行間B
葛木春香は教室で孤独を感じていた。
クラスメイトたちはそれぞれに楽しそうで、きっと春香だけが一人ぼっちを感じているのだろう。そんな春香を誰も気にしない。
中学生になると、小学生の頃はなんとなくあるという感じだったスクールカーストが、明確になる。
リア充に非リア充にその中間層。そんなカーストの中で悩み、迷い、苦しむ人たちがいるらしい。
けれど春香には関係のない話だった。
誰がトップで誰が最下層にいるのか。そんなことは知らない。
知っているのは自分がカーストのどこにも属していないこと。属する資格がないということだけだった。
教室に春香の居場所なんてなかった。
だからそっと教室から出た。誰も気が付かなかった。
自分の教室には居場所がない。けれどこの学校の中でたった一つだけ、居場所といえる所がある。そこだけが唯一心地よく過ごせる場所。
春香はそこへ向かうことにした。
廊下を進んで、外へと出る。
上靴を汚さないように、校舎の壁を沿うようにある溝。その内側にあるコンクリートの部分を進む。
やがてたどり着いたのは誰もいない校舎裏。
ひっそりと静まり返った場所だった。
使われなくなった焼却炉。その向こうに小さな裏門が見える。一面が木々や校舎によって暗がりになっていて涼しい。
そこで春香は冷たい校舎の壁に背中を預けて座る。背中にひんやりとした感覚が返ってくる。
どこか心地よいその冷たさを感じながら、買ってもらったばかりの携帯をスカートのポケットから取り出した。
薄暗い中に、ぼうっと画面の光が灯る。
ブックマークを開く。
中学生になったばかりの頃、某オンライン百科サイトで調べたこと。そのページが画面に映る。
それは【トランスジェンダー】について書かれたページだった。
トランスジェンダー。【生物学的性】と【性自認】が異なる人たち、性別違和を抱える人たちのこと。
たとえば身体は男だけれど心は女という人やその逆。あるいは男とも女とも言えない中性や無性の人たちのこと。
百科サイトに書いてあったことを要約するとそんな感じだった。
春香は不安だった。
【女のくせに女だと思えない】というのは自分だけの感情なのか。自分は何かの病気なのか。
中学生になった春香はそれを強く意識し、とても不安になったのだ。
だからインターネットで調べることにした。
そこで見つけたのがトランスジェンダーという言葉だった。
「……トランス、ジェンダー」
ディスプレイに映るその言葉を、春香はじっと見つめていた。
確証はなかった。
けれどもしかしたら自分はそのトランスジェンダーであると言えるかもしれない。
そんな思いがあってブックマークをしておいた。
けれど最近、それが確証へと変わりつつある。とある少女の存在が要因だった。
その時、足音が聞こえた。
それがゆっくりと春香の方へと近づいてくる。
やがて足音の主が姿を表した。
それは少女だった。
肩甲骨辺りまである長めの髪を揺らしながら、彼女は笑顔で春香に寄ってくる。
彼女の名は寿佳奈美。この学校での唯一、春香が友だちと呼べる存在だった。
肩甲骨辺りまで伸ばした黒髪は艶やかで、風に揺れるそれはサラサラとしていた。
肌は白雪のようで、どこか陶磁器のように透き通って見えた。
宝石のような瞳は黒く、見惚れてしまうほどに綺麗なその瞳はどこまでも深い。
背は高めで、スラリとしている。
半袖ブラウスの袖から覗く腕は細く、その指もまた細長く見える。ピアノが趣味だという彼女にはぴったりのように思えた。
見た目だけならクールそうな雰囲気だけれど、その実笑顔はとても柔らかい。そして物腰も柔らかい。その整った容姿とも相まって、彼女は男女問わず人気者だった。
クラスではいつもにこやかで、友だちに囲まれている姿をよく見る。
けれど昼放課になるとふっと教室から一人で抜け出す。
かつてはそれを不思議に思ったことがあったけれど、今の春香であればその理由がわかる。
彼女は静かな時間がほしかったのだ。
春香は携帯をポケットにしまうと、挨拶をするようにそっと手を上げた。
春香が彼女と出会ったのは中学生になって一ヶ月ほどが経った頃。
教室にいることが嫌になって抜け出し、居場所を探すように学校内を歩くうちに見つけた校舎裏。
そこに彼女がいたのだった。
最初から仲良くなれたわけじゃない。
互いに距離を開けて座るという状況が何度か続き、ある日佳奈美が声をかけてきた。それがきっかけで話をするようになった。
誰とも話をしたくないと思っていた春香は、けれど男口調を咎めてこなかったせいか、佳奈美との会話は嫌にならなかった。
すべてを曝け出すことはできず、本来よりもずいぶんと低いテンションではあったけれど、他の誰よりも安心して話ができる相手だったのだ。
それ以来、春香と佳奈美はこうしてここで時折話すようになった。
色んな話をしてきた。その間は教室のことも自分のことも忘れられた。孤独を忘れられたのだ。
だから佳奈美と過ごせる校舎裏は、春香にとって唯一の憩いの場所となっていた。
「ねえ、春香」
「……なに?」
「春香にはお兄さんがいるのよね」
その日もいつものように会話が始まる。
「……いるよ」
「どんな人なの?」
「……どんなって、普通だよ、普通の兄貴。……どこにでもいるような男子高校生」
自分とは違って普通の、という言葉は飲み込んだ。
佳奈美に伝えられるような言葉じゃなかった。
「……そう。いいわね」
佳奈美は木々を見上げて、春香を見ずに言った。
「……なにが?」
「普通のお兄さんがいて」
「……え?」
「私にも兄がいるの。でも変な奴なのよ。何を考えているのかって呆れてしまう兄なの。だからいいなと思って」
「……辛辣だな。別にいいことなんてねえよ。……悪いこともねえけどさ」
「それがいいのよ」
「……なんだよそれ」
春香が小さく笑いながらそう言うと、佳奈美も笑った。
派手じゃない。眩しいものではない。柔らかで、優しい笑顔だった。
ドキリと。佳奈美の優しい笑顔が春香の心臓を跳ねさせた。
やっぱり、と春香は思った。
自分は。自分が佳奈美に対して感じているこの気持ちはきっと恋なのだ。そう思った。
けれど、女として女の佳奈美が好きだと思っているわけじゃない。
【男として女の佳奈美が好き】だなんて思っていたのだ。
いや。なんとなく理由はわかっていた。
頭の中で思い浮かべたのは、携帯の画面に映った検索結果だった。
その中にはこんな一文があった。
【トランスジェンダーは異性装や同性愛とは関係がない】と。
たとえば身体が男で心が女という場合、その人物は男を異性として捉える。
だからたとえ男に恋をしても同性愛とはならない。けれど女に対して恋をした場合は同性愛となる。
春香は身体が女であるにもかかわらず、自分のことを女だと思っていない。むしろ男だという自覚がある。
そして恋をした相手は女である佳奈美。
つまり男として女を好きになってしまった春香は、同性愛者ではないということだ。
そうであるのなら、春香は何者なのか。
生物学的性と性自認に矛盾を抱えた人間。トランスジェンダーということになる。
男として女を好きという感情があるのなら、やっぱりその可能性が高いと思うのだ。
けれど、トランスジェンダーは普通ではない。少なくとも世の中では。まだ理解されているとは言い難いからだ。
それは時たまニュースで流れる、トランスジェンダーに関するものを見ればわかる。
更衣室の問題。いじめからの自殺。それを見ていると、どうしても認めてくれない人が多いと強く意識してしまう。
理解はまだまだ広まっていない。だからトランスジェンダーであることにコンプレックスを抱えている人間が生まれるのだろう。
そしてそれは、春香も同様だった。世間からの評価は春香にも突きつけられている。
たとえば春香が小学生の頃、離れていった男友だち。
陰口を言っていた同級生の女子たち。
それが今も春香の心に残っている。
だから怖かった。
佳奈美に自分の正体を話すことも、好きだと告白することも。
けれど、すべてを隠していることも苦しかった。
仲良くしてくれる佳奈美に嘘をついているようで。騙しているようで。――いや、騙している。
それが苦しかったのだ。
伝えるのは怖い。伝えないままでいるのも苦しい。二つの思いが春香を縛りつける。動けなくさせる。
どうすればいいのか。
どうしたらこの心を軽くできるのか。
どうして人間には恋愛感情なんてものがあるのか。
好きという気持ちをなくせたらどれだけ楽になれるだろうか。
どうして自分はこんな矛盾した姿で生まれてきてしまったのだろうか。
今の春香には何もわからなかった。そしてきっと、誰も教えてはくれない。
答えは、いったいどこにあるのだろうか。