なさすぎた男
これほど心惹かれるものは、俺にとって他になかった。
卵色と焦げ茶色の絶妙なコントラスト、比率、形状、まさに黄金比といっていい。
プラスチックのケースから放たれ皿し滑り落ちた瞬間の躍動は感動的であり、官能的なものですらあった。スプーンで横からつついた時の揺らめきもまた俺の慕情をかき乱した。
それはいつも俺を魅了した。
いつからだろう?これほどまでに心奪われ崇拝の意すら抱くようになったのは。
数百年か数十年前か知らんが、遙か遠き西洋の地から渡ってきて暮れたことに大層感謝している。
発明者に至っては、爪の垢を根こそぎもらって壺に納め、家宝として代々伝えていきたいほどの尊敬ぶりだ。
だが今日は違った。
俺がこれほどこよなく愛し、畏敬しているもの以上に偉大なるものを迎えようとしている。
俺は戸惑いを感じながらも予感に心ときめかせている。母親と妻との愛情の板挟みにされた壮年男性のような、至極複雑な心境である。
「東郷さ~ん、やっぱり無謀すぎますよ」
山積みにされた古雑誌を、弱々しい両腕で抱えながら矢柳が言った。
「何だ、もう音を上げたのか。まだ始めて10分だぞ」
同時にそれは約束の時間まで残り3時間を切ったことを示していた。俺は余裕ぶりながらも内心はひどく焦っていた。6畳のこの部屋を、ここまで荒廃させるまでどうして放置していたのだろう。
40畳の大部屋なら兎も角、この広さなら日々の簡単な掃除で清潔に保てるのではないか。
いや、狭いからこそいつでも掃除などできるとついつい億劫になっていたのだろう。気づけばもう、この有り様だ。
「東郷さん、東郷さ~ん?」
そんなことをうだうだ考えていたら、ふと空き缶の詰まった袋を抱えたまま部屋の中央に立ち尽くした自分に気がついた。
振り返ると、矢柳がそのか細い腕には大層重く感じるだろう雑誌の束を抱き締めた状態でこちらを見ていた。その目つきは寒さで身動きの取れない野兎のように繊細だ。
「何だよお前、俺が指示するまでずっとそうしてるつもりかよ」
「だってどうしたらいいかわからなくて…」
「ビニール紐でくくって玄関に置いといてくれ」
俺はちらりと目先の玄関を見た。すでに集められたゴミ袋で靴すら見当たらない状態だった。矢柳の小さいスニーカーなんてとっくに潰れたアンパンみたいになっているだろう。
俺はすぐに言い直す。
「やっぱりベランダに出してくれ」
ベランダまではさすがにゴミに汚染されていない。人目につくからだ。ここは住宅街だから、あそこに住んでいる人はきっとゴミ男なのよなどと近所で良からぬ噂を立てられては困る。
ただ、古雑誌を重ねておく程度なら何のことはない。
矢柳は手早く雑誌を紐でくくると、指示通りにベランダに置きに出た。そういう手先の細かい作業は得意らしい。
「でもさすがに東郷さん、緊張してるんじゃないですか~?」
ベランダから戻ってきた矢柳が何気なく言った。
鉛筆で書いたような薄い唇がどことなく綻んでいる。
そんなわけあるか、と俺は矢柳の頭を軽く小突いた。
まあ、正直なところめちゃくちゃ緊張している。
言うなれば今の俺は歩く緊張感だろう。普段はワルツのように穏やかな俺の心臓は、今激しいビートを奏でている。ハードロックでコアでシャウトだ。
矢柳のような鈍感な人間に見抜かれてしまうとは、俺もまだまだらしい。
「でも僕は東郷さんに頑張ってほしいです」
矢柳は呑気に言った。
何だかんだいって、こいつには感謝している。
サークル内で一番俺に懐いてくれてるし、一見ゾンビになれなかったゾンビみたいな出で立ちで恐怖を覚えるが中身はいい奴だし。今日もこうして俺の強行命令を聞いてくれている。
片付け終わったら、些少ながら礼はするつもりだ。
「とにかく」
俺は咳払いをして仕切り直した。いつの間にか手が止まってしまっていた。
「少しペースを上げるぞ。何としてもこの部屋を時間内にきれいにしなければならないからな」
「東郷さんの明暗を分ける重要なことですからね」
矢柳がまた口元を緩ませて、俺はそのビー玉みたいに脆そうな頭を軽く叩いた。
そう、今日は決戦。
響子ちゃんから我が家に遊びに来るとメールが届いた時、俺は嬉しさと驚きのあまり回転ジャンプした。
大学を卒業するまでの後1年で、響子ちゃんとの思い出をたくさんこの場に残したい。
俺がプリンに対するものよりも深い愛情と憧憬を抱いた最初で最後の女ー……………の予定。
ここで失敗するわけにはいかないのだ。
プリンしか愛せない男だと思っていた自分を変える大きなチャンスでもあるのだから。
壁に掛かった時計を見ると、短針はだいぶ1の方向へ傾いている。
この汚い部屋、というよりは人が住むとは思えないような朽ち果てた部屋を好む女の子はまずいない。
半年もメールを続け、ようやく今日約束を取り付けるに至ったのだ。単に俺が少しずつ貯めたバイト代で念願の最新ゲーム機を買ったと言ったから、それをやってみたいだけに来たいと言ったのかもしれないが、もはや口実などどうでもいいのだ。
この半年間の汗と涙と努力の成果をここで見せなければ。
頑張れ矢柳、いや主に頑張らなきゃいけないのは俺だ俺!
「東郷さ~ん、こんなものがありましたよ」
矢柳が菜箸でつまんで揺らしていたのは紛れもなく俺のパンツだった。俺は慌ててそのパンツを引ったくる。
「お前何だよその扱い方は!」
俺はよりによって菜箸で人の下着をつまむという矢柳の行為に憤慨していた。パンツはちゃんと洗って畳んで置いておいたものだ。下着だけは洗わず放置してはならないのが俺のポリシー。
「立って、冷蔵庫の上なんて…洗濯物を、パンツを冷蔵庫の上に置いておく性癖があるんですか?」
「何だよその言い方、何だよ性癖って!」
洗濯したはいいがその置き場所が確保できないのが現状だった。というか、タンスにしまうのが億劫で何となく冷蔵庫の上に置いていた。
「でも僕が気づいてよかったじゃないですか。もしそのまま早坂さんに発見されたら終わりですよ。いくら部屋をきれいにしたって」
恩着せがましい口振りが鼻についたが、確かにそんな大恥はかきたくないので言い返せなかった。
万一損なことになってしまえば、俺は響子ちゃんと付き合うどころか大学に行けなくなってしまうだろう。あの人、冷蔵庫の上にパンツ置いてるパンツ冷え冷え男よ、というリアルな噂が女の子の間で広まる。やがて男の間にも浸透し、俺は友人からもパンツ男と後ろ指差される。
それを耳にした心理学の教授が、下着を冷蔵庫の上に放置する心理を研究し、学会で発表するかもしれない。また、そこから触発された学者がパンツ学なる新たな分野の学問を設立するかもしれないし、その話を友達の友達から聞いた某大手家電メーカーの企画担当が俺に連絡を取り、下着も保存できる新しい冷蔵庫の開発話を持ちかけてくるかもしれないのだ。
思わず開発許可を出してしまった俺は(大ヒットを想定して)その後ウハウハ極楽生活を送れるかもしれないー………しかし、その代償に響子ちゃんや友人、世間から冷ややかな視線を受け続け、天涯孤独にこの世の片隅でひっそりいきねばならないのである。
そんな妄想ですっかり涙目になっていた俺を、矢柳は不思議そうに見つめた。
「そんな顔しないでくださいよ。僕だってたまに口に米粒つけたまま宅配便を受け取りに出ちゃいますから、ね」
なんのフォローにもならないことを言って、矢柳は作業を進めていった。
時間はすでに1時をまわっていた。
再び時計を見たのはそれから1時間15分後のことだった。
二人の懸命な作業によって部屋はだいぶ元の姿を取り戻していた。文句のつけようがない、とまではいかないが、まあ男の子の部屋ってこんなものよねと納得してもらえそうな復元ぶりではある。
「やりましたねえ、東郷さん」
「ああ」
上出来だ、と俺は頷いて部屋の真ん中に座り込んだ。何の妨害もなく悠々と座れることに感動。
あまりに久しい感覚だ。
立ち膝をしている矢柳が、でも、と呟いた。
「あのゴミ袋の処理はどうするんですか?今日は燃えるゴミの日ですけど収集はとっくに終わってますし、それ以外のゴミも多いですし、隠す場所もないですよね」
6つのゴミ袋はもはや玄関にも居場所をなくしていた。強引に積み上げられたそれらは今にも決壊し、こちらの安全なゾーンになだれ込んできそうだ。
「保管場所ならある」
「え、どこですか?」
「ゴミ捨て場だよ。響子ちゃんが来る寸前に持っていって、帰ったらまたすぐに取りに行けばいい。少しの間ぐらい置かせてもらってもいいだろ」
「荒技ですね東郷さん。怒られないことを祈りますよ」
さすがに疲れたのだろう、欠伸を交えて矢柳が言った。俺自身にもやや疲れが見えていた。
よし、と俺は立ち上がった。
「ちょっと行ってくる」
「どちらへ?」
「コンビニだ。お前はその辺の小さいゴミを拾ってくれ」
俺は玄関を占拠するゴミ袋を慎重にかき分け自分の靴を履いた。想像通り、矢柳のスニーカーは潰れアンパンになっていた。
閑静な住宅街の中を俺は清々しい気分で歩く。
梅雨入り前の初夏の穏やかな気候に、ますます俺の機嫌は良くなる。片付けられてよかった。良き後輩のお陰だ。
朝から電話ですあいつを起こして無理矢理手伝わせた俺が言うのも何だが、あいつは本当によくやってくれたと思う。もし俺と響子ちゃんがうまくいったら、俺はあいつを慕う立場になるだろう。
今日はコンビニで一番豪華なプリンをあいつに買ってやろう。
色とりどりのフルーツであしらわれ、砂糖をたっぷり含んだ生クリームでコーティングされたプリンアラモードを、矢柳は小さなプラスチックのスプーンでとても美味そうに食べていた。
隣でごく普通のプリンを食べる俺はそれを見て安堵した。
「さてと、響子ちゃんが来るまで後30分か。そろそろあの大荷物を移動させないとな…」
矢柳が食べ終わったのを見計らい、俺はおもむろに立ち上がった。その時、矢柳が目を細めて俺を見た。
「東郷さん」
「あ」
俺は無意識のうちにプラスチックのカップとスプーンを床に放っていたのだ。長い堕落生活ですっかり癖になっていたらしい。これこそ嫌な性癖だ。
俺はすぐに拾い上げ、ゴミ袋の中に捨てた。
「部屋はゴミ箱じゃないんですよ。早坂さんが帰ってもこの状態をキープしておかないと」
「耳が痛いな。…だけどしっかりしないとな」
「また何度でも早坂さんが来るかもしれないんですから。友達だって呼べるじゃないですか。時々は僕のことも呼んでくださいね」
「……矢柳」
ありがとう、とこいつに初めて告げる言葉を口にしようとすると、矢柳があっ、と声を上げた。
「東郷さん、口にカラメルついてますよ」
「えっ、やべえ危うくカラメル男になるところだった」
「何ですかそれ」
俺はティッシュで口元を拭った。それからふと、先日購入したゲーム機をまだ開封していないことに気がついた。今日の為に手を着けずにいたのだ。
「確かここに……」
俺は押し入れを開けて中の衣装ケースの上に置いた箱を両手で持ち上げた。箱を胸に引き寄せた春寒、埃の塊がふわっと舞って羽のように散っていった。生活範囲ですら掃除のままならない俺が、こんな見えない所に気を配るはずもなく、この数年間適度な湿り気を保ち続けていた苗床で、綿飴みたいに大きく膨らんだ埃は繁茂していた。
俺は特に気に留めず、ゲーム機の箱をバリバリと乱雑に引きちぎった。矢柳はそれを何とも複雑な表情で見ていた。
「なんか、担子菌が好みそうな環境ですね」
「生えてきたらお前にお裾分けしてやるよ」
「結構です」
ゲーム機をセッティングして、準備は整った。
後は飲み物と菓子をー………。
「東郷さん」
「ん?」
テレビに向かっていた俺はその声に振り向く。
そして気がついた。
部屋には千切られた段ボール箱と、ふわふわした大きな埃の塊が無数に散らばっていた。
ついつい、ゲーム機の開封に夢中になっていたみたいだ。
俺は矢柳に向かって言った。
「ワリイ、矢柳。もう一度掃除してくんねえか?また汚れちまったからよ」
「…いいですよ。でも」
矢柳はまっすぐの瞳で俺を見つめた。
「これが最後です」
「ああ、今?ちょうど部屋の掃除が終わったんだ。いやー、時間かかっちまったよ。……え、大丈夫だって。ちゃんと人が生活できる部屋だから。今度遊びに来いよ」
高校時代の友人との会話は気が休まるひとときだ。
「ああ、じゃあまたな」
通話を終え、俺はゆっくり辺りを見回した。外はここへ来た時と同じようによく晴れ、穏やかだった。
本当に清々しい気分。本当に滑稽だ。
俺の溜まりに溜まった鬱憤が晴らされたように澄み切った青い空、風が心地いい。
然るべき時はもうすぐそこまで来ているだろう。
だが、後悔などしていない。
ゴミはゴミ箱に捨てるべきなのだから。