第二章1
里中凜によると、メイド喫茶は慣れてしまえばそれほど難しい仕事ではないらしい。
言われた当初は、そうかもしれないと春香は思った。
もちろんバイトとはいえ仕事であるのだから、それなりに大変なことはある。
けれど仕事内容だけを聞けば、普通の飲食店と比べて大変だということはなさそうだった。
特殊なことは確かにある。
お客さんといろんな会話をしたり、オムライスにケチャップで絵を描いたり、チェキ撮影したり、隠し味と評して料理を前に振り付けをしたり。
そんなことはファミレスなどではやらないだろう。
けれど髪型などに規制はないし、言葉遣いもある程度自由で、自分らしく働きやすい。
気持ち的には少し楽になるのだろう。
そう考えるとそれほど難しくなくて、とても大変ということもない。
誰かと会話することが好きだったり、誰かを楽しませることが好きだったりすると、なおのこといいのかもしれない。
厄介な客が来たりもするらしいし、面倒なこともあるにはあるようだったけれど。
春香としても思ったよりも苦痛にはならなそうだった。
普段人前でやっている演技に、少し恥ずかしい振り付けやチェキ撮影をするだけ。
嫌なことは男に媚びを売ることと、ひらひらのメイド服を着ることだけ。
それ以外には別段大変なことはない。始める前はそう思ったのだ。
「ボーイッシュっ娘のキャラってよく勘違いされるんだけどショートヘアじゃないとだめなわけじゃないんだよロングヘアだろうがツインテールだろうがおさげだろうが関係ないんだよボーイッシュとは外見だけがすべてとは限らないんだ難しいから詳しくは省くけど要するにボーイッシュは概念なんだよ」
「へ、へえーそうなんですね」
春香は困惑の表情を浮かべそうになることを堪え、笑顔で相槌を打った。
接客中だった。眼の前にいる眼鏡をかけた男は、絶妙に春香と目線を合わせないようにして、よくわからないことを、どうしてかまくしたてるように早口で喋っていた。
正直共感できる話とは言い難い。
そんな春香を知ってか知らずか、眼鏡の男は話を続けていく。
「あとは少しかじっただけの輩が知ったかぶってボーイッシュは巨乳だからいいとか言い出すんだわけわかんないよな料理動画見ながらなんでも洗わないといけないとか言い出すやつらと一緒だ何も知らないくせに言うなっていう少年っぽいのに女らしさが感じられるボディしてるからボーイッシュは魅力的なんだとか言い出すんだぜ笑っちゃうよなそれならボーイッシュ好きっていうな素直に巨乳好きって言えよそう思うんだよ」
「あはは……、」
会話をするだけ、ただそれだけだと思っていた。
もちろんただ会話をするだけの相手だっている。共感しやすく、わかる話題を振ってくれる相手だってもちろんいるのだ。
ただ彼のようにわからないことを言ってくる相手もいる。
たぶん聞いてもらえれば満足なのだろうけれど、聞く側からしたら困惑してしまう。
適当に相槌を打つことしかできていないけれど、果たしてこれでいいのか。
春香は疑問に思うけれど、他に上手いやり方を思いつけないのでそうすることしかできないでいた。
思っていたよりも精神的に疲れそうだった。
全国のメイド喫茶で働くメイドさんたちはすごいなと思うばかりだった。
「ふぅ……、」
「どうしたんだい、お嬢ちゃん。疲れた顔をして」
眼鏡の男への接客から少し経って休憩時間。スタッフルームで漏らすように息を吐き出した春香に、少しおどけた口調で凜が聞いてきた。
「思ってたより会話が大変な相手もいるなと思いまして」
椅子に座った状態で、首元のネクタイを意味もなく弄りながら、春香は口にした。
凜はスタッフルームのパイプ椅子に背面を前にして座っていた。背面に左腕を載っけて、右腕の肘も置いて手の平を自分の頬に手を当てている。
「接客の話?」
「はい」
「そっかぁ。慣れてるからかな、あたしはそう思ったことないんだよね」
「すごいですね……、」
「たとえばどういうお客さんが大変?」
「本当に会話したいのかなって感じで話す人ですかね。なんか会話しにきたんじゃないなら、じゃあなんで会話求めてくるのかなって思うんですよ。今日だってボーイッシュがどうとか話している人いて」
「あー、ボーイッシュくんか」
「知ってるんですか?」
「うん、常連さんだからね。……苦手?」
「苦手……というか、どう対応してあげればいいのか、どうもよくわからなくて」
正直に口にした。すると凜はなるほどというような表情を浮かべた。
「そっか。……でも、それは簡単だよ。聞いてあげてればいいんだよ」
「それでいいんですか?」
「うん。あの人は聞いてほしいだけだからね。そういう人もけっこういるんだよ。たぶんね、あの人たちは普段、好きなことを好きなように口に出せないんだよ。だから吐き出すためにここにくる。ここのスタッフはオタクも多いし、気持ち的に少し楽になれるんじゃないかな」
「だから吐き出せる?」
「そう。……あたしはそういう風に、吐き出せる相手になれたらいいなって思ってるし、ここがそういう場所であればいいと思ってるよ。だってどこにも誰にも、好きなことを好きだって言えないのは悲しいことだと思うから」
「……悲しい、こと、ですか」
春香は呟くように言った。
凜の言葉は春香の心の奥に重く沈んだ。
どこかがチクリと痛む感覚がした。
「うん。……好きなことを好きって言えるって、すごく幸せなことなんだよ」
そう言って、凜はニッコリと笑った。
春香にはよくわからなかった。