op.2 第二音楽室の少女
「ロングストレートの女子?」
俺の言葉を反復した和佐に、うなずきを返す。
「そんだけじゃわかんないよ。学校全体で、どんだけ黒髪ストレートがいると思ってんの」
「たぶん同学年。タイが赤かった」
「って言ってもね、秋葉。一学年だけで八クラスあんのよ、この学校は」
「……そんなに?」
「半年以上通ってて、その発言はどうかと思うよ。さすがに」
あきれたように言って、和佐がため息をつく。
入試もなにもかも、父さんに押されるがまま受けてきたし。下調べなんてしてないし。
だって、興味がなかった。
ただ、見学のときに見かけたグランドピアノが、綺麗だったから。音楽室の防音設備が、しっかりしてたから。
ここでいい、と俺は了承したのだ。
「べつにいいよ、もう」
「ほんとに? 秋葉に頼られるなんて、めったにできない経験だから、できれば応えたいんだけど」
「そんなに興味ないから、いい」
あいかわらず覚めてるな、といって、和佐が苦笑した。
「――ヒロ!」
背後から飛んできた声に、和佐が振りむく。
ひろ。……ひろと?
そうか、そんな名前だった気がする。
和佐の肩ごしに、彼を呼んだクラスメイトの姿がみえた。顔に見覚えはない。でも教室内にいるから、きっとクラスメイト。
はじめこそ、登校するたびにパンダのようなあつかいを受けていたけど、最近はそれもない。
俺の方も話そうとしないし、むこうもしない。
和佐となにか話していた男子生徒が、ちらりと俺をみて、すぐに視線を外した。
「ごめん、秋葉。またこんど詳しく聞かせて」
もうしわけなさそうに眉を下げた和佐を、ひらひらと手をふって追いはらう。
お互い無関心なクラスメイトだけど、とくべつ悪感情をもたれているわけでもない。気がする。
だから、話の腰をおって和佐を呼んだのは、きっと用事があるんだろう。
もともと、たいした話をしているわけでもなかったから、和佐を解放しない理由はない。
ごめん、と律儀に両手をあわせて席を離れていった和佐を見送って、ぱたり、と天板に手を下ろした。
教室にとどまる理由もなくなった。
だけど、行き先もないから、そのまま突っ伏する。
……寝よう。
昼休みには、音楽室が使えないから。
*
目を覚ますと、とっくに午後の授業がはじまっていた。
伸びをしながら大あくびをした俺をみて、黒板の前に立った先生が、話を止める。
「ああ、秋葉か」
それだけつぶやいて、授業続行。
一事が万事、そんな調子。特別扱いというより、空気扱い。いいけど、楽だし。
放課を待ち焦がれて、また、まぶたを閉じた。
現国の説法が、遠ざかる。
*
俺の入学に際して、ほんのいくつか、普通の学生と異なる特権が許された。
べつに、たいしたものはない。
ほとんどは、出席日数だとか、細々した規定の緩和。
ほかの生徒は、俺の事情をしらない。
でも、たぶん、うすうす特別扱いだってことは気づいてると思う。
理由を聞かれたら、とりあえず親戚筋だから、と主張するように言われてる。聞かれたことはないけど。
――iVoiseの支持層は、中高生に固まっているらしい。
聞かせたくて歌ってるわけじゃないのに。
俺は、iVoiseだけど、iVoiseがきらい。
だから、iVoiseを好きだと言われることも、きらい。
*
つぎに目覚めたときには、月曜最後の授業が終わろうとしていた。
科目は、英語。
複雑そうなスペルを書き終えて、チョークが置かれる。
「起立」
和佐の号令だ。
「――礼」
ありがとうございました。記号のような終わりの挨拶にだけ、しれっと混ざって、そのまま席を離れる。
軽い鞄だけつかんで、向かう先は、ただひとつ。
駆け足で、廊下を進む。
第二校舎の三階の端。
昔々、合唱部があったころにだけ、使われていたという、第二音楽室。
――俺から希望した、たったひとつの特権。
古びた味のあるグランドピアノが座す、ちいさな部屋だ。でも、防音設備だけはしっかりしていて、ノスタルジックなスタジオのような一室。
使用許可をもぎとった、俺の居場所だ。
*
第二音楽室のドアを引いた途端、聞こえるはずのない音がした。
軽やかなトリル。
流れるような旋律。
「え……?」
白黒の鍵盤をあざやかに踊る、細い指先。
幽玄にグランドピアノを奏でているのは、長い黒髪を背中にながした、女子生徒。
たたみかけるような旋律は、祈るように、せつないほど澄んで響く。
深みのあるアルペジオ。
右端のペダルを踏みこんでいた足が、宙に浮く。
静止した両腕を、ゆっくり、そっと引きあげて、彼女は、ホッと息をはいた。
魔法が解けたようだ。開きっぱなしだったドアを、後ろ手に閉めながら、俺は、第二音楽室に入った。
……まさか、先客がいるなんて。
ここの鍵は開けっ放しだから、人がきてもおかしくはない。でも、いままでだれかがいたことなんて、ないのに。
中央のグランドピアノに、近づく。
「なんで、ここに?」
声量を高めて問いかけると、初めて気づいたかのように、彼女は、こちらを向いた。その眼が、丸く見開かれる。
だけど、もっと驚いたのは、俺の方だ。
「朝の……」
正面からぶつかってきた無口な女子生徒が、そこにいた。
*
しばらく、お互いポカンとみつめあっていた。
ややあって、彼女の方が、あわてた様子でイスから立ち上がる。
そのまま、俺にむかって、深く頭を下げた。
無言。
しぃーんと静まりかえった音楽室に、俺の声がぽつりと響く。
「……それって、謝罪のつもり?」
答えはない。
顔をあげた彼女は、こまったように、俺の口元を凝視している。
「なんか答えてほしいんだけど」
朝のことを気にしているわけじゃないけど、ひとことも言われないままというのも気分が悪い。
探してみようかと思っていた矢先に、予想外の場所で会ったものだから、混乱もしている。
「あのさ」
さらに言葉を継ごうとしたところで、彼女のジェスチャーに気づいた。
自分の耳を指してから、バツ印をつくる。
――聞こえない?
まさか。よく眼を凝らしてみたら、黒髪の影に隠れた耳には、目立たないなにかが嵌っていた。補聴器、ってやつだろうか。
聴覚障害者?
あぜんとしていると、彼女は、足元にあった鞄を拾い上げて、中身をさばくる。
取り出されたのは、ノートとペン。
ほとんどまっさらな大学ノートの上を、黒のボールペンが走る。
『朝、ごめんなさい。大丈夫?』
綺麗な筆跡だった。
すこし右肩上がりで、エッジのきいたバランスのいい書体。
「あ、うん。なんともない、けど……」
書いた方がいいのかな。
ノートをちらちら見下ろしていると、彼女が、ペンを走らせた。
『ゆっくりなら』
目線は、俺の口もとに固定されていた。
読話、ってやつだろうか。
でも、あれ、結構むずかしいって聞いたけど。
熟練してても、ぜんぶわかるわけじゃない、とかなんとか。すくなくとも俺には、絶対できない。
すこし考えて、俺もメモとペンを取りだす。
たぶん、こっちのが早い。
『なんともない、大丈夫。……読める?』
『ありがとう』
あ、笑った。
『聞こえないの?』
我ながら直截的な聞き方だけど、ひねり方もわからない。まあいっか。
彼女が苦笑して、うなずく。
『ぜんぜん?』
音がない世界。どんな感じなんだろう。
――想像もつかない。
『言葉は。音なら、すこし』
『ピアノは?』
彼女は、首をふる。
聞こえないのに、弾いていた?
よくわからない。
「なんで?」
思わず、そのまま聞いて、しまったと思う。
でも、ニュアンスは伝わったらしい。
彼女は、とても寂しそうに、くちびるをゆがめた。
……なに、その顔。
『名前は?』
ピアノの話題をつづけるのも気が引けて、代わりに尋ねてみる。
ついでに、自分の名前も走り書きでつけたした。
『オトハ』
なんか、漢字かくのも面倒になってきた。
彼女は、すぐに返事をくれた。
『リツ』
俺にあわせてか、カタカナ。
りつ。……また、和佐に聞いてみよう。
『オトハは、なにしに? ピアノ?』
ここにきた理由、ってことかな。
グランドピアノから離れようとしたリツを、身振りで留める。
『歌いにきた』
だれもいない場所で、だれにも聞こえない場所で、歌いに。
……だけど。
「きみならいてもいいや」
小首をかしげたリツに、なんでもないよ、と首をふる。
俺にとって、彼女以上のギャラリーがあるだろうか。
声が届かないのなら、いてもいなくても、おなじこと。
耳の奥には、リツが弾いていたピアノの調べが残っている。
澄んだ音。こんなにも優しく寂しい音色が奏でられるものなのか、というくらいに。どこまでも、透きとおった、音。
綺麗だけど、悲しい曲だった。
彼女は、一曲通して、ピアニシモで奏でつづけていた。抑揚を殺して、力強く弾くことをおそれるかのように、弱々しく。
わざと、――自分に聞こえなく、するように。
「きいて」
一音一音くぎって、ゆっくりと発話する。
俺の口の動きを真剣にみつめていたリツの目が、丸く見開かれて。くちびるが、震えながら薄くひらく。
――ドウシテ。
音のない声が、聞こえたような気が、した。
息をすう。
耳には旋律。
流れつづける、架空の曲。
眼を閉じて。
まわりつづける音をつかまえる。
謳え。
――traveler
茨の道を行く者達よ
何を願い 何を探し 何処を目指す?
進み急ぐ旅人は答えたんだ
その答えを求め行くのだ、と
瞼閉じて 自らを見つめる
それだけの余裕を持つ者が
果たしてどれだけいるだろう?
聞かせるために歌うんじゃない。
ただ、静まりきった水面を、ゆさぶってみたい。
ゆさぶられたのは、俺のほうだった。第二音楽室のドアを開けたとたん、耳から侵した旋律に、身動きさえとれなくなった。
そのまま、なんて、なんかくやしいから。
ゆれて。
すこしでいいから。
あきらめた顔をされるのは、気分がわるい。
だって、あんたの音はゆらしたんだ。
たしかに、俺に、届いたんだ。
自分の耳に届かなくても、俺の耳には届いたんだよ。
ゆらゆら。ゆらゆら。ゆれる、瞳。
黒く丸い海の底は、静かに凪いでいる。上空を吹きぬける風の温度など、しらぬふりをして。
思いしればいい。どれだけの衝撃を、俺に与えたのか。
きっと。
――届かせて、みせる。