op.8 きみに捧ぐエゴイズム
――棘
たとえば、貴女が染まらずにいること。
それだけですべてが赦される気がしていた
その甘い芳香は惑いを誘い
狂おしく焦がれる切望を知って
息さえ止めた
麗しい貴女を護る棘となること
それだけを望んだ。なにを差しだしてでも
熱をはらんだ息を吐いて、フェンスに身体を押しつけた。
「ちがう……」
まだ、ちがう。
こんなもんじゃない。こんなもんだと思いたくない。
彼女が『音』をあきらめられない理由は、俺だっていうのか。彼女が『音』にこだわる理由は、俺だって?
しらない。そんなことはしらない。
歌うだけだ。俺にはそれしかできないから。俺には歌しかないから。俺だって『音』をあきらめられない音狂いだ。
だから、もっと。
響かせたい。もっと深く。もっと強く。うねるような波を、描きたい。
――もう一度。
おもいっきり息を吸いこんだとたん、ガチャリと音を立てて、屋上のドアが開いた。
「びっ、くりした……秋葉って、そんな表情もできたんだ」
飛びだしかけた音を、喉の奥にしまいこんで、声の主をみつめる。
「和佐?」
目を丸くしてたずねれば、ヒラヒラと片手をふって答える、お人よしのクラス委員。
「ひさしぶり、秋葉」
涼しい顔をした和佐裕人が、後ろ手にドアを閉めた。
こつ、こつ、こつ。革靴が、屋上の床をたたく。几帳面で均一な音。
和佐らしいな、と思いながら、近づいてくる彼をみつめる。
「いつも、たいくつそうな顔しかみたことなかったから。秋葉にとっては、なにもかもがツマンナイしどーでもいいんだと思ってたよ」
「なんでいるの?」
「だから、ひさしぶりって言ったじゃん。今日帰ってきたんだよ」
「だから、なんで、ここにいるの?」
「はは。この会話のかみあわないかんじ、秋葉だわ。安心する」
「……結構、失礼だよね。和佐って」
「どっちが」
吹きだすように笑った和佐は、俺のとなりにならんで、フェンスに背中をあずけた。
きしむ金属の網。俺との距離は、おとな二人分。
「あんな顔して歌うんだ」
ぽつりとつぶやいた和佐は、真剣な顔。
聞かれてたんだろうか。見られてたんだろうか。
いつから?
「そんなに考えこまなくてもいいよ、覗き見してたわけじゃないから。……歌おうとしてたんだろ? 秋葉」
「どうして、そう思うの」
「屋上から愛を叫ぶキャラにはみえないから」
……和佐って、頭がいいと思ってたんだけど、気のせいだったのかな。
なんともいえない気分で黙りこんでいたら、ちょっとあわてたかんじで和佐が身体を前傾させた。
「そこで考えこまないでよ、冗談だって」
「冗談なら冗談だってわかる顔でいって」
「え、俺、そんな真面目な顔してた?」
「いつもどおり」
「えぇ……」
釈然としない顔で、和佐が首をひねった。
「秋葉、――律に会ったの?」
なにげない問いかけに、息がつまった。
吐きだしかけた言葉が固まって、口も固まって、動けなくなる。
「はは。びっくりした顔してる。なんだかんだ、わかりやすいよね、秋葉って。……会ったんだ」
「なんで」
「そんなこと聞くのかって? そうだなぁ……うん。忠告、と、助言?」
「はあ?」
和佐の目が、ゆっくりと細まった。
「律はね、俺の姉さんだよ」
……はあ?
「あ、驚いてる驚いてる。おもしろいなぁ、お前。……姉っていったって、血のつながりはないんだけど。近所の姉さん、ってやつ」
和佐は、すこし口の端をゆるめて、懐かしむように語った。
「律の演奏、聴いた? 音の海のなかを、自在に泳ぐ熱帯魚みたいでしょ。あのひとのピアノが、俺は、すごく好きだった」
――過去形。
どうでもいいところに気づいてしまって、すこし後悔。
「不幸な事故だったんだよ。ほんとうに、不幸な、事故で。だれも幸せになんか、なれない事故で。事故なんてのは、みんなそんなもんだろうけどさ。だけど、恨み言を吐く相手もいないまま、……律は、深海魚になった」
和佐の顔がゆがむ。
「音にあふれた世界から、とつぜん、静寂の海の底へ、投げだされた」
静かな声色が、静かな怒りと、静かな悲しみと、……ごちゃごちゃと混ざりあった感情をのせて、響く。
「秋葉。……律は、後天性の難聴なんだ。音楽が好きで好きでたまらないのに、いまでもあきらめきれないのに、――だからこそ、音楽は律を苦しめるんだよ」
なにもいえないまま、俺はだまって聞いていた。
寂しげに、苦しげに語る和佐の声を、聞いていた。
苦しめる。
気づいてなかった、わけじゃない。はじめから、リツは、泣きそうな顔をしていた。苦しめている。知っていた。知っていたけど、くりかえした。
吠えつづけた。いつか彼女に、届くように。
「ねぇ、秋葉」
和佐の目が、俺をとらえる。
「秋葉の音は、律に届いた?」
わからないよ。だって、リツは逃げた。
必死でぶつかる俺から、いつも彼女は逃げる。
「あのひとはとても臆病だから、深い深い海の底から出てきてはくれないよ。そのくせ、胸がつまるような音だけは垂れ流してるんだ。人の気も知らずに」
ああ、そうだね。……そうだ。
「ずるい、よね」
和佐の声が、ゆれる。
ずるい。ほんとうに、ずるい。
――あのピアノは反則だ。
リツは知らないんだ。どんな顔でピアノを弾くのか。どんな音で大気をゆらすのか。自分のことなのに、知らないんだ。
だから、俺は。
「……伝えたかったんだ」
本当は、ずっと。
「ありのままのリツの音を、伝えたかったんだ」
俺自身の音なんて、どうでもよくて。弾き返したかったんだ。そのままじゃ届かないなら、どうしたらいいだろうって、姑息な策を弄して、あがいて。
だけど、届かないんだ。
どうしたら届くんだろう。
どうしたら、彼女は知るんだろう。
鼓膜がゆれないのなら、心をゆらせばいい。
爪先から、指先から、肌から、口から、全身で。
感じればいい。
たたきつけてやりたかった。全身をかけめぐって、根幹をゆらすような、音を。歌を。声を。張り上げて。
なのに、リツは、逃げるんだ。
俺の音じゃだめなんだ。きっと、彼女に響かせるには、彼女の音じゃなきゃ。
彼女自身から生まれた音じゃなきゃ。
「和佐。……頼みが、あるんだ」
俺は、和佐みたいに要領もよくないし、頭もよくない。椎堂みたいな社交性もないし、周ちゃんみたいに優しくなれない。
わがままな、餓鬼だ。
だから、俺は、餓鬼のやり方しかできない。
「――ステージを、俺にちょうだい」
リツが逃げるなら、どこまでも追いかけて、つかまえる。
「……いいの?」
「問題ないよ。歌うのは、iVoiseじゃなくて、ただの秋葉音波だから」
「大問題だよ」
あきれた顔で、和佐が笑う。
「でも、いいよ。後のことまでは責任もてないけど、準備だけなら」
「ほんとに?」
「断られるなんて思ってもないくせに」
苦笑する和佐は、ぜんぶお見通しらしい。俺だって、わかった上で言ってるんだから、おあいこってやつだろう。
「正直、俺も聴いてみたくてたまらないんだ。秋葉の本気がどこまでいくのか」
「俺は歌うだけだよ。そのまんま、吐きだすだけ」
「抑圧されたものが解き放たれる瞬間って、興奮しない?」
「べつに」
「秋葉になくても、俺にはあるんだよ。これでも、だれかさんから熱烈な布教を受けたファンだからね」
くすり、と笑う和佐。
そのだれかさんが、今回のターゲットか。
「バックは、……いらないか。あのiVoiseだもんね。下手な生徒つけたって」
「ピアノ」
「え?」
「ピアノだけ、用意してくれればいい」
そっか、と和佐は、うなずいて、俺に右手を差しだした。
「律を、深海から引きあげてくれる?」
さあ。しらない。
出てくるか出てこないかなんて、彼女の自由だ。
――ただ。
「届けるよ、すくなくとも」
握りしめる手の固さに、ありったけの決意をこめた。
どんなに重い水でも、きっとゆらしてみせる。
開きなおったエゴイズムの威力、思い知ればいい。