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第一章9

 春香が更衣室を出ると、待ち構えていたかのように和哉が立っていた。


「着替え終わったか。……なんだ、その不満そうな顔は」

「実際、不満なんだよ。ほっとけ」


 春香は自分の姿を見下ろしてため息をつく。

 できることなら着たくはなかったけれど、これも秘密を隠すためなのだからやむを得ない。

 けれど、嫌な気分にはなってしまう。


「やっぱりそういう女の子らしい服装は苦手なのか?」

「着るのはな」


 和哉が言うように、制服自体は可愛らしいとは思う。けれどそれを着るとなると話は変わってくる。

 似合っているだとか、似合っていないだとか。そういうことではない。ただ単に嫌なのだ。


「……葛木はそういう服装が苦手なのに、私服は女の子らしいものなんだな。どうしてだ?」

「変に思われねえためだ」

「それだけ?」

「俺にとっては大事なことなんだよ」


 私服は女の子らしくて可愛いものを選んでいる。けれどそれだって本当は着たくはない。

 もっとかっこいいものがいいのだけれど、男っぽいとかボーイッシュだとか言われたくはない。

 かっこいい服装や少年チックな服装を着たがる女の子は世の中にごまんといることだろう。

 凜の私服だってそうだし、それにボーイッシュファッションというジャンルもある。

 春香としてはそちらの方がまだいいとは思う。


 けれど春香はどうしても、自分でも神経質で執拗だと思うくらい、少女らしく見られたかった。そうしていないと不安になってしまうのだ。普通から遠ざかってしまいそうで。

 でもきっとそんなことはないと、どこかでちゃんとわかってもいた。


「僕は、私服くらいは自分の好きなものでいいと思うが。無理して周りに合わせる必要はないだろう」

「俺はそう思えないんだよ」

「葛木は……、」


 和哉はそこまで口にして、けれど言い淀むように言葉は止まった。

 なにか言葉を探すように、口を開けたり閉じたりを繰り返す。


「なんだよ」


 不審に思って、春香は促すように言った。

 それでも和哉は続く言葉を口に出さない。

 しばらく悩む様子を見せて、けれどやがて和哉は首を横に振った。


「いや。やっぱりいい」

「ホントにいいのか?」

「ああ。大したことじゃないし。……それよりも、服の着心地はどうだ? おかしなところはないか?」

「あ、うん。大丈夫そうだ」


 和哉が何を言おうとしていたのか。春香はまだ気になっていたけれど、彼は何も言う気がないとわかった。だからそれ以上は聞かずに和哉の質問に頷いた。


「じゃあ、姉貴に挨拶を――」

「お、春香。着替え終わったんだ」


 和哉の言葉を遮るようにそう言ったのは、ちょうど厨房の方向からやってきた凜だった。

 その瞬間、春香は不満げだった表情を消して笑顔になる。

 一瞬前までの不満げな顔が嘘だったかのように突然表情を変えたからか、和哉が不思議なものを見るような表情で見てきたけれど、春香はそれを無視した。

 凛は春香の傍に寄ってくると、春香の姿を上か下へと見て、それから春香と目線を合わして笑顔を浮かべた。


「この前春香は似合うかどうか心配してたけど、あたしの言ったとおりよく似合ってるじゃん」

「そうですかね」

「うん。可愛いよ」

「あはは……。なんかちょっと恥ずかしいですけど、そう言ってくれて嬉しいです。……でもこんな可愛い服を着れるなんて、ここでバイトできることになってよかったって思います」


 春香は凛に嬉しげな声色で言った。不自然に思われないように、本当に嬉しそうにしていると思ってもらえる笑顔を意識する。

 葛木春香ならこうすることが普通だろう。だから少し恥ずかしげにしながら喜ぶフリをした。

 凜に嘘をつくことになって罪悪感があったけれど、彼女を悲しませることや、彼女に嫌われることを考えれば我慢ができる。

 これでいいのだ。


「これから一緒に頑張ろうね」

「はい!」

「あ、そうだ。あたしが教育係だってことは聞いた?」

「さっき一ノ瀬くんに聞きました」

「うん。そういうことだからよろしくね。じゃあさっそく……と言いたいところだけど。まだ店長に挨拶してないよね? 先に行ってきな。あたしは備品室にいるから挨拶終わったら来てね」

「わかりました」


 凛は春香に背を向けて、備品室へと歩いていった。


「……すごいよな、君」


 和哉が春香をジト目で見つめてそう言った。


「なにが」

「猫かぶりモードへの切り替えの速さがすごいなと思って」

「猫かぶりモードとか言うんじゃねえよ。ぶっ飛ばすぞ」

「こわ。僕にも可愛いらしく接してくれてもいいと思うが」


 春香が和哉を睨みつけると、彼はわざとらしく肩を竦めてみせた。その仕草に春香は少しだけイラッとする。

 どうして和哉はこうも苛立つことをするのだろうか。もはやわざとやっているのではないだろうか。春香はそう考えて、心の中で首を横に振った。

 ないだろうか、ではない。和哉はわざとやっているのだと思い直したからだ。

 きっと一ノ瀬和哉はそういう人間だと思うから。


「そしたら猫かぶるなだとか言うだろ」

「あたりまえだろう」

「……ホント、いい性格してんな」

「ありがとう」


 春香は嫌味を言ったつもりだったけれど、和哉は何処吹く風という感じで、さらりとそう答えた。

 この男を苛つかせたり動揺させたり。そんなことができる道筋が、春香には見えなかった。

 何を言ってものらりくらりと躱されるか、逆に苛つかせてきそうだ。


「誰も褒めてねえよ」

「それは残念だ」


 テキトーな調子でそんなことを言うと、和哉は預けていた壁から背中を剥がした。

 大きな伸びをして、あくびを漏らした。そして面倒臭そうな顔で、自らの腕時計に視線をやった。

 やがて顔を上げて、春香を見てきた。


「さてと。僕も仕事に戻るか」

「悪いな、世話かけて」

「気にするな」


 春香に背を向けて歩き出した和哉は、けれど途中で足を止めた。そして顔だけで振り返ると、ニヤリと意地悪そうな笑顔を浮かべた。


「あ、そうだ。一ヶ月はしっかりと働いてもらうからな。そうでないとエロ本を読んでいたとバラすからな。凜にも」

「……わかってるよ」

「じゃあ、そういうことだから、よろしくな」


 そう言い残して、今度こそ和哉は立ち去った。

 そんな和哉の背中を見つめて、春香は小さくため息を吐き出した。そうして厨房のある方向へと足を向けて、ゆっくりと歩き出した



 この日から、葛木春香の初めてのアルバイトは始まった。


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