逆鱗
「つれねぇなあ」
酒を飲み交わしながらそうぼやかれるのが恒例になって久しい。いちいち反応するのも面倒なので、気にせず杯を空にする。
「そろそろほだされてくれても罰は当たらねぇと思うんだがなあ」
言葉こそ恨みがましいが、表情も口調もそう困っているようには見えない。
「しつこく言い寄られれば応じるような柔な性格はしていない。そもそも、罰というなら、神殿はお前の存在を否定している。当たるならとっくに当たっているだろう」
男は肩をすくめた。
「そりゃそうだが。そう言うお前こそ、神を信じちゃいないだろう?」
「研究者だからな。神に真理を求めたりはしない」
「そうか」
頷いて、男はしばらく黙り込んだ。考え事をしているらしく、視線は杯の上方に固定されたままだ。
「なら、研究者として、新たな世界の謎に挑んでみる気はないか?」
「ほう」
興味を引かれたので、男と視線を合わせる。
「魔性と人の合の子。しかも、人権やら倫理やら言われずに、観察し放題、触り放題。どうだ?」
「ほう」
若干、身を乗り出して顔を近づける。ついに魔性の子孫を紹介してもらえるらしい。しかも触れてよいとは興味深い。
男はにやりと笑った。
「つまり、俺と子作りしないかって提案なんだが」
反射で体を引いた。嫌悪に顔が歪むのが分かる。
こいつは、自分の子を、研究材料に差し出そうと言ったのだ。自我もないようなか弱い赤子を、親として守るべき存在を、己の欲のために物のように売り渡そうとしている。
感情を制御できない。親が子を見捨てると言うのを聞いて、平静でいることができない。
「最低だな」
吐き捨てると、男はこちらの怒りを気にした様子もなく、不思議そうにこちらを見ている。
「なんでだ?」
それなりに楽しく飲んでいた時間が、急速に冷えていくのを感じる。
「貴様、自分の子を犠牲にすることを何とも思わないのか。よくも自分は人だなどと口にできたものだ。恥を知れ」
立ち上がり、踵を返そうとしたところで、机越しに伸びてきた手に腕を取られた。嫌悪が募って振り払おうとしたが、びくともしない。引っ掻いてやろうと逆の手を翳すとそちらも掴まれる。
「悪かった。謝るから、ちゃんと説明させてくれ」
男の顔はしごく真面目で、ふざけた様子は消え失せている。
「俺は、子供を犠牲にするつもりなどない」
消えない苛立ちと嫌悪感を隠さずにいると、腕を引っ張られてゆっくりと椅子に座らされた。隣に椅子を引っ張ってきて、片手を押さえたままで、男も座る。
「お前が自分の子を酷く扱う訳ないだろ。可愛がるに決まってる。俺は、お前の子なら溺愛する。幸せに育つに決まってる」
飄々と言って、困ったように笑みを浮かべる。
「単に、俺を相手に選んだら、研究者としてのお前にもメリットがあるぞと、言いたかっただけだ」
「じゃあ、何で謝った。何を謝ったんだ?後から言い訳をして機嫌を取ったつもりか」
「違う。お前に嫌な思いをさせたことを謝ったんだ。こんなに激烈に反応すると思わなかった。悪かった」
声は真摯で、嘘には聞こえない。いつものやり取りを思い返せば、よくある軽口だったのだと理解できる。だが、一度沸騰した感情がまだ納得できない。
不快感を飲み込もうとして、目の前の腕をぎりぎりと掴んで爪を立てる。男は何も言わず、身動きもしない。
かなりの時間が経って、ようやく心が落ち着いてくる。冷静に思い返すと、取り乱した自分が腹立たしい。
別に男は、子を無体に扱うとは言っていない。見て触れると言っただけだ。それを、子供を物のように捨てるかのように捉えてしまった。いや、捨てられる子供になった気がしたのだ。まだまだ自分も青い。
男が向かいに椅子を戻し、手酌で飲み始める。
「悪かった」
「いや。俺の言い方が悪かった。これからはもうちょい上品に誘うことにする」
何でもない顔の男が上着の袖を下ろしているのは、先ほどついてしまった爪痕を隠してくれているのだろう。気まずい。
「ま、俺の子を大切に思ってくれるのは分かったから、一つ前進かな。魔性の子に拒否反応を示されるかもと思ってたから、安心した」
自分が産む話だったと今更ながら思い出す。そこは深く考えていなかった。
「……別に、誰の子だろうと、子供は大切にするものだ」
「ありがとう」
男が杯を掲げて笑う。
「……ふん」
返礼はせず、ぐいっと杯を煽る。
その後は、いつものように話して、いつものように飲んで、いつものように別れた。
が、二人の関係がこの夜から少し変わったことは、どちらも自覚していた。