第8話 最下層
聖樹の森のどこからが浅瀬でどこからが最下層なのか、明確な線引きがあるわけではない。
大地は聖樹王に向かって緩やかに登っている。
生い茂る聖樹も、奥に向かえば向かうほど太くて逞しい聖樹となる。
そしてその根元に生えてくる魔石も徐々に大きくなる。
親指ほどの大きさの魔石が最下級魔石だ。
浅瀬での砂粒の極小魔石と米粒の小魔石の採集では、魔石の見極めは特にいらない。
でも最下層以降は魔石の見極めも探索者やエインヘルアルの技術として必要となってくる。
きちんと最下級までに育っていない魔石を取っても、それは単に小魔石として扱われてしまうからだ。
もちろんエインヘルアルにとっては魔石が持つ魔力量が重要で、最下級魔石でなかったとしても吸収した魔石の魔力量が最下級魔石に近ければ十分に価値はある。
「ありました」
ニニが本日3個目の最下級魔石を見つけた。
浅瀬よりも大きい聖樹の根元に黒く輝く石は、確かに親指ほどの大きさである。
ニニは最下級魔石の見極めは問題なく出来るそうだ。
真っ白なマントの中から、短剣を握ったニニの手が出てくる。
細くてしなやかな手だ。
色白で綺麗な肌はまるで女の子のようである。
魔法袋を使えば一瞬で魔石を取り出せるけど、もちろんそれはしていない。
ニニは慣れた手つきで短剣を聖樹の根元に突き刺す。
あの短剣はきっと魔道具なのだろう。
魔石の周りを削り取っていくと、綺麗に最下級魔石を取り出していく。
「貴方は槌しか持っていないのですか? 浅瀬では槌で小魔石を?」
言外に魔石を取り出すのを手伝わないのか? と聞かれているように思えた。
「ま、まあ、そんな感じです」
「ふ~ん」
ニニは俺の答えにあまり興味を持たなかった。
手伝う気はないと捉えたのかもしれない。
「よし。取れましたよ」
ニニが1人で頑張って取り出した最下級魔石を受け取る。
そしてニニには見えないようにマントの中で、魔石を魔法袋の中に入れる。
俺もサンディさん達が使っているようなマントを買った。
マントがあれば魔石を入れるところを見られることはないからね。
「しかし驚きました。貴方の特殊能力は本当だったんですね。正直、嘘だと思っていましたよ」
「あはは。そ、そう思いますよね」
1個目の最下級魔石を俺が持った後、ニニはあきらかに緊張していた。
この状態で魔獣と遭遇すれば、普通なら当然に戦闘となる。
しかし魔獣と遭遇した時、魔獣は俺達には興味がないと言わんばかりに、そっぽを向いて明後日の方角へと走り去ってしまった。
それから何匹かの魔獣と遭遇したけど、どの魔獣も俺達に興味をまったく示さなかった。
こうなると危険な瞬間はたった1つ。
最下級魔石を取り出す瞬間だ。
まだ魔法袋の中に入っていないのだから、近くに魔獣がいれば当然戦闘になる。
今のところ、まだその瞬間は訪れていないけどね。
このまま順調にいって一度も戦闘が無いのがベストだが、そうなるとせっかくニニの戦いぶりが見られると思っていたのに、見れずに終わってしまう。
それはそれで惜しいけど、命の安全が何より大事だ。
正確には俺の命は安全でなくてもいいんだけど、問題はニニである。
エインヘルアルなのか?
マリアさんの半分正解の意味が分からない以上、もしかしたらニニは死んだら終わりかもしれない。
不要な戦いは避けるに越したことはないだろう。
それにしても、どんどん奥に進んでいくな。
浅瀬でもほとんど道と呼べるようなものはなかった。
探索者やエインヘルアルがよく通る場所は、何となく道のように草と土が踏みつぶされていたりするけど、最下層ともなれば完全に道はない。
「このルートはニニさんがよく通るルートなんですか?」
「そうですね。ルートと呼べるような決まった道順はありませんが、目印となる聖樹はいくつか決めてあります」
「浅瀬の小魔石はだいたい2~3日でまた生えてましたけど、最下級魔石だと何日ぐらいです?」
「え?」
「え?」
「そんなの……測ったことないです。というか測れないですよ」
むむ、これは失言か。
小魔石がまた生えてくるまでの日数を計測できたのは、魔法袋で安全に魔石狩り出来る状況だからだ。
普通の探索者はそんなこと測れる余裕もなければ、測ろうともしないか。
とにかく歩き回って魔石を見つけるのが大事だもんな。
「あ、気にしないでどうぞ……」
「……はい」
もともと微妙な雰囲気が、さらに微妙になってしまったか。
それからしばらく最下層をさらに奥に奥にと歩いていく。
途中、ニニが最下級魔石を見つければ取り出して俺が持つ。
ソールが真上に来る頃には、10個の最下級魔石が集まっていた。
魔力換算で小魔石1000個分だ。
ゼニ換算だと100個分か。
午前中は結局一度もニニの戦闘を見ることはなかった。
無言で昼飯を食べると、すぐにまた歩き始める。
一体どこまで進むつもりだ?
「このまま進み続けたら下層に入ったりしません?」
「ええ、そろそろ下層ですね」
「え!?」
「警戒を高めて下さい。ここからは貴方の特殊能力に関係なく、襲ってくる魔獣もいますから」
「ちょ、ちょっ! 下層入るの?」
「はい。入ります」
「マリアさんからは最下層って」
「僕は貴方の特殊能力を確認後、下層まで進めると判断したら進むようにマリアさんから言われています」
くそ……騙したな~マリアさん!
まあいいんだけど。
俺はいいんだよ? 別に死んだって。生き返るんだから。
君はいいのか?
「ニニさんは下層の魔獣に絶対勝てる?」
「絶対ではありません。各階層の中でも魔獣の強さには幅がありますが、下層の上位の魔獣は正直厳しいですね」
「い、いいの? その、俺は死んでも生き返るからいいんだけど」
「なので、いざとなったら遠慮なく囮として使わせてもらいますね。僕は逃げますから」
おお、いい度胸してんな。
お前は死んでも生き返るんだから、盾となって自分を守れと。
でも、それってニニは不死身じゃないってことだよな。
ニニは魔法袋のこと知らないから、敗北したら当然魔石は魔獣に食べられると思っているだろう。
……あれ? 死んだら装備って一緒にヴァルハラに戻るよね?
クズ野郎達は装備ごと光りの中に消えていった……あ、いや、いくつか道具は残ったままだったな。
魔法袋は当然ついてくるよね? その場に置き去りなんてことないよね? だって俺の特別な魔道具なんだし!
俺の疑問に答えてくれる親切な神様はいない。
不安になってきた途端、額に嫌な汗が流れ始めている。
そんな俺のことなど気にしないで、ニニはさらに奥へ奥へと歩いていく。
「ありました」
おお! あれが下級魔石か!
聖樹の根元に拳ほどの大きさの魔石が見えた。
大きい。
最下級魔石でも親指ほどの大きさだったから、お宝! ってイメージとは合わなかったけど、下級魔石はまさにお宝って感じだ。
ニニは最下級魔石の時とは違い、すぐに下級魔石に近づこうとはしない。
辺りを警戒している。
確か下級魔石の近くには魔獣が潜んでいることが多いんだっけ。
「いる」
ニニの姿勢が低くなる。
つられて俺も低くなる。
いよいよニニの戦闘を見られるのか。
しかし、それ以上に下層の魔獣と戦うことに不安を覚えてしまう。
頼むから勝ってくれよ。
ニニはじっと動かない。
俺はハラハラしながらニニの後ろに隠れるように同じくじっとしている。
最下層よりもさらに太くて逞しい聖樹。
生い茂る草は、姿勢を低くした俺達を隠すほど高く育っている。
それは逆に魔獣の姿も隠してしまうのだろう。
額から流れ落ちる汗の粒が拭った。
その時だ。
ふわりとソールの光りを大地に届ける風が吹くと草が舞った。
その瞬間、森の中に隠れるそいつをニニが捉えた。
そして次の瞬間、ニニの真っ白なマントから出てきた手に握られていたのは……銃!?
ニニは無言で銃をぶっ放した。
銃から放たれた弾丸は、草に隠れるそいつに直撃した。
「ブヒィィィィィ!」
生い茂る草木の中から茶色い豚の魔獣が姿を現す。
豚は通常の5倍はあろうかという巨体だ。
まさに丸々と太った豚である。
「ブホォォォォォ!」
見た目からは想像できない速度で豚が突進してきた。
突進を闘気全開で回避する。
一瞬でも戸惑っていたら避けられなかっただろう。
そんな俺とは対照的に、ニニは余裕を持って避けていた。
速い。
なんちゅ~速さだ。
闘気か? 半分エインヘルアルという謎の言葉からして、不死身じゃないけど闘気は使えるのかもしれない。
ニニは圧倒的な速さで動き回りながら、豚を銃で撃ちまくっている。
しかも2丁の銃で。
両手にそれぞれ銃を持っていたのだ。
「ブヒィィィ! ブヒィ! ブ……ブ……」
ミズガルズの初日に見た猪の魔獣より、間違いなくこの豚の方が速いし力も強い。
下層の魔獣だから当然なんだけど、でももっと多彩な動きをしてくるのかと思っていた。
豚は驚異的な突進力に頼った単調な動きなのだ。
ニニの銃弾で体中に穴が開いた豚は、やがて動きを鈍めてゆっくりと大地に倒れていった。
強い。
あっけなく倒してしまった。
「魔獣に近寄らないで」
ニニは死んだ豚に近づくなと言ってきた。
魔獣が死ぬところを初めて見たけど、確か肉体が消滅するんだっけ?
予想通り、豚の肉体から真っ黒な何かが漏れ始めた。
確かリタさんは黒い光りになって大地に吸収されるとか言っていたような気がする。
残念ながらその言葉から連想していた神秘的な光景はなかった。
どろどろとした、まるで真っ黒な血のようなものが豚の肉体から漏れていて、大地の中に消えていく。
全ての黒い血が大地に吸収されれば、微かな跡も残らない綺麗な大地がそこにあった。
残ったのは豚の魔獣の心臓である魔石だけだ。
しかしここで俺も気付いた。
魔石の大きさだ。
拳ほどの大きさはない。米粒よりかは大きいけど、まだ下級魔石とは言えない。
つまり今の魔獣は下層の魔獣ではない?
「ここら辺は最下層と下層の境目ですからね。最下層の魔石を食べても意味がなくなった魔獣が下層の下級魔石を求めてやってきているんですよ」
「心臓が下級魔石となった魔獣は最下級魔石を食べても意味がないんですよね」
「正確に下級とか最下級とかで区切られるわけじゃないです。魔石がある瞬間にいきなり下級魔石に成長するわけではありませんから」
豚からすると、安全な最下層ではもう強さが手に入り難く、かといって下層に進めば自分より強い魔獣だらけって訳か。
いや、ちょっと違うか。
結局どの魔獣であろうと、今の豚と同じ境遇か。
ニニが残された豚の魔石を拾おうとしないので、俺はその魔石に近づこうとした。
「まだ終わっていませんよ」
「え?」
ニニは戦闘態勢のまま、辺りを警戒している。
今の豚が下級魔獣じゃないなら、この下級魔石を見張っている魔獣がいるってことか!?
「……上!」
ニニの声で俺は上を見上げた。
聖樹の木の枝、そこに魔獣はいた。
真っ黒な毛に覆われた体に、顔も真っ黒だ。おまけに瞳も真っ黒。
まるで巨大な影だ。
その肉体は逞しく、腕の太さなんて俺の4倍はありそうだ。
「キィィィィ!」
俺達に気付かれたことで、魔獣は警戒音を鳴らす。
そしてその逞しい腕と脚を使い、聖樹の木の枝から枝へと移動していく。
「大猿の魔獣です。厄介ですね」
「つ、強いの?」
「力強くて速いです。御馳走を取られて機嫌は悪そうですね」
大猿は聖樹の木の枝を跳び回る。
その姿を見失いそうになるほどの、ものすごい速さだ。
大猿は隙を見せずに降りてこない。
しかしあの逞しい脚で聖樹の木の枝を蹴れば、一瞬で間合いを詰めることができそうだ。
「キィィィィ!」
俺達に縄張りを侵され、しかも御馳走の豚を横取りされたと思っているのか。
確かに大猿の顔は怒りに満ちている。
普段どんな顔しているか知らないけどさ。
「勝てるのか!?」
「さぁ、どうでしょう。下層に入ったばかりの魔獣としては異常に速いですね。ちょっと僕では追えそうにありません」
「おいおい! 逃げるか?」
「その豚の魔石を置いて逃げれば、追ってこないでしょうね……さて」
申し訳ないが俺はこの大猿どころか、さっきの豚ですら勝てない。
無理ならさっさと逃げた方がいいと思うんですけど!
大猿は聖樹の木の枝を跳び回り続ける。
魔獣相手に持久戦は分が悪いということは聞いている。
魔獣は何日でも食わず眠らずで活動出来るからだ。
浅瀬とかの魔獣だと魔石を欲する本能から突撃してくるから、長い持久戦になることはないってことだったけど、下層の魔獣ともなれば違うな。
「すみませんが」
「は、はい」
呼ばれてしまった。
まさか囮役か!?
「そこに落ちている豚の魔石……回収してもらってもいいですか?」
「……は、はい」
「僕が大猿を牽制していますから大丈夫です。でも万が一襲ってきたら」
「きたら?」
「何とか一発耐えて下さい」
なんちゅ~注文だよ!
しかし困った。
死んでも生き返るのは間違いないんだけど、魔法袋がちゃんとついてきてくれるか不明だ。
そんな状態で死ぬわけにはいかない。
今夜シーラに会って聞かないと……ってシーラ分かるかな? 魔法袋のこと知らないし。
とりあえず魔法袋のことを素直に話して聞くしかない。
「それじゃ~行きますね」
「お願いします」
俺はそろりそろりと、一歩ずつ豚の魔石に近づいていった。
ゆっくり動いているのに闘気は全開である。
何のための闘気なのかといえば、もちろん防御力を上げるためだ。
万が一襲ってきた時のために……。
「ギイイイィィィィィ!」
「うおおお!」
大猿が降りてきた。
でも襲ってきたわけじゃない。
聖樹の根元にある下級魔石と、豚の魔石のちょうど中間地点に降りてきたのだ。
俺から見て、左前方にいる。
近い、近いよ。
槌と盾を構えながら、俺はさらに一歩踏み出した。
「ギィィイ! キィィィイイ!」
すんげ~警戒音。
近づくんじゃねぇよ! ってきっと言ってるのだろう。
あ~もう、マジでこんなことなら昨日のうちにシーラに会いに行って、闘気を最下級闘気に上げておくべきだった。
そうしておけば、少しでも闘気が強力になっていたのに。
それでもこの下級魔獣の大猿には足りないだろうけど。
さらに一歩踏み出す。
すると大猿の体が沈みこんだように見えた。
溜めだ。
本当にきちゃうぞこれ。
ニニは後ろにいるのだろうけど、もう振り返ることも出来ない。
大猿から視線を一瞬でも外せば、一気に襲いかかってきそうだから。
何とか一発耐える。
そうすれば、きっとニニがこの大猿を倒してくれる。
倒せなかったら、俺はヴァルハラ行きだ。
そして最悪の場合、魔法袋を失うことになる。
意を決してもう一歩踏み出した。
その瞬間、沈み込んでいた大猿の体が……消えた。
俺の目には消えたようにしか見えなかった。
「ぐほっぉぉぉ!!」
ふっ飛んだ。
ものすごい重い衝撃と共に、自分がどこかへふっ飛んだことだけは分かった。
一発耐えるどころか、一発を見ることすら出来ないとは。
どこかに転がり落ちる俺の耳に、同時に何かの轟音が響いた。
ニニの銃声……にしては音が大き過ぎる。
バズーカ―でも撃ったような音だ。
「ぐ、ぐ……ぐほっ! ごほっ!ごほっ!」
血の味が口の中いっぱいに広がる。
嫌な味だ。
ミズガルズにきて初めての経験だけど、あまり増やしたくない経験だな。
どうやらみぞおちに一発もらったのか、お腹がすげ~痛い。
つまり俺は正面から一発もらったわけだ。
なのに動きを見ることすら出来なかった。
次元が違う。
これでもまだ、下層の入口付近の魔獣だ。
下級魔獣の中では弱い部類なんだろう。
これが中層、上層と進めば、いったいどんだけの強さを持った魔獣になるんだよ。
それを突破して、さらに最上層の魔獣にも勝って、そんで異界から神玉を持ち帰る?
いやいやいやいや、無理ゲーだろ。
俺には絶対に無理だよ。
「くっ……」
痛みで思考がネガティブになっているか?
とりあえず身体を起こしてみる。
「な……なんだ」
俺の視界に入ってきたのは……氷漬けにされた大猿だった。
え? 氷河期でも到来したの?
「大丈夫ですか?」
ニニが一応心配そうな声をかけてくれる。
でも俺を囮役にしたのはお前だろうが! と言いたくなるね。
「な、なんとか……生きてますよ」
「貴方のことではなく、心配しているのは魔石のことです。貴方は死んでも生き返るでしょ。あ、でも貴方に死なれたら、せっかく手に入れた魔石を持ち帰るのが難しくなるか……」
ちっ。そっちかい。
さすがにちょっと怒りがこみ上げてきてニニを睨むと、その手には1つの長い銃が握られていた。
あれ?
二丁拳銃が長銃に……ん? あれは……繋がってる?
2つの拳銃を繋げて1つの長い銃にしているのか?
「さてと」
ニニはその長銃を凍った大猿に向ける。
するとさきほどの轟音を再び響かせて、長銃から弾丸が放たれた。
それは鉛の弾丸じゃない。
鋭利な岩の弾丸だった。
岩の弾丸が直撃すると、凍った大猿は粉々に砕けていった。
氷もあっという間に溶けていけば、豚と同じく大猿の砕けた肉体も黒い血を垂れ流し始めると、大地に吸収されるように消えていった。
そして拳大ほどの大きさの魔石が残された。
下級魔石だ。
ニニは急いで下級魔石を拾うと、まだ身体が痛む俺に渡してきた。
「お願いします」
「あいよ」
声がちょっとぶっきらぼうになったかな。
俺の声にニニが一瞬手を止めた。
しかしすぐに大猿の魔石を俺に渡すと、聖樹の根元に駆け寄っていく。
そして聖樹の根元から生えている下級魔石を、短剣で切り出し始めた。
俺は痛む身体を抑えながら、ゆっくりと聖樹の根元に向かっていった。
自分の強さを考えながら。
ニニに関してはちょっとむかついている。
俺を囮にしたあげく、口から出てくる言葉からも信頼を置ける相手とは思えない。
でも強い。
あの大猿を一発で仕留めた。
対して俺は無力だ。
そりゃ~まだエインヘルアルになって40日ぐらいの新米だけどさ。
でも自分が立ち向かう敵の強さを見せつけられると焦ってしまう。
もっと、もっと強くならないといけないって。
戦術を刻めば動きが分かり、闘気を纏えば超人的な身体能力となり、強力な装備を得れば単純に強くなるだろう。
でも、それだけじゃだめだ。
やっぱり実戦を積まないとだめだ。
俺はまだ浅瀬の魔獣とも本格的に戦ったことがない。
ずっと魔法袋に頼って、魔石を集めてきたから。
サンディさん達の装備がもうすぐ揃う。
もともとここから本格的な鍛錬をするつもりでいたんだ。
今日のことは、その決意を高めるために良かったと思いたい。
魔法袋に頼れるからと、生半可な鍛錬で終わるのではなく、死に物狂いで俺は鍛錬しないといけない。
強くなりたい。
その願いへの一番の近道は……やはり戦術だ。
戦術は動きの基礎を俺に教えてくれる。
下級、中級、上級と上位の戦術を刻めば、さらに高度な動きが分かってくるのだろう。
その動きを基本に、実戦を積むんだ。
そのためにニニを利用する。
ちょっとむかつく奴だけど、強さは本物だ。
今日手に入る下級魔石の分配がどうなるのか、それは無事に帰ってマリアさんと話さないと分からない。
でもそれなりの数が手に入れば、2個ぐらいもらえるだろう。
そうしたら槌と盾の下級戦術を刻んでもらえる。
待てよ。
俺には魔法袋があるんだ。
下級闘気を覚えて、闘気を使って一気に中層や上層まで駆け抜ける。
そんで聖樹の根元に生えている中級魔石や上級魔石を一気に魔法袋の中に入れる。
それで魔獣に襲われても魔石は俺のもの……って、死んでも魔法袋がちゃんとヴァルハラに一緒に戻るのかまだ分からなかったんだ。
これシーラに分からないって言われたらどうしよう。
1人で検証なんて怖くて出来ない。
サンディさん達に魔法袋のことを話しちゃって検証するしかないな。
俺があれこれ考えている間も、ニニは下級魔石を取り出そうと短剣で聖樹の根を切り裂いていた。
たぶん俺より年下の男の子なんだろうけど、もうちょっと愛想良く出来ないもんかね。
言動も年上をもう少し敬った方が……。
「ぁ」
俺の声は、聖樹の森に拭く風の音にかき消されてしまうほど小さな声だった。
もちろんニニに届くことはない。
しかし俺は届け! と心の中で叫びながら駆け出していた。
ニニの頭上から黒い影が落ちてきていたのだ。
さっき倒したはずなのに? って違う個体か。
自然落下に任せて落ちてきたことで、ニニは気付けなかったのかもしれない。
大猿の魔獣だ。
もう1匹潜んでいたんだ。
幸い、自然落下状態の大猿は動きが制御されていた。
俺はありたっけの闘気を流しながら、ニニを捕まえようと両手を伸ばす大猿に槌をぶち当てた。
「らああああああ!」
「キィィィィィ!」
「きゃああ!」
三者三様の声が森に響く。
結果……俺はまたもふっ飛ばされてしまった。
槌は大猿の腕に確かにぶち当てた。
しかし次の瞬間、何かの力に反発され、空を舞う様にふっ飛ばされたのは俺だった。
まったくもって情けないけど、おかげで大猿はニニを捕まえるのに失敗した。
間一髪でニニは大猿の手を逃れたのだ。
魔石を切り出していた短剣を投げ捨てると、すぐに二丁拳銃で岩の弾丸を大猿に向かってぶっ放し始めた。
大猿はふっ飛ばした俺のことなど気にせず、ひたすらニニを追いかける。
ニニは高速で逃げ回りながら、銃を撃ち続ける。
奇襲で捕まらなかったのだから、これでニニが勝つだろうと思っていたら……弾丸をどんなに受けても大猿の動きは止まらない。
というより、弾丸でダメージ与えているのか?
大猿の肉体に撃ち込まれているはずの弾丸の傷が見えてこない。
跳ね返している?
「連続で大猿なんて! 下層のこんなところに2匹もいるなんて!」
誰に対して愚痴っているのか分からないが、ニニが焦っているのは分かる。
どうやら大猿相手には、あの銃は2つに分かれたままではダメのようだ。
なら1つに繋げてさっきみたいに強力な弾丸を撃てばいいと思うけど、時間が必要なのだろう。
それが銃を繋げるためなのか、それとも強力な弾丸を撃つためなのか分からないが、この場面でその時間を稼ぐには俺が頑張るしかない。
しかし俺では大猿にダメージを与えるどころか、この槌を打ち込んでも逆にふっ飛ばされてしまう。
時間稼ぎにすらならない、ダメなエインヘルアルだ。
おそらく俺の闘気が最下級ですらないただの闘気で、槌も最下級だからか。
下級魔獣の大猿の魔力に勝てないって感じだ。
それなら!
俺は魔法袋の中に槌を入れた。
そして『合成』と念じる。
さっきの大猿で手に入れた下級魔石。
これで槌を下級に進化させれば、大猿に少しは対抗できるのではないか。
勝手に下級魔石を吸収することになるけど、それは仕方ない。
死んでも魔法袋がヴァルハラに一緒についてくるのか不明な以上、今は生き残ることが重要だ!
合成した槌を取り出した。
見た目は特に変化がない。
しかし埋め込まれている魔石は下級魔石に進化しているはずである。
試しに闘気を全開で槌に流してみる。
……む~、だめか?
確かにさっきよりも力強く感じるけど、下級魔石で進化したから当たり前だ。
あの大猿の魔力を突破できるような力強さには思えない。
そもそも俺の闘気が弱いのか。
闘気が最下級闘気や下級闘気にならないと、この槌に多くの闘気を流すことが出来ないんだな。
「ちっ!」
「ギィィィイイイ!」
危ない!
ニニが一瞬大猿に捕まったように見えた。
さっきまでは逃げるだけなら余裕だったのに、だんだん魔獣に距離を詰められている。
疲れだ。
ニニの体力がなくなってきているんだ。
やばいぞ。
この槌でとりあえず割って入ってみるしかない!
「うおおおおおおお!」
高速で動き回る大猿に向かって、新たな槌を打ち込もうとしてみた。
「ぐほぉぉぉっ!」
無残にも俺はまたふっ飛ばされてしまった。
まるで蚊を追い払うかのように、大猿は向かっていった俺を腕で薙ぎ払った。
本当に時間稼ぎにもならない雑魚だな、俺は。
ニニと大猿の距離もまったく変わらない。
ニニが必要とする時間なんて稼げるはずがない。
でも何か、何か出来ることはないか……。
『魔法袋か、良い物を選んだな。きっとお前の役に立つことだろう。魔法袋が持つ能力は2つだ。まずは無限の収納能力。大きさに関係なくどんなものでも無限に収納することができる』
どんな物でも収納できる。
『もう1つの能力は収納したものを合成する能力だ。ものとものを合成することも出来るが、ものに魔力を合成させて上位のものを造り出すことも出来るぞ』
物と物、物と魔力を合成できる。
物……どんな物でもって神石もか?
神石に魔力を合成して上位の神石にしたら……強くなれたりするんじゃないか?
『魔法袋の中に入れる時は、収納したいものを魔法袋の中に入れるか、魔法袋の口に当てて『収納』と念じればよい。後は勝手に魔法袋が収納してくれる』
俺の神石を収納するのに必要な魔力はどれくらいだ?
いや、どうやって収納させるんだ。
俺の身体の中にあるんだぞ。
待てよ……俺自身を収納させたら?
いや俺は物じゃないか……仮に俺を収納できても誰が俺と魔力を合成してくれるんだ。
協力者がいれば是非とも検証してみたいところだが……。
神石。
身体を切り開いて収納したらその瞬間死ぬのか?
これも検証が必要だ。
検証なんて絶対にしたくないけど。
それに今やってみて、死んでしまったら……。
「ギィィィィィイイイイイ!」
大猿の屈強な拳がついにニニを捉えた。
スーパーボールのように、ニニは遥か遠くまでふっ飛ばされてしまった。
ニニは魔石を持っていない。
しかし下級魔石の聖樹の根元から離れても、大猿がニニを襲うのをやめる素振りはない。
殺さなければいけない危険な相手だと認識されてしまっているのか。
あの強力な一発をもらってもニニは気絶するどころか受け身を取って、すぐにまた大猿に向かって銃を撃ち始めた。
おいおい、すげ~根性だな。
俺だったら間違いなく失神KOだよ。
でもその動きは明らかに落ちている。
スピードも遅く、今にもまた大猿の拳をもらってしまいそうだ。
ニニが殺されたら、その次は俺か?
俺にはまったく興味を示していなかった。
魔石だって魔法袋の中に入っているんだから、大猿が魔石に反応することはない。
このままニニが殺されたら……俺だけ助かるかもしれない。
そういえばむかつく奴だった。
あれ? いいんじゃねぇか? 俺だけ助かれば。
そうだよ、このまま俺だけ逃げればいいんだ。
ニニが大猿とやり合ってる間に、俺だけ逃げればさらに助かる可能性が高まる。
いま魔法袋を失うリスクを負うことは出来ない。
これは俺の生命線だ。
サンディさん達のためにも、失うことなんて出来ない。
聖樹の森で魔獣に襲われて探索者が死ぬ。
当たり前のことだ。
それが下層ならなお一層。
それにニニは半分エインヘルアル。
謎の言葉だけど、もしかしたら死んでも生き返るのかもしれない。
だからこんな無茶をしている。
そうじゃなかったら、自分の命が惜しかったら、もっと慎重になっているはずだ。
「ギィィィイイイイ! キィィィ! キィィィ!」
再び大猿の拳がニニを捉えると、派手に空を舞ってふっ飛んでいった。
次はすぐに立ち上がることが出来ないようだ。
大猿はその様子に歓喜の雄叫びを上げている。
よろよろとよろめきながら立ち上がるニニ。
足取りもおぼつかない。
大猿はもうニニが戦う力がないと分かっているんだ。
その顔は醜く歪み、弱った獲物をいたぶれる喜びに満ちていた。
大猿はわざと力を弱めた拳をニニに打ち下ろす。
ニニは腕でガードするも、大地にめり込むように倒れた。
そしてまたふらふらと立ち上がる。
大猿は逆の拳をまた打ち下ろす。
今度は腕でガードする力もないのか、ニニは棒立ちだ。
大猿の拳はニニの肩に直撃すると、また大地に転がるように倒れていった。
「くそっ、くそっ、くそっ! むかつく奴なのに! 見捨てて逃げればいいのに!」
目から涙が流れていた。
なぜだ?
目の前の人が死ぬかもしれないから?
初日に人を3人も殺したじゃないか。
あれは悲しくないのか?
でもあれは本当の殺しじゃない。
あのクズ共は生き返るのだから。
二ニも生き返るかもしれない。
でも本当に死んでしまうのかもしれない。
この世界で俺は本当の『死』をまだ知らない。
自分の死がないのだから、死というものを近くに感じることがなかった。
いま目の前で本当の死が起きようとしている。
出会ったばかりとはいえ、今日1日共に行動した仲間が。
いいのか? 本当にこのまま見殺しにして逃げていいのか?
でも何が出来る?
大猿に向かって死んだら、魔法袋を失うかもしれないんだぞ。
それに今さら時間稼ぎしたって、ニニはもう戦う力がないんだ。
この大猿には勝てない。
ああ~もうぉぉぉ! どうしろって言うんだ!
俺の心はどうしたいんだよ!
自分の心だろうが! 自分で決めろよ!!
目の前にはニニが魔石を切り出すのに使っていた短剣が落ちている。
大猿の初撃を避けた時に投げ捨てた物だ。
聖樹の根を切り裂けるほどの短剣、おそらく戦闘魔道具。
その短剣をそっと握ってみる。
光る刃がやたらと鋭く思えた。
なんでも切れそうに思えた。
すっと、ニニが聖樹の根を切っていたように。
痛みもなく、すっと切ってしまえると。
「あ、あがぁぁぁ……ぐぅぅぅ、がぁぁぁぁ」
気付いた時、俺は自分の胸を切り裂いていた。
短剣の刃は心臓である神石まで到達している。
僅かに出来た胸の穴に、強引に魔法袋を押し込んだ。
そして俺は念じた。
神石を収納しろと。