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この小説はサイトからの転載です。
私は鏡を見るのが嫌いだった。ふわふわした茶色い髪も、ちょっと太い眉毛も、黒に近い茶色の瞳も、薄い唇も、ちっとも魅力的じゃない。
朝、食欲もないのにキッチンでスパムを挟んだパンを無理やり口に押し込み、ミルクを流し込んで家を出る。高く晴れ渡った空も、吹き抜ける爽やかな十月の風も、私にとっては全て苦痛でしかなかった。まだ車の免許を持っていないからスクールバスに乗っていかなければならないけれど、挨拶してくる友人は誰もいない。ハイスクールに通うことは拷問と同じだった。
「ねえ、みんな聞いて!」
お昼のカフェテリアでいきなり立ち上がり、大声を張り上げたのはチアリーダーのステイシー。プラチナ・ブロンドにグリーンの瞳、そして素晴らしいプロポーションの彼女は、頭もよく、学校内の女王的な存在だった。その横の席では彼女の恋人のレオンがにやにやしながら座っている。
「土曜日にうちでハロウィン・パーティーをするわよ。七時からよ。みんな、仮装して来なさい!」
その言葉に男子からも女子からも歓声が上がった。
「それから、必ず男女ペアで来ること。いいわね!」
そう言いながら、ステイシーは勝ち誇った眼差しを私に向けてきた。
「そりゃねえよ、俺、彼女いないもん」
冴えない顔をした男子がおどけた口調で軽い抗議の声をあげる。
「だったら、さっさと誰か誘いなさいよ。そうねえ、あそこにいるロージーとかどう?」
「冗談じゃねえよ。あんなの誘うぐらいなら豚のほうが百倍もましだよ」
どっと笑い声が響く中、私は黙って席を立ち、部屋から逃げ出した。
「ねえ、ロージー。もし彼氏が出来たら一緒に来て構わないわよ!」
追い打ちをかけるようなステイシーの声が背中に突き刺さる。私は両耳を塞ぎ、きつく目を瞑った。
この町に引っ越してきたのは数か月前。最初のうちは友人も出来たし、何事も問題なくスクール生活を送っていた。だが、レオンにデートに誘われた時から全てが変わってしまった。彼はアメフト部のエースで学校中の女の子達の憧れの的。しかもステイシーの恋人で、絶対に手の届かない存在だと思っていた。
もちろん嬉しかったけれど、突然の出来事にどうしたらいいのか判らず、すぐに返事をすることが出来なかった。友人に相談すると、彼女は何とも曖昧な微笑を浮かべたものだ。その意味が判ったのは翌日だった。恐らくは彼女の密告で自分の男に手を出したと、ステイシーが私を除け者にし始めたのだ。美人で裕福な彼女に逆らえるものは誰もいない。あっという間に私とまともに口を利いてくれる人は一人もいなくなった。大好きだった絵画のクラブも辞めてしまった。
家に帰った後も何も食べる気がおきなかった。ママは出張であと一週間くらいは帰ってこない。普段から仕事が忙しく、帰りも遅いので私はほとんど一人暮らしをしているようなものだった。宿題を終えると冷蔵庫からコーラを取り出して飲みながら、録画したテレビの学園ドラマを見る。ステイシーによく似たチアリーダーが友人に囲まれ、楽しそうに笑っている。突然吐き気が襲ってきて、テレビを消した。ステイシーは何でも持っている。でも、私には何もない。勉強する意味なんて、いや、生きている意味なんてあるんだろうか。見上げた時計の針は午前十二時過ぎを指している。
もう何がどうなってもいい。私は衝動的にバッグを掴んで、家を出た。
住宅街を抜けて、ハロウィンの装飾が施されたショッピング・ストリートをあてもなく歩く。店の灯りが消え、人通りの途絶えた表通りを抜けて、酒とゴミの匂いのする裏通りに入ると、飲食店の灯りはまだ煌々と輝いていて、そこここに人が行き交っていた。考えたら上着も着ていない。肌寒さにぶるっと身体を震わせ、ふと気が付くと、人気のない狭い路地に迷い込んでいた。欠けた月が空に浮かんでいる。突然、背後から口を塞がれた。恐怖で身体を強張らせた私の喉元に冷たいナイフの刃が当たった。
「大人しくしな、姉ちゃん。騒いだら殺すからな」
そのまま、男は私を冷たい地面に押し倒すと、Tシャツとブラジャーをナイフで引き裂いた。叫び声を上げようと口を開けても、掠れた声しか出てこない。男の手が下半身に伸ばされた時だ。
いきなり、男の身体が目の前から消え失せた。何が起こったのか判らなかった。落ち着け、落ち着けと必死で自分に呼び掛ける。そうしてやっと目の前に誰かが立っているのに気が付いた。
「大丈夫?」
一瞬、天使が私を迎えに来たのだと思った。ああ、私は殺されたんだと。だが、よく見るとそこにいるのは腰まである長いストレートの金髪に涼やかなペールブルーの瞳の美しい青年だった。
「あ……あの、はい、大丈夫です」
私は上半身を起こしたが、自分の胸が剥き出しになっているのに気付き、慌てて身体を抱え込んだ。
青年は自分が来ていたグレーの綿ジャケットを脱ぐと肩にそっと掛けてくれた。
「さあ、これを着て。警察を呼ぼうか?」
「あ、あの、いいです。その……何もされてないし」
「そう。それはよかった」
青年がすっと手を伸ばしてきたが、何故か恐怖心は感じなかった。手を差し出し、立ち上がると壁際に気絶している男の姿が見える。
「こんなところに一人で来ちゃいけないよ。歩ける?」
「はい」
まだ身体が震えていたが、大きく息を吸い込んで吐き出し、ゆっくりと歩き始めた。
路地を抜け、表通りに出るとようやく落ち着きを取り戻した。もしこの人が助けてくれなければ、私はレイプされていただろう。そう考えるとまた身体が震えだしそうになる。
「家に誰かいる? 迎えに来てもらったほうがよければ電話を掛けて」
「誰もいません」
「そう。だったら家まで送るよ」
私は自分と並んで歩いている青年を改めて見直した。さらりとした金の髪を背中で結んだ青年は、バーテンダーの服を着ている。仕事帰りなんだろうか。彼は私を見て柔らかく微笑んだ。整った顔立ちは女性と見まごうほど美しい。ひょっとしてこれは夢じゃないだろうか。ちょっと目を離したら、この人の姿はふっと消えてしまうような気がした。
「あ、あの、ありがとうございます。その……」
「ああ、当たり前のことをしただけだから気にしないで」
表通りを抜けて住宅街に入り、家の前まで辿り着くまで、私は口を利かなかった。いや、利けなかったのだ。心臓がドキドキして口から飛び出しそうだった。
「それじゃ、俺はこれで」
立ち去ろうとした彼に、私は思わず声を掛けていた。
「あ、あの、話を聞いてもらえませんか?」
「え?」
「家に入って、私の話を聞いてください。お願いします」
彼は暖かく微笑んだ。
「いいよ」
居間に彼を招き入れると、私は学校であったことを全て話した。彼は嫌な顔一つせずに話を聞いてくれた。
「そう。それは酷い話だね。で、君は彼のことはどう思ってるの?」
「レオンのことですか? ……かっこいいし、つきあうことが出来たらどんなにいいだろうって。でも、もういいです」
「なるほど。……で、ハロウィン・パーティーには行かないの?」
「ええ。だって一緒に行ってくれる人なんていないし」
「俺じゃあ駄目かな」
「え?」
「俺でよければ一緒に行ってもいいよ。君が嫌なら止めるけど」
「え……あ……」
私は彼の突然の提案に戸惑った。
「だって、私はブスだし、衣装だって持ってないし」
「衣装は俺が用意するよ。それから君はブスなんかじゃないよ。とっても可愛いと思う」
彼は私をからかっているんだろうか。でも嘘を言っているようには見えない。
「君の名前は?」
「ロージーです」
「そう。素敵な名前だね。俺はレイ。君さえ承知してくれたら、土曜日に君を迎えに来るよ」
「でも……」
「そうか。いきなりこんなこと言われても困るよね。もしその気になったら電話をかけて」
レイは手帳を取り出すと、一枚破りとって、そこに電話番号を書いた。
「これは俺の勤めてるバーの電話番号だ。今、住んでるアパートには電話がなくてね。夜六時以降はここにいるから」
「バーですか」
レイはふっと笑みを浮かべてこくりと頷いた。
「俺は見た通りのバーテンダーなんだ。君が二十一歳以上なら、店で特製のカクテルをご馳走してあげるんだけどね。ああ、それと君の足のサイズを教えてくれないか。靴も用意しておくから」
「あ……6.5です。あの……」
「なに?」
「レイ、どうしてこんなことしてくれるんですか? 私なんて、あなたにとっては赤の他人にすぎないのに」
「君はこのままじゃただの負け犬になってしまう。せっかく人間に生まれたのに、そんなのは悲しいじゃないか。俺は君の恋人でも何でもないけど、パーティーに一緒に行くことぐらいは出来る。そうすれば、きっと自分に自信が持てるようになるよ」
「でも……あの、私、行かないかもしれないし」
「それは全然構わないよ」
「判りました。考えてみます」
レイが立ち去るのを見送ると、ドアに鍵をかけてそのままベッドに潜り込んだ。彼の言ったことは本当だろうか。私は彼が残したメモを眺めているうちに眠ってしまった。
次の日、理科の授業を終え、少し遅れてロッカーに行くと、レオンが私のロッカーの前に一人で立っていた。スタジアムジャンパーにジーンズ、アッシュグレイの髪を短く整えた逞しい体躯の彼は、笑いながら私に向かって手を振っていた。
「やあ、ロージー。週末のパーティー、よかったら俺と行ってくれないか?」
「え……。あの……」
「この間はごめん。でも、君をデートに誘ったのは浮ついた気持ちじゃなかったんだ。あの時はまだステイシーとは付き合ってたけど、あの性格には正直、嫌気がさしてた。そうしたら昨日、彼女のほうから他に好きな人が出来たから別れてくれって言ってきたんだ。だから今度のパーティーには君と行きたいんだよ。俺はドラキュラの仮装をしていくから、君はそれに合わせてくれればいいよ」
私は迷った。信じてもいいのだろうか。
「こうしたら、信じてもらえるかな?」
そう言った途端、レオンは私の顎にぐいっと手を掛けて、唇に軽くキスをしてきた。
あまりの出来事に身体中が熱くなってしまい、何も考えられなくなった。
「信じてくれる?」
「……はい」
「よかった。じゃあ、土曜日の午後六時に迎えに行くよ」
彼が立ち去った後も胸の鼓動はなかなか静まらない。レオンが私を迎えに来てくれる。今まで、叶わないと思っていたことが現実になると考えただけで小躍りするくらい嬉しかった。
家に帰ると、見知らぬ男がドアの前に立っていた。いったい誰だろう。少し警戒しながら近付いて行くと、黒髪の少し色黒な青年は、私に気付いて人懐っこい笑みを浮かべた。
「ええっと、もしかしてあんたがロージー?」
「はい。そうですけど」
「よかった。はい、これ」
そう言いながら大きな紙袋をひょいっと差し出してきた。
「あの、すみません。あなた、誰ですか?」
「ああ、ごめんごめん。俺はデビィ。レイの相棒なんだ。これは奴から頼まれたんだ。あんたに渡してくれってさ。で、もし行く気が起きたら電話してくれだってよ」
「あ、あの……申し訳ないんですけど、あたし、レオンに誘われて一緒に行くことになったんです。だから……」
「ええっ? そうだったのか。でも構わねえよ。奴にはそう言っておく。それからレイの奴と行かないにしても、これはあんたへのプレゼントだから返さなくっていい。嫌じゃなかったら着てってくれ。じゃ、俺、仕事があるんで、これで。ああ、それとあんたってなかなかいい女だぜ。それに……美味そうだ」
デビィは歯を見せてにやりと笑うと、立ち去ってしまった。ドアの前に置かれた紙袋を持って、部屋に戻ると、そっと開けてみる。中に入っていたのは真っ赤なベルベットのミニドレスと黒いボレロ。そして黒いブーツだった。ボレロの背中には小さな蝙蝠の翼が付いている。
「何これ? すっごく可愛い!」
鏡の前で身体に当ててみた。少し裾の広がったドレスの鮮やかな赤は、私の顔をいつもよりずっと明るくみせてくれている。
ありがとう、レイ。パーティーが終わったら、何かお礼をしなくっちゃ。