おまけ 呼び名
蛇足のおまけです。第一話の後、二人が初めて飲みに行った日の話+α。
食堂を訪れた次の休みの日の前日。戦々恐々としながら職場を出たところを待ち伏せられて、逆らうのはまずいと分かっていながら本能的な恐怖心で振り切ろうとしてあえなく失敗し、大して抵抗もできないまま気づけば開店したばかりの飲み屋に引っ張り込まれていた。
男の奢りで一杯目を飲み干して、ようやく気分が落ち着いて頭が回るようになってきた頃合いで、男が名乗りを上げてきた。
「俺はギオという。職業は、料理屋の主人兼料理人だ」
やや耳慣れない短い名だが、語調からして男性名だろう。俺、という一人称からしても、どうやら見た目通り男性らしい。
さて、ギオというのは魔性の本名なのか、それとも人間用の仮の名なのか。そもそも魔性に本名などあるのか。あったとしてその名は個人を示すものなのか、世襲なのか、特性を示すのか。これまで様々に記されている文献を思い起こして考えていたが、次はお前だとばかりにこちらへと顎をしゃくられて、その辺りの確認はひとまず持ち越すことにした。
ほぼ面識のない相手、しかも正体の知れない魔性に名を名乗ることに抵抗はあるが、この相手に黙秘しても意味はなかろうと諦めた。
「ディーンだ」
いつもと同じように名乗ると、男の片眉がくいっと上がった。初めて会ったときも思ったことだが、この魔性は感情表現が豊かだ。人間としか思えない、大袈裟なほどの感情表現をする。
「何て呼べばいい?」
返ってきた言われなれない言葉に、つい怪訝な表情を作ってしまう。特に呼びづらい名ではないし、この国ではこれまでに略称を聞かれたことはない。
好きに呼べばいいと言いかけて、ふと思いついて直前で言葉を変えた。
「じゃあ、ディーと呼んでくれ」
口をついたのは、久しく聞いていない懐かしい呼び名だった。たまにはそう呼ばれるのも悪くない気がしたのだ。
この国では、ディーンを略してディーと呼ばれることはなかった。ギオが珍しいのと同じく、ディーも短すぎてこの国では好まれない。
「ディー、ね。よく馴染んだいい名だ」
魔性は、得心がいったというように頷いた。ディーンはそれなりに馴染みのある名のはずだが、魔性にはそうではなかったらしい。
「じゃあ、ディー。再会を祝して二杯目といこうか」
にやりと笑って、店員を呼ぶ。
ディーと呼ばれると、魔性と向かい合って強ばっていた体から、少し力が抜けた。
「前も言ったが、奢りは一杯だけだ。金がないからな、ここからは手持ちで飲める分だけ飲む」
自慢にならないことを堂々と言って、言葉通りに安酒を注文する。
あいにく安い酒を飲むと気分が悪くなる体質なので、こちらは遠慮なくいい酒を頼んだ。
あまり強くないのでちびちびと飲んでいる向かいで、魔性は豪快に杯を干していた。なみなみと注がれた酒が、どんどんと消えていく。確かに、この勢いで飲むなら、酒の質は妥協せざるを得ないだろう。
料理屋をしているほどに口にするものに思い入れがあるなら酒にもこだわりがあるかと思いきや、そうでもないらしい。
物問いたげな顔をしているのに気づいたらしく、魔性が軽くなった杯を振る。
「高い酒も好きだけどな。俺は酒は喉ごしを楽しむもんだという主義で、俺の好みだと、がぶ飲みが一番美味い。で、財布と相談すると、こうなる」
魔性が酒の飲み方に主義を持っているとは思わなかった。案外に個性豊かな種族なのかも知れない。
魔性は杯を空ける合間にいろいろと楽しそうにしゃべっていたが、相手の情報が少ない状況でうかつに発言するわけにもいかない。何が逆鱗に触れるのか、分からない内には慎重にならざるを得ない。
相手の話に時々うなづきながら黙って酒をなめている内に、魔性の財布が空になったらしく、その日はそう遅くならずにお開きとなった。
教えてもいない自宅まで当たり前のように送り届けられたことについては、紳士的だと感心するべきか、無礼だと非難すべきか、身の危険を感じて恐怖すべきか、酒の回った頭ではすぐに答えが出なかった。疲れと酔いで眠くなってきていたせいで、考えるのは諦めて、おざなりに礼を言って別れた。
それが、魔性の飲み友達ができた最初の日の話。
結局、初めて本名である「ディーリンド」の名で呼ばれたのは、結婚宣誓式の誓いの言葉の時だった。
誓いの場で、互いの名に愛を誓うだけの簡素な宣誓式だが、改めて告げるのが気恥ずかしくて本名を教えないままに当日を迎えてしまったのに、神妙な表情を崩さぬままに平然と口にして見せる。
「知られぬことはない」のもたまには便利だと思いながら顔を赤くしていると、誓いを終えて夫となった男はこちらが恥ずかしくなるほどの笑顔で笑ってみせた。
お読みいただいてありがとうございました。