op.1 静寂の邂逅
「新譜聴いた?」
「聴いた聴いた。iVoiseでしょ?」
街角ですれ違った少女たちが、口々に話題にのせていく。
「やばかったねー。なんかもう全身震えるかんじ? 伝えてやるって気迫がすごい!」
「あれでこそiVoiseだよね」
「声だけで鳥肌たったもん」
恍惚としたような、声。昨夜の新譜発表について語る彼女たちは、とても楽しげだ。
あれがいい。これがいい。移ろいゆく興味の中心に、たまたま嵌ったんだろう。
……べつに、そうでもない。
聞きたくないなら聞かなきゃいい。
俺は、歌うだけだ。
*
――iVoise
死にかけながら生きている
どうにかこうにか息をつなぐ
明日を求めて明日に溺れ
もがきながら今日に惑う
ピッと音を立てて、チャンネルを変える。
歌っているときの自分を客観視するのは、好きじゃない。
息をするように音を吐いた。
くりかえし、なんども、なんども。
それしか吐きだす術をしらないから。
馬鹿の一つ覚えのように、くりかえした。
雑音と声。どっちつかずの、音。
――iVoise。
誰に届かなくてもいい、ただようばかりの旋律。
俺の、すべて。
どうせ音源だけだけど、聴きたくない。伝えたくて歌うわけじゃない。俺は囀る小鳥じゃない。ただ、めずらしい声で吼えていただけ。
「音波、時間だ」
ああ、周ちゃんだ。迎えにきたんだ。
学校か。……だるいな。
「いかない」
適当に答えながら、叱責に備えて布団をかぶる。
手放したリモコンがカーペットに落ちた。鈍い音。
「音波」
淡々とした声。あきれられたかな。
……でも、いいや。
周ちゃんのため息が聞こえる。いつものことだけど、よく、俺につきあっていられるなと思う。いい大人なのに。……大人だからか。
「帰っていいよ、周ちゃん。行く気ないから」
「そういうわけにもいかないんだよ」
「なんで?」
布団から眼だけ出して、周ちゃんをうかがう。
スーツ姿で戸口に立った周ちゃんは、指先で車のキーをまわしながら、しかたなさそうに笑っていた。
「ああ、そっか。仕事だもんね。勤務じゃなくてプライベートだと思えばいいよ、――帰って、周兄ぃ」
「音波」
「いきたくないんだよ、今日は」
語調を強めて拒絶すると、やれやれと肩をすくめて、周ちゃんは眉をさげた。
「今日も、のまちがいだろう」
俺とはカケラも似ていない年上の従兄弟は、そう言って制服を投げわたしてきた。
ばさり、と広がったブレザーは、ほとんど新品同様。ついでに、ワイシャツとスラックスも飛んでくる。手慣れたものだ。
「いくらお前でも、いいかげん進級が危ない」
「中退でいいよ、俺」
「それ、親父さんに言えるか?」
「……ずるい」
苦笑した周ちゃんが、朝食つくってくる、といって部屋をでていった。
朝食なんてとってたら遅刻すると思うんだけど。
ちらり、と確認した時計は、とっくに始業時間をまわっていた。……なんだ。
結局、周ちゃんは、俺に甘い。
*
江沢周一は、ひとまわりも年上な俺の従兄弟であり、世間一般でいうマネージャーのようなものだ。
ようなもの、というのは、もともとのマネージャーは周ちゃんの彼女――というか奥さんで、寿退職予定だから。
いまは引継ぎ期間だから、どっちをマネージャーだとも言いがたい。
「じっさい、いらないけど」
マネージャーなんて、いらない。
俺は歌うだけだ。
つぶやいて、ノロノロと制服に袖を通す。
パリッときいたのりが気持ちわるい。
……そっか、冬服になってから、はじめてか。
勝手に漏れだした音をあつめて、押しこんで。勝手に名前をつけて、放流する。iVoiseは声だけの存在だから、それでいい。
俺の意思なんてしったこっちゃない。
聞かせたいとおもってるわけじゃない。
ただ、歌っていたいだけ。
「音波、準備できたか?」
「……いまいくよ」
*
和食派の俺にあわせて、食卓にならぶのは、伝統的な日本食。
焼き魚と味噌汁と白米。
あっさりとした出し巻き卵に、沢庵。
料理が得意なわけでもなかったのに、周ちゃんはがんばって和食のレパートリーを増やしてくれた。
これが限界だ、と言いながら、はじめて焦げてない魚を差しだされたときは、なかなかの感動ものだった。
そもそも、俺が和食にはまったのは、周ちゃんの奥さん――麗美さんのせいだけど。俗にいう、胃袋をつかまれる、っていうやつ。
もちろん周ちゃんも捕まっている。たぶん、麗美さんに教わったんだろうなあ。味つけおなじだもん。
おいしい朝食が手にはいれば、俺はしあわせ。
贅沢を言えば、そりゃあ、本家の味のが上だけど。
「音波、手が止まってる」
「……ん」
おとなしくご飯をかきこんで、味噌汁で流しこんだ。最後にとっておいた出し巻き卵を、一口でほおばる。
……あたり、だ。
今日は失敗しなかったのか。
絶品か、イマイチか。なぜかムラのはげしい周ちゃんの卵焼きは、ちょっとした運試し。
食べおえたはなから食器を片付けていった周ちゃんが、机を拭いて。
椅子をもどしたのなら、出発のあいず。
まくった袖をもどしながら、周ちゃんは、キッチンを後にする。
俺も、おとなしく立ちあがって、その背中を追った。
*
「テスト、またサボったんだって?」
バックミラーごしに、周ちゃんが問う。
俺は、答えずに、窓の外を流れる景色を、ポーッと見送った。
都会でも田舎でもない。中途半端な、町。
子どもはみんな学校に閉じこめられている時間帯だ。みかけるのは、だいたい老人か主婦だった。
もともとの人口分布も、そんなかんじだけど。
少子高齢化の波は、たしかに押し寄せてきている。
――なんて、もともとの比率を肌で知るわけでもないのに、社会派きどり。
学校で習った知識の受け売りだ。
……こういうのって受け売りっていうのかな?
「音波」
周ちゃんが、言葉少なく責めてくる。
……なんの話されてたんだっけ。
「このままだと、留年だとさ」
「ふぅん」
「自分のことだろ。すこしは興味を示せ」
あきれたように周ちゃんは言うけど、でも、しかたない。
いきたくていってるわけでもない。
あそこは音が氾濫しているから、好きになれない。
窓ガラスに頬を押しつけたまま、ため息をはく。
一瞬だけ白く曇って、すぐにもどった。
「三回くらい留年したら、あきらめてくれないかなあ」
「馬鹿」
こんどこそ、心の底からあきれた声だった。
*
校門で周ちゃんと別れて、ひさしぶりの学内を歩く。
季節は、初秋。
この前きたときと、変わっている。
それでも、そんなに代わり映えしないのは、学校っていう特性のせいなのかな。
ここは檻だ。特別性の檻。
たった三年間の魔法は、檻をでたあとも、ずっと解けない。
「あれ、秋葉音波?」
通りすがりの男子生徒につかまる。ジャージ姿だから、絶対に生徒。
まじまじと顔をみて、ああ、と納得した。
「覚えてないか。一応、俺――」
「和佐」
クラス委員、だ。
「あ、覚えてた?」
へらり、と笑う和佐は、俺のクラスの中心。
音の真ん中にいる人。
たまにしかこない上に、クラス内で浮きまくっていた俺を、よく気にかけてくれる正義感の強い生徒だ。
俺は、和佐を通じて、かろうじてクラスとつながっている。
……頼んだ覚えは、ないけど。
「教室いくの? 場所わかる?」
「覚えてるよ」
「本当に? 秋葉はボーッとしてるから、つい疑いたくなるんだ」
「そうでもない」
「ちなみに、つぎの授業、体育だけど受けてく?」
「……寝る」
それは無理だろう、と和佐が笑う。
彼は、よく笑う。暗い顔をしているところなんて、見たことがない。
和佐のことは、きらいじゃない。
ただ。
――まわりの雑音は、きらい。
*
体育はしかたないけど、つぎは出ろよ、といい残して、和佐はさっていった。
むかう方向は、体育倉庫。
……なんだ、使いっ走りか。
クラス委員というのも大変だ。
先生にいい顔して。級友にいい顔して。
だれに褒めそやされるわけでもなく、動く。
それ全部、考えなしにやれる人間じゃなきゃ、務まらないんだろう。
和佐はすごいと思うけど、真似したいとは思わない。
とんだボランティア精神。そんな心がけは、俺にはない。
チャイムが鳴る。
つぎが体育だということは、はじまったのは、三時限目。
四時限目って、なんだっけ。
教科書あるかな。
まあ、いいや、とりあえず教室にでもいこう。
――だって、月曜の午前は、音楽室が使えない。
*
昇降口。すこしほこりっぽい下駄箱をひらいて、上履きに変える。
近くのクラスからは、授業の声。
歴史、数学、英語。
いりまじって、廊下に響く。
だれにも会わないまま階段をのぼって、渡り廊下を進む。
俺のクラスは、第二校舎にあるから、遠くて面倒くさい。
渡り廊下の窓の向こうに、まだまだ染まる気配のない銀杏の木。
染まるっていうか、はがれ落ちるのか。
紅葉は、似ている。
必要なものさえ、そぎ落として、残るのは綺麗な核。
本質だけを、むき出しにして。
なにを振るい落としてでも、と張り上げる、声に、似ている。
俺にはない、悲壮的な、美。
あの銀杏も、そのうち、秘めた黄炎を表にだして、俺を追いぬいていくのだろう。
*
そろそろ、いこう。
窓から視線を外して、身体の向きを変える。
そして、一歩目を踏みだそうとした途端。
目の前にせまる女の子に、ギョッと固まった。
「うわ」
おもいっきり声を漏らしてしまったのに、うつむいたその子は気づかない。
髪のあいまにみえた表情は、焦りぎみ。
そういえば、いまは、授業中――。
あわてて身をかわしたところで、彼女も気づいたらしい。サッと顔色を変えて踏みとどまるけど、勢いは消えない。
まじかよ、と目を閉じる。
結局、走ってきた衝撃を殺しきれずに、正面からぶつかる羽目になった。
「いって……」
半不登校な俺に、うけとめる力も、避けきる反射神経も、あるわけがない。
たまたまそこにあった柱のでっぱりに、おもいっきり背中を打ちつけた。
……痛い。
薄目をひらいた視界には、ちらり、とこちらを振りかえりながら、立ち去っていく背中。
俺と目があったことに気づいて、彼女は立ち止まる。それから、無言で深々と頭を下げて――そのまま、行ってしまった。
長い黒髪をゆらして、走っていく。
ネクタイの色、たぶん赤だった。
同学年のはずだけど、あんな顔しらない。っていうか、俺は、ほとんど把握していないからわからない。
「謝罪もなしって……どうなの」
自分のことは棚上げして、ぽつりとつぶやいた。
静寂の邂逅。
つたわったのは、衝撃だけ。
――じんじんと、背中が、痛む。