスニーカーの底が地面を擦る音をたてた。


 そしてベンチへと深く背中を預ける。

 その状態で腕を上げて伸びをする。「んー」という声が漏れていた。

 それから立ち上がって、軽いストレッチを始めた。


 春香は前に凜から、じっとしていることが苦手だと、聞いたことがある。

 だからそんな行動を始めたのだろう。

 それを見つめながら、春香は羨ましいと思った。


 幼馴染というのはだんだんと疎遠になっていくものだと聞く。それが多いのだと。

 けれど凜と和哉は違うのだろう。

 高校生の今もとても仲が良さそうで。


 それだけ長く傍にいたのだから、たくさんのことを互いに知っているのだろう。

 それが羨ましいと思った。

 ある意味親友のような関係。春香がほしいと思っていた関係で、いつかは和哉ともそうなれたらと思っていた。


 けれど、そんなものはただ理想だった。

 春香はもう、和哉と親友のような関係にはなれないだろう。


「……でも、たぶん。一ノ瀬くんはわたしのこと嫌いになったと思います。わたしもそれくらいのことを彼に言ってしまったんで」


 春香の正体を知ったのならきっとそうなるのだ。それは今までの経験が物語っている。

 もう友だちにすらも戻れない。


「何を言ったのかわからないけど。一度仲良くなった相手を嫌いになったりしないよ、あいつは」


 凜は春香に背を向けたまま、そんなことを言った。

 彼女の口調には確信めいた感情が混じっているように感じた。


 ただ事実を口にしただけのような、そんな声色に聞こえたのだ。

 どうして言い切れるのか。疑問に思う春香の耳に、続く凜の言葉が届いた。


「昔よりはよくなったけど、カズは滅多に仲良くなる相手ができない。だから逆に言えば仲良くなれたのなら、あいつに好意を抱かせられたってこと。良い奴だって認められたってこと。そういう相手を簡単に裏切ったりしないよ。カズはそういう奴だから」

「でも、今日だってわたしを避けてて」

「それは春香がカズを避けてたからだよ。今、何を言っても聞いてくれないと思ったからだと思うよ。……実際、聞く気なかったでしょ。違う?」


 凜が振り向く。そして真顔で春香にそう聞いてきた。


「……、」


 じっと見つめてくる凜の瞳に対して、春香は何も答えられなかった。

 凜の言う通りだったから。


 確かに聞きたくないと思っていた。聞くのが怖かったから。

 そこでふっと表情を緩めて、凜は微笑んだ。


「ごめん、ごめん。別に責めてるわけじゃないんだ。ただね、もし少しでも仲直りしたいと思ったら、まずは話を聞いてあげて。そう言いたいだけ。……そしたらカズがどう思ってるのかわかるよ。そうじゃないと仲直りできるかもわからないしね」

「……覚えて、おきます」

「うん。……あとね、これはあたしの予想なんだけど。今頃カズは、春香を助けたいって考えてるよ。きっとね」

「……助ける?」

「そう。……あいつはそういうやつなんだ」


 そう言って、凜はニッコリと微笑んだ。

 その微笑みにつられるようにして、にわか雨が弱まって、やがて雨音が止んだ。

 空の雲が晴れて、太陽が覗く。


 その太陽の光が、春香には酷く眩しく、そして痛く感じた。

 肌を刺すようだった。


 春香には凜の言葉の意味がわからないままだった。

 和哉が春香を助けようとしている。それはいったいどういうことなのか。


 凜はそれ以上説明をする気はなさそうで、そんな彼女に食い下がる勇気は春香にはなかった。

 春香の心の中にはただもやもやとしたものが残るだけだった。


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