第二章2
春香がそれを見たのは夕方頃だった。
あと一時間ほどでバイトが終了するという時間帯で、店内にいる客は多いときに比べてずいぶんと減って三人ほどしかいなかった。
そんな数少ない客の一人に金髪の男がいた。いかにも遊んでいそうな男だ。彼が店内に入ってきたのは少し前で、暇潰しに来たというような感じだった。
最初は物珍しく辺りを見回しながらも大人しくしていた。だから春香も特に気にしていなかった。のだけれど――。
「いいじゃん。あれだよあれ、アフターってやつだよ」
「ご主人様、いいですか? 何度も言うようにそういうことはできないんですよ」
「そこをなんとか頼むよ。悪い思いはさせないからさ」
凜が金髪男にしつこく絡まれていたのだ。
会話を聞くに店外で何かをさせようとしているらしい。よくてデート、最悪は不埒な行為でもしようと企んでいるに違いない。
凛はいなすように対応しているけれど、その男は諦める様子を見せない。
少し前に一度凜にどうにかした方がいいと言ったけれど、彼女は慣れているから大丈夫だと言った。そのうち諦めるだろうから、と。
けれど男はまだ諦めていないようだった。先程までは凜が通り掛かる度に声をかけていたけれど、今は彼女の手を掴んで引き止めている。
仕事の邪魔になるから迷惑だった。それに凜の手を掴んでいることが春香を苛つかせた。
凛は気にしてなさそうで、まだ笑顔で対応している。プロという感じがした。
けれど、だからといってこのままではいけないと春香は思った。
春香はすぐに店の奥にいた和哉をホールの端へ引っ張ってくると、その様子を指差して小声で報告した。
「あれ、どうしたらいいんだ」
「んー。凛はなにかいっていたか?」
「慣れてるから大丈夫だって」
「そうか。……だが不安だな。ああ見えて凛はキレると怖いからな」
「え? 里中先輩が怖い?」
「いろんな意味でな」
春香がどういうことか詳しく聞こうとした時だった。男の怒鳴り声が聞こえた。
「何しやがる! こっちは客だぞ!」
凜と金髪男の方を見ると、立ち上がった金髪男がビショビショに濡れていた。凜は空のコップを持っていて、そのコップから滴がポタポタと垂れていた。
周りの客が驚いたような表情で凜たちを見つめている中、彼女は底冷えするような眼差しで金髪男を睨みつけていた。
状況的に凜が金髪男に向かって水をぶっかけたのだろう。先程まで笑顔だったのに、急なことで春香も困惑していた。
「ほら、やっぱり」
春香の隣で和哉がため息を吐き出した。呆れているような、面倒臭いと思っているような、そんな表情だった。
「何しやがるはこっちのセリフなんだけど。あんた今あたしのお尻触ったでしょうが」
「別にいいだろ、それくらい!」
「よくない! 勘違いしてるみたいだから教えてあげる。メイド喫茶はそういう場所じゃない。そういうことしたいんだったら風俗いけ」
「ふざけんなよ!」
「そっちだろ!」
こんなにも怒った凜を見るのは初めてだった。
活発少女で、どこか強気で誰にでも素直に何でも言うようなタイプではあるけれど、優しくて少し世話焼きっぽい部分があってそしていつも笑顔で。だから怒る姿を想像したことがなかった。
少し新鮮に思えた。
その一方で。
凜たちの会話を聞いて、春香は怒りも感じていた。もちろん金髪男に対してだ。
よりにもよって凜に不埒なことをしたとなれば黙っていられない。
拳を握りしめて金髪男のところへ行こうとして、けれど和哉に止められた。
「何をする気だ」
「ぶん殴ってくる」
「やっぱりな」
和哉はため息を吐き出した。呆れているような表情だった。
「落ち着けよ」
「お前は落ち着いてられんのか!」
「……正直に言うと気が気でない。凜があの客を殴りそうで」
「客の心配かよ!」
春香がそう詰め寄ると、和哉はそうじゃないと小さく首を横へ振った。
「違う。殴ってしまったら殴り返されるかもしれない。それに、殴る価値もない相手を殴らせたくないからだ」
「じゃあ俺が殴ってやるッ」
「君も凜と同じだ。殴り返されたらどうする?」
「別にいい」
自分がどうなろうと、春香はどうでもよかった。そんなことよりも凜を助けたいという思いが強かった。
けれど、和哉は首を振って止めてきた。
「よくはないだろう。そもそも暴力沙汰は店的にもよくない」
「でも!」
「それに、それは君のキャラじゃないだろう。……そういう君は隠しているんだろう?」
その言葉を聞いて、春香は冷静になる。
確かにそうだった。葛木春香は女の子らしく、口は悪くなくて、暴力を振るうようなキャラではない。今ここで暴力に頼ってしまえばそれが崩れてしまう。
最大の秘密に気づかれる可能性が出てくる。
そうなれば凜に嫌われてしまうかもしれない。
けれど、それでは現状をどうにかすることができない。
和哉が言っていたように、もしも凜が殴られたら。凜は普通の少女だ。大の大人に殴られたらどうなってしまうのか、わからない春香ではない。
手遅れになる前にどうにかしなくてはいけない。
それならどうするのか。
「……店長を呼ぶか?」
「いや、いい。こういうときはまず僕がなんとかすることになっている。それでもだめなときは店長か連兄さんの出番だ」
「なんとかできんのか?」
「いい方法がある。暴力よりももっといい方法だ」
そう言って、和哉はニヤリと意地悪そうに笑った。
いったい何をどうするつもりなのか春香にはわからなかったけれど、いつもならムカつくニヤケ面がどうにも頼りになるような気がした。
「ということで、僕がなんとかするから抑えてくれ」
「どうすんだ?」
「目には目を歯には歯を、というやつだ。僕の必殺技をお見舞いしてくる」
和哉が金髪男に近づいていく姿を、春香はただ見つめていた。
和哉の言う必殺技とはいったいなんなのだろうか。それは本当に金髪男に有効なのか。
結果を見るまではわかりそうになかった。
「お客様、どうなさいました」
和哉がそうやって、金髪男に話しかけた。
「カズ?」
凜が首を傾げて、それに和哉は頷いた。それでなにかが伝わったようで、凜は一歩下がった。
周りの客や女性スタッフも、男性スタッフが来たことで事態が収まると考えたのだろう。金髪男や凜たちから視線を外していた。
「この女が水ぶっかけてきやがったんだ」
「それはお客様が何かしたからでは?」
「ケツをちょっと触っただけだ。なにか悪いか」
「そうですね」
「は?」
「ところでお兄さん、いい体していますね」
「何の話だ」
困惑する金髪男の疑問には答えず、和哉はおもむろに金髪男の尻を触った。
春香は思わず目を見張ってしまった。
けれど驚いたのは春香と金髪男だけのようで、凜は特に驚いた様子も見せず、ただ呆れたような表情を浮かべていた。
いったいどういうことなのだろうか。
春香は混乱するばかりで、和哉の行動の理由をつかめずにいた。
そんな春香を置いて、和哉が今度は金髪男の耳に口を寄せる。
何かを金髪男に伝えたようだけれど、離れた場所にいる春香は聞き取れなかった。
伝えられた金髪男は、どうしてか顔を青ざめて和哉から距離を取る。それから慌てたように自分の荷物を持って、出口に向かって走り出した。
そんな背中に和哉が声をかける。
「お客様、お会計は二千円になります」
金髪男はお札を二枚投げて、そそくさと退店してしまった。
そのあとで凜がため息を吐き出して、ジト目で和哉を見つめていた。
「ちゃっかりぼったくったね」
「なんのことだろう」
「助かったからいいけど。……でもあの方法はもうやめなって言ったでしょ?」
「そうだったか?」
「自分を売るようなマネ、ユウが怒るよ」
「話せばわかってくれる」
「そうかもしんないけどさ」
会話はそれで終わったのか、凜は和哉から離れた。そして客たちを回りだす。きっと謝罪するためだろう。
春香は戸惑いながら和哉のもとへと行った。そして小声で話しかけた。
「お前、なに言ったんだよ」
「ん? ああ。お詫びに熱い夜をどうですかと言っただけだ」
「……それって」
金髪男の尻を触った行動、そして和哉の発言。それで春香は気がついてしまう。
「いいのか、お前は。この店には、その、そういう人がいるって噂流されでもしたら」
「そういう人? ……あー、同性愛者か。別にかまわないが。そもそも僕は――、」
その時、来客を告げるベルが鳴った。
入ってきたのは小柄な少年だった。中学生か、或いは背が低い高校生だと思われた。
薄手の半袖プルオーバーパーカーは水色で、下は黒のスキニーパンツにスニーカーという服装をしていた。
首元には野暮ったくないコンパクトなヘッドホンをかけていて、そのコードはパーカー前面のカンガルーポケットに続いている。
性別がどちらともとれるような中性的な、少し子どもっぽさが残っている顔立ち。
身体のラインが目立たない女装をすれば女の子に間違えてしまいそうで。
けれどラインがわかるような女装であっても、ファッションとして問題なく着こなしてしまうような感じもあった。
それでも露出した腕や首元を見ればちゃんと男だとわかった。
春香は仕事をしようとその少年に近付こうとした。けれどその前に、横槍が入った。和哉がその少年に声をかけたのだ。
「もう来たのか、ユウキ」
和哉は少年に近づいていく。春香は少し悩んだけれど、和哉のあとに続いた。
「うん、ちょっと早く着いてね。迷惑かなとも思ったんだけどね、お客さんとして待っているのもたまにはいいかなと思って」
「そうか」
「……それより、今飛び出してきた人いたけど、なにかあったの?」
「大したことじゃない、気にするな」
「すごく怖がってたみたいだけど。……まさか、またやったの?」
「……なんのことだかわからないな」
「じゃあどうして目を逸らすのさ。また自分を売るようなマネしたんでしょ?」
ユウキと呼ばれた少年は、腰に両手を当てて眉を吊り上げた。
どうやら怒っているようだったが、幼さの残る顔のせいか子どもが怒っているようでどこか愛らしい。とても怖いとは思えなかった。
「別に。減るようなものではないし、僕は気にしない」
「カズくんはそう言うけど。……ぼくはいやだよ」
「……悪かった」
「もうやめてよ」
「努力する」
「そうして」
春香は和哉とユウキの会話を聞きながら疑問に思っていた。
二人は仲が良さそうだったけれど、ただそれだけではないような気がした。
普通に考えれば友だちということになるけれど、友情の間に流れる空気感がなにか違うような。距離が近すぎるというか、なにか甘いような。
そういえば、と春香は思い出す。
そういえばユウキという名前を最近聞いたけれど、それは誰の何のことだったか。
けれど目の前の少年とイコールで結ばれるとは思えない。普通に考えれば違うはずなのだ。
なら同名の別人か。
「あ、あの」
思い切って声をかけてみると、ユウキと呼ばれた少年と和哉が春香を見てきた。
そこでハッとするような顔をユウキがして、軽く頭を下げた。
「ごめんなさい。お仕事の邪魔していましたね」
「い、いえ」
「新人さんですか?」
「あ、はい。えと、はるです」
メイド喫茶で働く店員は源氏名でホールに出る。
春香は源氏名を【はる】としたけれど、今さらになって安直だったかと思っていた。他の店員はみんな本名とかけ離れた源氏名の中、春香は自分の名前からとっているからだ。
とはいっても、今さら変えることはできないのだけれど。
「席の案内、お願いします」
そう春香に言うと、ユウキは和哉に視線を向けた。
「カズくんも呼び止めてごめんね」
「ああ」
和哉が離れていこうとしたところで、今しかないと春香は慌てて口を開いた。
「二人は!」
焦ったせいで声が大きくなってしまったけれど、おかげで和哉を振り向かせることができた。
「……えと、その。二人はどういう関係なんですか?」
するとユウキはどうしてか困ったように曖昧な笑みを浮かべた。
なにか言いづらい事情でもあるのだろうか。そう思って和哉の顔を確認してみると、彼は特に表情を変えていなかった。
こちらは何も気にしていなさそうで、それがまた二人の関係をわからなくさせた。
「えっと、なんて言えばいいのかな」
「僕とユウキは恋人同士だ」
言い淀むユウキの横から、平然とした顔で和哉が答えた。
「……え?」
聞き間違えてしまったのかと思い、春香は聞き返していた。春香にとって思ってもいなかった答えだったからだ。
だって和哉とユウキは男同士で……。
なら聞き間違いだと考えるのが、まず最初だろう。
それを否定する形で、和哉は言葉を口にした。
「だからユウキは僕の恋人なんだ」
「……マジ?」
「マジ」
そして、店内に春香の驚きの声が響いたのだった。