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 蛇口から流れる水の音と、数人の話し声が聞こえていた。

 女子トイレの個室に入っていた葛木春香は、用を終えて扉の鍵を開けようとしていた。

 そんなときに個室の外から聞こえたその会話に、春香は動きを止めた。


「葛木春香ってムカつくよね」


 女子たちの会話の中に、そんな言葉が聞こえたからだ。

 蛇口をひねる音と、扉を開閉させる音。雑多な音に混じった自分の名前と悪口は、春香の動きを止めるには十分なものだった。


 扉についたカンヌキ型の鍵にかけていた手をゆっくりと放す。

 物音を立てないように注意しながら、扉の外から聞こえる声に耳を傾ける。


「わかる。男子に媚び売っちゃってさ」

「そうそう。そういうつもりじゃないって装って。馬鹿な男子には隠せても、こっちから見たらバレバレなんだから」

「男子と同じものが好きだとか、下ネタ全然おっけーだとか。男っぽくしたりとかさ。男子に好かれるためにそんなこと言っちゃってさ」

「マジ計算高い。ひくわ」

「それね」

「あんな女に騙されてるなんて、男子ってホント馬鹿ばっかり」

「男好きだから男にチヤホヤされたいのよ、あの女は」

「それってなんていうか知ってる?」

「なになに?」

「ビッチっていうんだって」

「じゃあこれからあの子のことビッチって呼ぼ」

「それひどーい」


 女子たちがケラケラと笑う。

 春香は唇を噛んで耐える。その拳もギュッと握っていた。


「ああいう女、大嫌い」


 笑い声中で、誰かが言った。笑い声は止んで、代わりに始まったのは罵詈雑言だった。

 そんなつもりなんてなかった。

 春香はただ男子と遊んでいるほうがなんとなく気が楽で、だから学校でだって男子と一緒に運動場を駆け回っていた。それだけだった。


 女子といるとどうしてか話が合わないし、とても緊張してしまう。気を使ってしまう。

 けれど、女子たちには媚びを売っているように見えていたらしい。

 それに大嫌いであるらしい。


 女子と遊ぶのは難しい。けれど女子に嫌われたいと思っているわけじゃない。

 誰だってできることなら嫌われたくはないはずだ。仲良くできればその方がいい。

 だけど春香は不器用で、そうすることができない。


 女子といるとどうしたらいいのかわからなくなる。小学五年生になった今はさらにわからない。

 同じ女子であるはずなのに、まるで別の生き物みたいだと思っていた。

 けれどそのままじゃいけないとも思っていて、いつかは女子とも仲良くなれたらと願っていた。

 だから女子たちの言葉はひどくショックだった。


 きっとこの先、女子とは仲良くなれないのだろう。そう思い知らされた気がした。

 悲しいと思った。寂しいと思った。けれど、仕方がないとも思った。

 願うばかりで、仲良くなる努力をしてこなかった。

 自業自得と言えるのかもしれない。


 だから諦めた。悲しくても寂しくても、諦めることにした。

 だってそれですべてを失くすわけではないと思ったから。

 春香にはまだ男子がいる。

 遊んでいて楽しくて、一緒にいて気が楽な男子。彼らと友だちでいられるのなら、それでいいと思ったのだ。



 そう、思っていたのに……。






 女子たちに悪口を言われた、その日の昼放課。

 春香はいつものように運動場で遊ぶため、男子たちの背中を追いかけて外へと向かった。

 今日はサッカーをすると言っていたから楽しみだ、とか。そんな浮ついた思いを胸に、運動場へと飛びだした。


 いつも遊んでいる男子グループに駆け寄ろうとしたときだった。

 そのグループの中にいた特に仲の良かった男子、シュウジが、春香に掌を向けて立ち止まらせた。

 春香が訝しげにシュウジを見ると、彼は腕組みして口を開いた。


「春香。もうお前とは遊べない」

「……え」


 一瞬、何を言われたのかわからなくて。

 しばらくして理解してくると、疑問が頭の中を埋め尽くした。その疑問をそのまま口にする。


「なん、でだよ。……なんで急にそんなこと言うんだよ!」


 春香は噛み付くように言った。

 するとシュウジはどうしてか自信満々な表情を浮かべて、それから口を開いた。


「オレは男でお前は女だ。今まではよかったが、これからはどんどん男のほうが力が強くなる。保健でも先生が言ってただろ。だから今までみたいに遊んでいたら、オレが気をつけてたってお前に怪我させるかもしんないだろ。……オレは女を怪我させたくないんだ」


 言うと、彼の周りにいた男子たちが湧いた。


「超やさしーじゃん」

「シュウジかっこいい!」

「さすがシュウちゃん!」


 シュウジをおだてる男子たちの声を聞きながら、春香は拳を握りしめた。堪えるように歯を噛みしめる。

 悔しかった。なにが、どうして悔しかったのか。それはわからない。

 自分でもわからない悔しさが、どうしようもなく胸の中に広がっていく。


「……んだよ、それ……、」


 口から漏れた小さな言葉は、けれど騒ぐ男子たちの耳には届いていないようだった。

 春香を置いて、男子たちは会話を続けていく。


「でもシュウちゃん。それってブシンガンの最新話でアツシが言ってたセリフじゃん。オレは女を傷つけたくないって」

「う、うるせー!」

「シュウジがキレた」

「怒った、怒った」

「怒ってねえよ!」


 誰かが言った【ブシンガン】という言葉で、春香も気がついた。

 ブシンガン、正式表記は【武神銃】。それは少年漫画のタイトルだった。

 シュウジが言った『女を傷つけたくない』という言葉は確かにその武神銃の主人公、【センゴクアツシ】のセリフだった。


 春香はそのセリフがかっこいいと思った。

 主人公にそう言われた女キャラも惚れたような節があった。だからきっとシュウジもかっこいいと思ったから使ったのだろう。

 春香は女ではあるけれど、しかしどうしてかいつか言ってみたいと思っていた。だからシュウジの気持ちもわかる。

 わかるけれど、それを春香に言ってくるなんて、どうしても許せなかった。


「なあ春香」


 ふいにシュウジが言った。

 春香は返事をせず、拳を握りしめたまま俯いていた。


「オレは男として、女であるお前を傷つけたくないんだ。だからお前とはもうスポーツとかで遊ぶことはしない」

「……なんで」


 春香は絞り出すように言った。そして顔を上げて、睨むようにシュウジを見た。

 シュウジは一瞬、たじろくような様子をみせた。春香が睨んでくるとは思っていなかったのかもしれない。

 けれどそれも一瞬のことで。今度は照れたように頬をかきながら口を開いた。


「なんでって、そりゃあ。その……。べ、別にいいだろ、そんなこと。とにかくオレはお前を傷つけたくな――、」

「ふざけんな!」


 春香はシュウジの言葉を遮って叫ぶと、衝動のままに彼を突き飛ばした。

 理由のわからない悔しいという思いが膨れあがって、いつしかどうしようもない憤りに変わっていた。

 自分でもわけのわからない感情がさらに春香を苛つかせる。


 それだけじゃない。今までためてきた感情が爆発した感覚があった。

 母も父も兄も。祖父も祖母も親戚も。みんなから言われてきたことがある。高学年になった去年からは特に、だ。

『もう高学年なんだからもっと女の子らしくしなさい』『もっと女の子らしくなればなぁ』『お前女だろ』『どうも男っぽくなってしまって困っているんだ』

 そう言われる度に得体の知れない感情に襲われた。


 どうしてと憤った。

 なにがいけないのだと頭を悩ませた。

 自分は普通に過ごしているだけなのにと悲しくなった。

 積もりに積もった感情が今、シュウジの言葉によって爆発したのだ。


 突き飛ばされたシュウジは尻餅をついて、わけがわからないという表情で春香を見上げていた。

 そんなシュウジに飛びかかって、春香はその襟首を掴んだ。


「なんなんだよ! 女女女ってうるせえんだよ! 俺は……俺はな! 女だなんて思ったことなんか、一度もねえんだよっ」


 唾が飛び散ることも気にせずに怒鳴って、それから春香は自分で言って気がついた。

 自分が何を悔しいと思ったのか。それがわかった。わかってしまった。

 女。女と言われたことが、女扱いされたことが悔しかったのだ。


 けれど、どうして?

 どうして自分はそれが悔しかったのだろう。

 だって自分は本当に女であって。

 じゃあなんで家族は女らしくしろと言うんだ?

 というか、どうして自分は女だなんて思ったことがないと言ったのだろうか。


 春香は何もかもがわからなくなった。

 シュウジから離れて、何かに躓いたのか尻餅をつく。

 そんなことも気にせず、春香は疑問の答えを探す。


 探しているのになにも見つからない。

 わからないから、ただ眼の前で立ち上がるシュウジを見つめていた。

 シュウジは変なものを見るような表情で春香を見つめてきて、それから口を開いた。


「なんなんだよ、お前。いきなり怒って。なんだよ、女だなんて思ったことがないって。お前は女じゃねえか。……お前、おかしいよ。普通じゃない」


 そう言って、シュウジは逃げるように去っていった。

 彼の周りにいた男子たちも変なものを見るような目を春香に向けて、それから去っていった。

 一人残された春香は、呆然と空を見上げた。


「……普通じゃないって……。なら俺は、いったいなんなんだ」



 その日から、男子たちは春香から距離をとるようになった。もちろん女子たちからも嫌われている。

 だから、春香は学校に友だちがいなくなったのだと知った。

 自分からも距離をあけるようになって、孤独な日々は小学校を卒業するまで続いた。


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