op.6 伝搬する微熱
第二音楽室のドアを開ける。
なかには先客がいて、また寂しげな曲を奏でている。
俺はだまって部屋に入って、鍵盤をすべる指先をながめる。
――あたらしくできた、日課。
*
『たのしい?』
ピアノから指を離したリツが、かわりに走り書きしたノートをかかげる。
すこし傾いだ、エッジのきいた書体。もうすっかりおなじみになった文字を見て、俺は首をふる。
たのしいわけじゃない。
……けど、なんでここにくるのか、俺にもわからない。
俺の居場所だから。
俺が正統な主だから。
てきとうな口実をならべてみても、リツを追いださない理由はみつからない。
「おちつくんだ、……たぶん」
ぐちゃぐちゃに絡まった考えが、リツのピアノを聴いていると、なぜだか鎮まる。
そもそも、絡んじゃうようになった原因もリツなんだけど。
とうの本人はそんなことはしらずに、ただ、不思議そうに首をかしげた。
聞きたいことは、たくさんある。
聞けないことも、たくさんある。
言葉っていうのはやっかいで、もやもやしてるあいだは無害なのに、形をとると、とたんに鋭くなったりする。
俺は、その辺の調節を器用にできるタチでもないから、けっきょくなにも口にできないまま。
――このまんま伝わればいいのに。
言葉なんて不確かなものを通さずに、まっすぐ、染まらず、曲がらず、素直な音のまま。
どうしたら、伝えられるんだろう。
「なんでもない」
ひらひらと手をふって、そのままふと、床に投げ出しままの鞄にふれた。
このなかのファイルには、あの譜面がある。
どんな熱を乗せようか。どんな言葉を乗せようか。まだ決まらないまま、眠った旋律がある。
シーラカンス。
音のない海の底を泳ぐ、深海魚。
なにを思ってこの曲を書いたの。なにを思ってこの曲を渡したの。
どうして、iVoiseに託したの。
歌唱人形とまで揶揄された俺に。
正確無比に奏でてほしいという作曲家はいる。このとおりに歌ってくれと。それでこそ芸術だと、讃えるひとたちは。
でも、きっと、この曲はちがう。
譜面どおりの『ただしさ』なんて求められちゃいない。『ただしさ』なんてどこにもない。
そんなの、iVoiseには不向きだ。
南部さんの言うとおり、イメージじゃない。
それでも、iVoiseを選んだのは、なぜ――?
*
一呼吸おいて、リツの指が、また、鍵盤をなでる。
触れるか触れないかの瀬戸際で、軽やかに奏でられるトリル。見た目は羽のように。その実、したたかな力で鍵を打つ。
ほんのわずかでも力を入れすぎれば壊れてしまう、繊細な音色。
なにも言わずに第二音楽室にいすわる俺を、なにも言わずにリツは迎えいれる。
ぬかるんだ受容。
一週間かけて、ようやく、ここまできた。
すこしでも強引に踏みこもうとすると、リツは逃げてしまう。臆病な魚のように。
だから、俺にできるのは、橋の上からエサをまいて、ぼーっと彼女が近寄ってくるときを待つだけ。
わかっては、いるのに。
それでも叫びたくてたまらない俺は、どうしようもない馬鹿だ。
「――リツ」
大きめの声で呼びかければ、すぐにピアノの演奏が止んだ。
音ならすこし、と語ったとおりに、彼女は『音』を認識する。けれど、彼女は『言葉』を認識しない。
たぶん彼女の聴く『音』は、彼女が望む『音』ではないんだろう。
「どうして、それでも『音』を奏でるの」
伝わらないことなんて知ったうえで、かまわず言葉をつづける。
「どうして、それでも『音』をあきらめないの」
リツはとまどったように眉を下げて、俺のくちびるを注視している。
でも、この一週間でわかってる。彼女は読話に慣れてない。すくなくとも、こんな文脈のない言葉を読みとれるほどには。
勝手なことをしているな、と思う。
自己満足のためだけに、勝手に問いをぶつけているだけだ。
彼女への『伝え方』を、俺はまだ、みつけられていない。
和佐ならわかるんだろうか。
あの、もの知りでお人好しなクラス委員なら。
こんな、困ったような顔をさせずに、うまく伝えられるのかな。
……また、もやもやと積もりだした鈍色の感情が、気持ちわるくて。
たまって、たまって、喉もとまでせり上がってくる、微熱のかたまりを。
気づけば、音ごと吐きだしていた。
*
――non titled
届かなければいい、 この声が
すべて変えてしまうと謂うのなら
ずっと ずっと この場所で
形にならない願いを唄う
どれだけの祈りを重ねても 届かない天
壁に背をあずけ、まぶたを閉じたまま、つむいだ音は揺れていて。
ビブラートなんてかけるつもりなかったのに、音程がはまらない。不安定にゆれながら、響く、声。
おかしい。
なにこれ、こんな音は。
予想外の違和感にあせって、ますます歌声がゆらぐ。俺の声ってこんなんだっけ。俺の音って、こんな――。
そのとき。
――ガタリ、と。
なにかがぶつかるような音に、おどろいて目を開けた。
「え……?」
ピアノ椅子から立ちあがったリツが、口もとを両手で包みかくして、ふるえていた。
どうして。
ほんのすこし丸みをおびた瞳から、ツゥ――と流れおちる光の川に、俺は息をのむ。
どうして、きみが、泣くの。
「なんで、――」
ハッと我にかえったリツが、両手を下ろし、すこしおびえたように足を引く。そのときはじめて、彼女の座っていた椅子が、不自然に下がっていることに気づいた。
涙ぐんだまま、寄る辺なくさまよっていたリツの視線が、ふと俺の顔で止まる。
ぐっとくちびるを噛みしめて、そのままリツは第二音楽室を飛びだしていってしまった。
「リツ!」
廊下に消えていく制服の背中を、追いかけることもできずに。
バタン、と重い音をたてて閉まった防音扉を、ぼうぜんと見つめた。
*
「なん、だよ……、もう」
壁づたいに、ずるずると。
力がぬけて、床に座りこむ。
そのまんま膝を抱えこんで、いつまでも余韻の消えることがない、不安定な『音』を思いだす。
あんなの、しらない。
あんなの、俺の音じゃない。
無我夢中で吠えていたころの『音』ともちがう。
染まりかけた紅葉のような。うっすらと色づいた境界線を、ここと明確に引けないような。ぼんやりと、でも、たしかに、……熱が灯った。
まさか、伝わった?
奥底からくすぶるような、微熱が。
リツにまで、なにか、伝わったの?
急に、馬鹿みたいに気恥ずかしくなって、腕に顔をうずめる。
「……さいあく」
かき乱されてる。
やっぱり、絡まって、ぐちゃぐちゃだ。
自由に吠えていたころにもどれればそれでいいと思ってた。鎮まりきった水面をゆさぶってやりたかった。ただただ単純に、くやしかった。
だから、おもいっきり叩きつけてやろうと思ってたのに。
そしたら、俺は俺にもどれるような気がしていたのに。
――あんな音、しらない。
あきらめきれずにもがくような、あんな、ゆれにゆれた不安定な、まるで懇願みたいな、あんなの。
全身で『せつない』って叫んでる、リツのピアノみたいじゃんか。かっこわるい。あきらめきれずにくすぶってるのが丸わかりな、種火。
なにが、かっこわるいって、……それがリツにまで届いたことだ。
ひとりで勝手に鳴いてるぶんにはかまわないけど、情けなくすがりつくなんて、冗談じゃない。
だけど。
どんな形でも、彼女をゆさぶったことがうれしい、なんて。
……ほんとうに、冗談じゃない。
ほのかに熱がのこった息を、いらだちまぎれに宙に吐いて。
明日、リツは、ここにくるだろうか――と。
気にせずにはいられない自分を、笑った。