ミシュリエル公国にて 後
ミシュリエル公国、「光都」と呼ばれる美しい街・アンフィール。大陸内で唯一、海と陸続きになる場所に建てられた白壁の城・ヴェルホーン。古代の神々が使用した言葉で、「白海の城」という意味を持つこの城は、ミシュアの加護を得たとある一人の若者が、仲間を集めて集落をつくり、少しずつ領土を広げていったのである。
その若者の血を引いた女王・アヴィニアの死より少し時が過ぎたその頃、一組の影が、ヴェルホーンより馬を出した。暗闇に紛れるように外套を纏う二人は、水上も走る美しい毛並みの馬に跨り、――一人は赤子を、一人は手綱をそれぞれ抱えながら、城の北側にある森へと走った。森は宵闇の陰も、暁光の陽も通せず、ただ二人を森の奥へと誘う。疾風に護られ奔る影を見た森の動植物たちは、何事だろうとざわめいた。
『いったいどうした事だろう』
『水の女王様が亡くなったらしい』
『そんな!ぼくたちを護ってくれた優しい人たちだったのに』
そう口々に悲しみを露わにする彼等に、二人組を乗せた馬が脚を止めた。手綱を持っていた人影が、それを引いたのである。既に神々の加護が消えかけていた二人の力は、限界に近かった。しかし、森の動植物達の声が聞こえたのであろう、赤子を抱えた影は口を開いた。
「ミシュリエル公国は、この赤子と共に再興を果たすでしょう…その時まで、この子を、竜の谷へと預けます」
『竜の谷に行くのかい?それは安心だ、最後の希望を守ってくれるだろう』
『黒竜様が守ってくれるなら安心だろう』
安堵の吐息を漏らす彼等の声を聴いて、赤子を抱えた影が、その腕に抱えるものの顔を見つめた。鳴き声一つ立てず、安らかに眠る赤子。黒髪が、微風に揺れる。目も開かない、生まれたばかりの幼子に、私達はなんと重い運命を預けてしまうだろう。その瞳から嗚咽が漏れたかと思うと、咄嗟に拭い、顔を上げた。
谷を目の前にした影に、暁光が差す。突風に、頭部を覆っていた外套が外れた。長く美しい金糸の髪は、嗚咽を隠せぬ炎の瞳と共に脆く、揺れた。抱えていた小さな命が、細い腕に支えられている。
「水の女神より生を受け、使命を受けた黒鱗の竜よ…――ミシュリエル公国は今此処に眠れり。未だ目覚めぬ水の女神の寵愛を受けた王女に、今、我等の命と引き換えに、」
涙が止まらない。視界が滲む。暁光を受けた影は、谷へと脚を一歩、また一歩と進んで行く。例え一人になろうと、愛する人と背中を合わせて、国を守って来た。身体も傷だらけで、もう綺麗だとも言えない。それでも、女王は、国王は、――夫は、心から愛してくれていたと、影は走馬灯のように奔る思いに浸り、顔を上げる。瞳は、暁光を浴びて煌いた。
「――祝福と、賛美を」
直後、二人の影は、宙を浮いた。