第二章11
映画の感想を一言でと聞かれたら、春香はまず間違いなく面白かったと答えるだろう。
求めていたものが詰まっていた。熱さと勢い、スカッとした後味を残す終わり方。感動。
春香にとって大満足の映画だった。
「……最高だったな」
完全燃焼を迎えたような気分で、春香は燃え尽きた心を零すように言った。
「そうだな。思った以上に熱くてよかった」
「だよな! ああいうのでいいんだよな、ああいうので。俺やっぱ好きだ、マジドリ」
映画館から駅へと向かって歩いていた。その道中にあるファミリーレストランで昼食を取ることにしたのだ。
ビルが建ち並ぶ街中にある大学前を通ったとき、電車の通り過ぎていく音が聞こえた。
なんとなく、春香は進む道の先に目をやる。
そこには陸橋が走っていて、今まさに電車が通り過ぎていったところだった。
視線を外して、手元へと目をやる。
握っていたのは透明な袋に包まれた小さな色紙。それはマジドリの映画を観た人だけに配布されるもので、主人公【ナツキ】のイラストが描かれていた。
それを見つめたまま。
「……でも、よかった。久々に男友だちとこういう風に遊びにこれて」
春香は呟くようにいった。
誰に向けたわけでもない。隣を歩く和哉から返事がほしかったわけじゃない。何か深い意味があったわけでもない。
ただふと思ったことが言葉になってしまっただけだった。
「久々にということは、昔はよくあったのか?」
誰に向けたわけではなかったけれど、和哉からそんな問いかけが返ってきた。
春香は少し考えて、それから口を開いた。
「まあな。小学生の頃は男友だちもいっぱいいた。だからよく遊びに行ってた」
「……そうか」
和哉は何かを考えているようだった。
なんだか詮索されているような気がして、だから春香は無理矢理話を変えることにした。
「そんなことはどうでもいいんだよ。昔の話だ。それより、今日はありがとな。誘ってくれて嬉しかった」
「……あ、いや。こちらこそありがとう」
「それでさ、これやるよ」
色紙を和哉へと差し出す。
すると和哉はその色紙を見て、それから不思議そうな顔で春香を見つめてきた。
その理由が春香にはわかる。
あんなに好きだと言っておいて、マジドリのグッズがいらないとでも言うかのように差し出す。もしも和哉の立場だったのなら、春香だって驚くことだろう。
「いらないのか?」
「いらないわけじゃねえけど」
「けど?」
理由を言うかどうか悩んで。和哉には隠す必要がないと思い、結局は言うことにした。
「……その、家族に見つかって不審がられるといけねえし」
「……家族にも、隠しているのか?」
今度は表情を怪訝なものへと変えて、ポツリと零すように和哉が聞いてきた。
春香は小さく頷く。
「当然だろ。変に勘ぐられたくないし、それに心配かけるわけにいかねえし」
「心配って、どういうことだ」
「いやだってそうだろ。女のくせして男の好きなもの好きだって知られたら、そのなんだ。変な心配するかもしれねえだろ」
「たとえば?」
「それは、その……、」
言い淀む。
言葉にすれば本当に隠していることがバレるかもしれない。そういう理由も確かにあった。
だけどそれだけではなくて。それを簡単に口にしてしまってもいいのだろうかと躊躇したのだ。
それほどに気を遣ってしまうような言葉だった。
「……いや、やっぱりいい。なんとなく何が言いたいかはわかった」
何が言いたいのかわかったという和哉の顔を、自分の秘密がバレてないかと窺う。
けれどそれは杞憂だったようで、特に言及してくることはなかった。
そのかわり。
「……心配なら隠しておけばいいだろう。これくらいの大きさなら隠し持つくらいはできるだろうし」
そう言って、和哉は春香の差し出した色紙を指差す。
対して春香は首を横へと振った。
「万が一ってこともある。それは無理だ」
春香の言葉に和哉は考えるような表情を見せて、言うか言わないか悩むように何度も口を開閉させる。
やがて答えが出たようで、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「……ならいっそのことカミングアウトをしたらどうだ? ハルが男っぽい好みだって。そうすれば家族の前では何も隠すことなく、もっと楽に過ごせるはずだ」
「そっちのほうがもっと無理だ」
何を言うかと思えば、と春香は心の中で呟く。
そんなことできるわけがない。だからこうして隠しているというのに。無理に決まっている。
そんなことをすれば家族に秘密がバレてしまうかもしれない。
【それ】を疑われる事態は避けたかった。
「どうして」
「家族だからって認めてくれるとは限らない」
「ただの好みの話だ。否定する可能性は低い。それにちゃんと説明すれば誤解だってされない」
ただの好みの話。その言葉が春香の心にじわりと苛立ちを生み出した。
春香にとってただのではないのだ。それが言葉に少しのトゲをつける。
「そんなこと、お前に保証できるのかよ。もし嫌われたら責任取れるのか? 無責任なこと言うな」
【ただの】から【取り返しのつかない事態】に発展するかもしれない。
そうなれば穏やかな家庭が破綻する危機に陥るかもしれない。
確証は持てないけれど、和哉の言うとおりにカミングアウトすればそういう可能性が生まれる。
悪い方へ話が転がったとき、和哉に何かできるだろうか。
いやきっと何もできない。責任なんてとれるはずがない。
和哉は春香と同じでまだ高校生なのだ。他人の家庭問題を解決するには何もかもが足りない。
救えないくせに、無責任なことを言ってほしくなかった。
和哉はそれでも引く気がないようだった。
「家族だろう? こんなことで簡単に嫌われない」
「でも可能性はあんだろ。だから絶対に好きだなんて言わねえ」
「……ハルは自分を隠しすぎだ。自分を殺しすぎだ。やっぱりもう少し素直になったほうがいい。そうでないといつか壊れる。僕も協力する。だから――、」
「……関係ないだろ、お前には」
隠さないことが怖いという気持ちなんてわからない和哉には。
「それでもだ。……好きなものを好きと言えないのは辛いだろう。今までだってそうやって我慢してきたんだろう。本当は何の気兼ねもなく好きだと言いたかったはずだ。……他の誰かに今すぐ言えとは言わない。だからまずは家族から――、」
「余計なお世話だ!」
春香は堪えきれなくなって、気がつくと怒鳴っていた。
周りにいた人たちが何事かと目を向けてきたけれど、春香はその全部を無視した。
「……お前に何がわかんだよ。苦労もせず、辛いだって思うこともなく、好きなものを好きだって言えるお前とは違うんだよ!」
和哉は自分が同性愛者だということを平気で口にできる。
苦しそうでもなく、辛そうにも見えない。当然のことのように口にできる。
顔色一つ変えない。周りの目なんかどうでもいいと言える。
隠さない恐怖なんて知らないように言ってのける。
違う。まるっきり。
春香とはまったく違う。
「……そう、かもしれない。僕は君と違うのかもしれない。だけど、それでも。……僕はこれでも心配しているんだ」
「何も知らないくせに、勝手に心配なんかすんじゃねえ!」
「そうだよ、僕は知らない。君の気持ちなんてわからない。だって、ハルは何も言わないじゃないか。僕にだってまだ何か隠していることがあるんだろう? だったらわかるわけがない。知ってほしいなら言葉にするべきだ」
「うるせえ! やめてくれ。やめてくれよ。……俺はお前みたいに平気で言えない。言ったって誰もわかってくれないから。……俺の事情はそういうものなんだ」
「そんなこと、言ってみないとわからない」
「言わなくてもわかる。みんな、そうだった! 話したやつはみんな離れていった。こいつならわかってくれると思ったやつも……、結局はだめだった」
「諦めるなよ。そんなので自分を諦めるなよ。どこかにきっとわかってくれる人がいる」
「……うるさい」
「自分を諦めるのはだめだ。自分を殺して生きていくなんて――、」
「うるさいって言ってんだろ! じゃあお前は理解できんのか! 女の身体なのに自分を男だと思っている俺の気持ちがわかるのか⁉」
言ってから、しまったと思った。
言うつもりなんてなかった。それなのに激情から言ってしまった。
もうあとには引けないのだと理解した。そして、和哉がわかってくれないということも。
だって彼は。
「本当に……? 本当にそう思っているのか? それは、なんというか……、」
和哉は困ったような顔で、呟くように言った。
困惑。それは理解してくれないという証。
春香はそう思っていた。
だって、あの時だってそうだった。
小学生の頃もみんなそういう顔をして、それから春香から離れていった。一人ぼっちになってしまった。
だから――。
持っていた色紙を無理矢理に和哉の鞄へと突っ込むと、制止の声を無視して春香は駆け出した。




