第二章8
春香と和哉は駅に向かって歩いていた。凜はいない。
初めはクレープ屋から駅へ、三人で歩いていた。その途中でCloud houseに忘れ物をしたと言って、彼女は一人で行ってしまった。
それで今は二人なのだった。
夕方の街は橙色の光を浴びていて、どこか遠くでカラスの鳴き声が聞こえる。
道行く人々は少し足早に思えた。
家路を急いでいるのか、それとも夜勤のために出勤中か。見た目ではわかるはずもなく。
そんな中を二人はゆっくりと歩いていく。
「……気持ち悪い」
春香は小さく呟いた。
まだ甘い味が口に残っていて、胃の中がどうにも落ち着いてくれない。
「気持ちが悪い? どうして?」
言葉を拾った和哉に聞かれて、春香はしまったと感じて。けれどまあいいかと考え直した。
和哉には言ってもいいかと思ったのだ。彼は男っぽい女であっても普通だと言う人間だ。
言って、普通でないと判断はしないだろう。
「実はさ、俺甘い物嫌いなんだよ」
「は? ならどうして凜の誘いに乗ったんだ」
「甘い物好きだって周りには言ってんだよ。そっちのが女らしいだろ」
「葛木は性別について考えすぎだと思うぞ」
「仕方ねえだろ。……そういう性格なんだよ、俺は」
「ふうん。そんなの気にせずに、嫌いなら素直にそう言えばいいだろう。その点素直すぎる僕の恋人を見習ったらどうだ? 裕樹は割と素直だぞ」
「俺には難しいんだよ」
「そうか」
なんとなく裕樹の顔を思い浮かべて、それから和哉に視線をやって。それで、ふと聞いてみようと思った。
前から気になっていたあのことを。
「……前から思ってたけど、なんで堂々と同性と付き合ってるってみんなに言えるんだ? 俺は気にしねえけど、ほら……周りはさ」
「いい顔をしないって?」
「ま、まあ……、」
和哉は男で、裕樹も男だ。
そんな二人は恋人同士で。それを聞いた普通の人間はいったいどう思うのか。
世間ではマイノリティと言われる同性愛。ならば嫌な顔をする奴だっているだろう。
それなのに、和哉はあっさりと春香に同性愛者だとカミングアウトした。
それが春香にとってはとても不思議だった。
周りの目が怖いと思わなかったのだろうか。
「全員が全員そうじゃねえだろうけど、少なからずそういう奴はいるだろ」
「そうだな。だが気にしていたって仕方がない。好きなんだからな。だったら好きだと言ってもいいだろう。誰かに迷惑かけているわけでもないし」
「でも離れていく奴もいるだろ」
「そんな奴は放っておけばいい。それに離れていかない奴もいるだろう。僕はそれでいいと思っている」
「俺はそう思えない」
「……そうか」
和哉はそこでどうしてか立ち止まって、何かを言いたそうに春香をじっと見つめてきた。
春香は促そうとすることもなく、ただ黙ってその目を見返す。
少しの間沈黙が続いて、やがて和哉が視線を春香から外した。
それで何も言わないと判断をして春香が視線を前へ向けたとき、和哉が声を発した。
「葛木……、君は普通という言葉に振り回されている気がする。前にも言ったことがあるが、そんなものに振り回される価値はない。そんなものはあまり気にしないほうがいい。そうしたら楽に生きられる」
「……俺は……お前みたいにはなれねえんだよ」
小さく。
和哉に聞こえないほどの声量で、足元に視線をやりながら呟いた。影が春香を見つめてくる。
和哉の言っていることはわかる。
そんなの、気にしないほうがいいに決まっているのだ。楽になれることくらいわかる。
けれど、できないのだ。普通じゃない人間は周りから忌避されたりするのだ。一人ぼっちになってしまうのだ。
自分が我慢して苦しむよりも、そっちのほうが耐えられない。
だからできないのだ。一人ぼっちになるのは怖い。
普通じゃないことを気にしないほうが楽だとわかってはいても、人間関係を壊したくないから結局はそうできない。
同じマイノリティの人間であれば、みんなそうだと思っていた。
だから和哉の考え方が理解できなかった。
彼はそれまでの人間関係が壊れたとしても、それでいいと言った。
そんなのやっぱり春香には理解できない。きっと理解できる日はこない。
春香と和哉の考え方が合わさることはない。
それでも、もしかしたら。
春香は和哉の横顔に視線を向ける。
それでも、彼なら自分の事情を受け止めてくれるかもしれない。
和哉の考え方は理解できないのだとしても、春香が抱えているものを理解してくれるかもしれない。
普通であると認めてくれるかもしれない。
実際に普通かどうかはさておいて、たった一人でも認めてくれるのなら、それはきっと――。
「あの、さ」
「どうした?」
和哉が春香を見る。
春香は拳を握りしめて、口を開いて――。
けれど、何も言えなかった。
直前になって怖くなった。
もしカミングアウトをして嫌われたら。離れていってしまったら。そう思ってしまって、何も言えなくなった。
理解してくれるはずだ。きっとそのはずだ。けれどその予想が間違っていたら?
また一人になってしまう。
それがとても怖かった。
だって、前にも同じことがあった。理解してくれると思った相手が離れていったことが、確かにあったのだ。きっと、それが春香のトラウマになっていた。
だから和哉なら理解してくれると思いながらも、一歩踏み出すことができなかった。
握っていた拳を緩めて、春香は小さく首を横へ振った。
「いや、やっぱりなんでもない」
「……そうか」
和哉はそれ以上何も言わず、駅へ向かって歩き出す。春香も黙ってそれに続いた。
いつか、和哉に打ち明けることはできたら。そんな風に思った。
今はまだ怖いけれど、トラウマを乗り越えることができたのなら、いつか言えたらいい。
そんな日が来るのかなんてわからないけれど、そのときは和哉が理解してくれると信じたい。
信じたかった。




