第三章1
夢を見た。それは昔のこと。小学生の頃の夢だった。
夢の中で泣いた記憶はないのに、目を覚ますと、涙の乾いた跡が頰に残っていた。
ベッドの上。右腕で目を隠す。
真っ暗な視界の中で、思い出すのは夢の中での自分。
あの頃は一人ぼっちになったことが悲しくて、他人とどこか違うと気がついたショックで、灰色の日常が続いていた。
一人ぼっちになる前は、学校帰りの公園で友だちと遊んで、家に帰るのは夕方頃だった。
それが突然変わることで親が心配しないように、一人ぼっちになってからも以前と同様に夕方頃に帰宅していた。
時間を潰していたのはいつも高架下。
何かをする気も起きなくて、コンクリート壁にもたれるように座って、ただ川面を見つめていた。
頭の中で考えていたことは自分の正体と一人ぼっちになったわけ。
その日々を繰り返すうち、やがて手に入れた答え。
自分が他人と違うから、一人ぼっちになった。
それがすべてだと悟った。
当時は【普通の少女】として振る舞って、普通になろうとは思えなかった。
そんな考えすら思いつけなかったのだ。
ただ、どうして自分は普通ではないのか。何が普通なのか。ずっとこのまま一人ぼっちなのか。そればかりが胸にあった。
あんな日々はもう送りたくなかった。一人ぼっちになんてなりたくなかった。なってしまうことが怖かった。
その恐怖がずっと胸の奥にある。
だから今の春香は、自身でも気にしすぎると思いながらも、他人の前では普通であろうとしていたのだ。
素直になってはいけないと思っていた。
一人ぼっちは辛い。だからずっと隠していく。隠さないといけない。
そう思っていたはずなのに。
『素直になったほうがいい』
和哉の言葉を思い出す。
「……素直になんて、生きれるわけねえだろ」
一人呟いた言葉は誰にも届かない。
横向きに寝返りをうって、猫のように小さく丸まった。
胸が痛くなって掴むように片手で抑える。
外傷があるわけじゃない。それは心の痛みだ。
自分でそう理解していた。
和哉の困惑した顔を思い出す。
素直になった結果があれだ。事情を話してしまった結果があの顔だ。
「……素直になったらいけねえんだ。隠さないといけなかった」
彼ならわかってくれると勝手に勘違いしていたけれど、わかってくれるはずなんてなかったのだ。
春香と彼は違う人間で、だからそれが当然であったのに。
同じではない。
和哉は同性愛者であって、自分を女だと思っているわけじゃない。マイノリティではあっても別物だ。
そんな簡単なことにどうして気が付かなかったのだろうか。
どうして信じようとしてしまったのだろうか。
胸を締め付ける痛みは消えてくれない。
ズキズキと古傷が痛むように、ずっと続いている。
何も失うことなどなければ、きっと人生はもっと生きやすい。
けれどそうではないから、こんなにも胸が痛むのだ。
目覚まし時計が音を立てた。今日はバイトの日で、寝坊しないようにと設定していたのだ。
和哉の顔が思い浮かぶ。
サボってしまおうか。そんな思いが頭をよぎる。
正直に言って、和哉には会いたくなかった。
けれど、休むことはできないのだと思い出す。
和哉との約束を思い出したのだ。
こんな状況になっては約束なんて消えてもおかしくない。だけど和哉は約束を守ると言ったのだ。
きっと、そこだけは本当だと思うから。なら行くべきだ。
せめて、他の人に広まらないようにすることが、今の春香にできることだった。
気乗りなんてしないけれど、のっそりとベッドから起き上がる。
カーテンを開けると、太陽の光が目を焼いた。
今日の空は春香の気持ちとは違って晴れやかだった。それがどうしようもなく羨ましいと思ってしまった。
胸の痛みはまだズキズキと熱を放っていた。