悪魔たちの夜想曲
魔界では事あるごとに、血筋の良し悪しが関係してくる。
五爵の割り合いを見てもそれは明白で、一部の例外を除いて公爵は基本的に純血種の魔族が占めており、混血種の魔族には爵位すら与えられないことも当たり前のようにあった。
しかし、純血種の中にはこうした風潮を快く思っていないものが少数派ながらも存在する。現在大きな屋敷の前を静かに飾る噴水にもたれたそがれている男もその一人である。目の前の屋敷の主を父に持つこの男、本来ならば今宵屋敷で催されている爵位授与の祝宴の中心にいるべき者なのだが、古い考えを持つ年寄りたちの話が嫌になってこっそりと避難してきたところだった。
「ったく……なぁにが『純血種こそがこの世のすべて』だ、『清らかな血筋を誇りに思え』だ……これだから頭のお固いジジイ共は嫌いなんだ」
手にしたワイングラスの中身をぐいっとあおり、一息ついていやいやと首を振った。
「この世に生きとし生けるモノすべてを愛することこそ我が使命……ああいう老いぼれた耄碌爺様たちがいたからこそ、我々の暮らしがあるのだから敬愛するべきなのだ……」
そうやってぶつぶつと独り言を呟いていた男の前に、どこからかふわりと一匹のコウモリが現れた。コウモリはワイングラスの縁に留まると、男を見上げて翼をばさりと広げた。
『そこの殿方! どうか私めに力をお貸しくださいませ!』
「うわっ!」
突然現れたコウモリに話しかけられ、油断していた男はグラスから手を離してしまい、グラスはコウモリを乗せたまま重力に従い落下して中身の液体と共に地面に散った。コウモリの方はグラスが割れる寸前にそこから飛び立ち、男の目前にばさばさと両腕を動かしながら停滞していた。
「す、すまない……驚いてしまって……」
『いえ、無理もありません……そんなことより、我が主をどうぞお助けくださいませ!』
切羽詰まったコウモリの様子を見て、只事ではないのだと察した男はろくに事情も聞かないまま分かったと頷いた。コウモリは命の恩人と言わんばかりに丁寧に何度も礼を述べ、『どうぞ、こちらでございます!』と急旋回して元来た道を引き返した。
飛んでいくコウモリに導かれ、男は自邸の庭を飛び出して道を走り、屋敷の外れにあった誰も管理していない深い森の中に入っていく。方々に伸びた小枝が行く手を塞いでいたが、男は気にせず突き進んだ。
どれだけ森の中を走っただろうか。二人は――正確には、一人と一匹は――やがて森のひらけた場所に出た。男の先を行っていたコウモリはその手前でさらに加速して、ひらけた場所で力なく眼を閉じ倒れている女の横に降り立った。綺麗なブロンドの長髪を垂らし、華奢な体を薄手のドレスで包んだとても美しい女を見た男は一度足を止めて息を呑んだが、ゆっくりと近づいて女の傍らに片膝をついた。
『主! 連れて来ましたぞ!』
コウモリの言葉に、女の瞼がゆっくりと開かれて男の姿を捕らえた。その美しい瞳に男が心を奪われているうちに、女は緩慢な動作で身を起こしてコウモリを一睨みした。
「クリス、あなたは馬鹿なの?」
『な……何を申しておりますか、我が主! 貴方様が倒れたため私は……』
「私が、娘の血しか飲まないことくらい、知っているでしょう……それなのに、どうして殿方を、ここに連れて来たんですか? しかも……純血種など……」
憎らしそうに男を見つめる女の口元から、吸血鬼特有の鋭い犬歯がちらりと覗く。鉄分不足で倒れたのだと察知した男は女のそばに片膝をつき、スーツの袖をまくって自分の腕を晒しそっと差し出した。
「血が必要なら、どうぞ私の血を……」
「純血種に命乞いするほど、愚かではないです……。クリス、早く屋敷に……」
『ですが……』
「私のことは気にしないでいいですから」
男は女の口元に自分の腕を差し出し、しかし女は頑なにそれを拒む。おろおろするコウモリのクリスを他所に、男は女をぐいっと引き寄せて真剣な面持ちで見降ろした。
「このままでは身が持たないのでしょう? 意地を張っていないでさっさと飲みなさい」
「なっ……意地なんて……」
ぎりっと睨みながらも、力が入らないのか女は抵抗をしない。男はため息をつき、近くにあった木の枝で己の手の甲を何度か傷つけた。その傷口から溢れる赤黒い雫を見て、女の瞳孔が猫のように縦に細長く伸びて犬歯がさらに鋭く尖る。吸血鬼が獲物を捕捉したときに見せる現象の一つだった。
「あなた……何を…………」
「これなら少しは飲む気になるだろうと思いましてね。さぁ、遠慮せずにどうぞ」
男は傷ついた手の甲を女の口元に持っていく。最初は躊躇っていた女も、プライドよりも命の維持の方を優先したのか半ば諦めたように傷口に舌を這わせた。
それだけで女の肌に血色が戻り、心なしか見事な金髪がさらに輝きを増す。やがて背中から髪を掻き分けて一対の翼が広がり――男はその翼の片方が天使のものであることに目を見開いた。クリスは地面から飛び立ち、男から白い翼を隠すように女の肩に留まる。
「不思議ね、少し舐めただけなのにもう回復するなんて……やっぱり血の純度の違いなのかしら」
『主……翼が…………』
「翼?」
そこで初めて、女は自分の翼が勝手に広がっていたことに気がついた。慌てて折りたたんで背中に隠し、立ち上がって俯き後ずさりをした。
「ごめんなさい……気持ち悪いものをお見せして……」
「え?」
「だってそうでしょう? ヴァンパイアでありながら、天使の翼を持つなんて……」
『主……』
「そうかな? 私はとても綺麗だと思いますよ?」
近くの岩に片膝を立てて座り直す男の返答に、女は弾かれたように顔を上げて男を凝視する。
「だって、あんなに美しい翼を持つ人、私は初めて見ましたよ。これだから混血種は愛おしい」
「……あなた、変わり者って言われるでしょ?」
「よくご存知で。……さて、これも何かの縁ですし、よければあなたの屋敷までお送りしましょう」
自分と肩を並べて静かに手を差し出す男に、女は柔らかく微笑みかけて己の手をその上に乗せた。クリスは先導するように、女の肩から離れるとふわりと滑空し二人の前を飛んで行った。
変わり者の純血種のインキュバス・エルスカと、純白の片翼を持つ混血種のヴァンパイア・アイラ。
彼らが後に再び出会い、ささやかに愛を育み二人の子供を授かることを、このときはまだ誰も知るよしもなかった――