弁当の話
「弁当と恋は似てる。そう思わない?」
緑色の平面図を突き抜ける、まっすぐな道を水色のライトバンが走っている。
何もない十字路のぽつんとした信号に差し掛かったとき、運転席の男が呟いた。
「なんだい急に。また妙な哲学の話かい?」
助手席に座る若い女が、まだあどけなさを残した顔を崩してそれに応じた。
「哲学なんてたいそうなものじゃないよ。ふと思っただけ」
「そう」
女は再び大きく欠伸をしておもむろに伸びをした。傍らの窓を半開にする。春の冷たい柔らかな風がその長い髪をくすぐった。
「さっきからずっとこのつまらない道を走り続けていてさ、眠いんだ。見ての通りだよ。眠さに拍車をかけるような話はやめてくれよ。毎度のことながら
」
気だるそうに女は言って、腰を回すように後ろを振り返った。建物ひとつ見当たらない、単調な一本道が続いている。それは前を向き直してもただ赤色を示す信号機が一台あるだけで著しい変化はなかった。
「僕の前に道はない、僕の後ろに道は…みたいな。あーあ、つまらんつまらん。ラジオつけたって、ノリノリのMCが一人で喋り倒すくっだらない番組しかやっていないしさあー」
女は背もたれに大きく寄りかかって右足を組んだ。
「この世の娯楽の2/3はくだらないもので占めてると思うけどね、俺は」
「君って時々厭世的だよね」
女が男の横顔をちらりと見た。女よりは幾分年上の、だがまだ青年と呼べる風貌の男はまっすぐ前を見据えたまま、堅くハンドルを握り締めている。
「そっちこそ」
信号が青に変わり、男はゆっくりアクセルを踏み出した。
何も変化をもたらさない窓の外を眺めながら女が、思い出したように言った。
「で?さっきの弁当がなんとかって話は?」
「聞いてくれるんだ」
「つまらない話はあまり聞きたくないけれども言いかけられてなんだから聞いてあげるよ」
「笑いレベル、低いと思うけど」
「何を。私の沸点は高いさ。ほら、話してみてよ」
女は足を組み替えてわざとらしく掌を男のほうに向けた。
「弁当はフタを開けてみなければ中身が見えない。それは食べる楽しみを増幅させてくれる。逆に開けてみることで期待はずれな中身に遭遇することもある。恋愛だってそう。たとえば、顔とかスタイルが自分の好みであっても、それだけじゃ当然その人の本質は見えない。経験を積み重ねていくことでようやく実態が見えてくる。この人と付き合えてよかったー、なのか、見た目だけで選んで失敗したー、か。だから弁当と同じ。だからこそ楽しい」
「君の大好きなちくわの磯辺揚げが入っているか、それとも大嫌いなミックスベジタブルが入っているか、すべては開けてからのお楽しみ、と」
「そういうこと」
淡々と語る男に対し、女は顎に手を当てて考えあぐねていた。
「ん?不満?」
「いやー、不満というかさ。まあ面白いたとえだとは思うけども。すべての弁当のフタが不透明とは限らないよね。中の見えないフタがついているのは会席弁当とか家庭の手作り弁当とか、どちらかというと特別感のあるもので…世に普及している多くのそれは透明じゃないか?コンビニ弁当とか、ほら君の好きなほか弁なんて、中身を見て自分が食べたいものを選ぶだろう?そういう恋愛もあると君は思うの?」
「んー、あるんじゃない?」
「なんだよそれ、適当だな!そこまで考えていなかったのかい?」
「いや、それもあると思うよ。相手のすべてを知ってから、自分の好みだと判断した上で付き合いに発展するっていうのは。むしろよくあること」
「………」
再び女は窓のほうを向いた。緑色の短い草が風にそよそよ揺れている。人ひとりいない。
「というかさ、君って語れるほど恋愛を経験しているっけ?」
「トモが俺の過去すべてを把握してるっていうのは思い上がりじゃない?」
「うわっ、むかつくなあその言い方!せっかく君の過去に興味を示してあげたというのに!もう話聞かないぞ」
トモと呼ばれた女は大きく腕を組んで頬を膨らませた。男はようやくそのポーカーフェイスを崩し、口元を少し緩ませた。
「そういうとこ子供だよね、ほんと」
「うるさいな、君こそ少しは年上らしく、人を怒らせるようなことばかり言うなよ」
「俺はトモのストッパーだよ」
「どこが!それなら私は君のサポーターだぞ、ったく。……というかさ、君これまでの人生で家庭の手作り弁当なんて食べたことあるのかい?」
「中学校の一年間ばあちゃんが作ってくれた弁当」
「……ばあちゃんか。色気ないな」
「フタを開けるといっつも真っ茶色でよく同級生に笑われたっけ」
「それってさ、せっかく中身の見えない弁当でも楽しみがなかったということだよね」
「いいの。俺にとっては作ってもらうことが楽しみだったんだから」
「ふーん、君って時々まともなこと言うよな。…というかなんで一年間だけだったんだい?」
「ま色々あって」
「あくまでも秘密主義か。まあいいけど」
車がゆっくり減速していく。先程となんら変わりない殺風景な十字路だった。
「なんかさ、ここまで変化に乏しいと同じところをずっとループしている気分になるよな。某RPGの意地悪なダンジョンみたいだ」
「もうそろそろだと思うけどね、距離的には」
「だってさっきから民家一軒見ていないぞ。本当に着けるのかい?狐に包まれたんじゃないか?」
「つままれた、でしょ。包まれたらただあったかいだけだよ。…あと十五キロぐらいまっすぐ走ったら着くと思うよ」
「そんなに続くのかこの無限ループ…対向車も後続車もまったく見ないし、ちょっと走ると十字路があるだけ。この信号機、ある意味あるのか…?」
トモが溜め息を吐いて、男がそれを横目でちらりと見た。
「この世に意味のないものなんてないと思うけどね、俺は」
そしてゆっくり発進する。
「どんなにくだらない娯楽だって意味があるからそこにある」
「……なんとか企業の保養地とかも?」
「みんながみんな必要としてなくても一部の誰かが必要としてるからそこに作る。そこにある」
「世論からバッシング受けそうだな、君の持論は」
「別に俺には世を背負って立つ偉い人になる資格はないからね。隅で吠えてる分には誰にも迷惑掛けないし、誰にも届かないから」
「…世の代表者にはそうであってほしくないけれど。……あーあ、結局つまらない話になってしまったじゃないか。弁当から飛躍しすぎだぞ」
「トモがね」
「私のせいかよ。…なんか弁当食べたくなってきたな。依頼先で唐揚げ特盛弁当出してくれないかな。海老ブロッコリーサラダ付きで」
「俺昨日それ食べた。トモに内緒で」
「…この野郎」
しばらく走ると、柔らかそうな新緑を擁した森の入り口が見えてきた。
「お、ようやく景色が変わったぞ。この瑞々しい若葉は目の保養になるな」
トモが声をワントーン上げて窓の外を見渡す。
頭上から小鳥のさえずりが聞こえ、森の中に静かに響いている。
「ここから目的地まではずっと森だ。すぐに飽きたとか言わないでね」
「え、ずいぶん長い森なんだな。まあ、鳥の声でも聞きながら仕事に備えて一眠りするよ」
「ちゃんと起きてね。涎なんか垂らさないように」
「一言多いぞ。君こそさっきから耳の上の髪がはねているし。どんな依頼主かは知らんが粗相のないようにしてくれよ!」
男はフロントミラーをちらと覗き込んだ。確かに左耳の上の栗毛がぴょこんと可愛らしくはねている。だがそれをどうすることもなく、男は前を向き直した。
「癖っ毛だから致し方ない」
「ちょっと手直しするとか、それぐらいしてくれよ」
「それを言うならトモ、さっきからわざわざ俺に見せつけてるブーツの踵、めちゃくちゃはげてるよ」
「…うるさい!おやすみ!着く三分前にちゃんと起こせ!馬鹿サト!」
「はいはいおやすみー」
サトと呼ばれた青年は優しげに口元を綻ばせ、ハンドルを強く握り直した。
深い森の中に水色のライトバンがどっぷりと包まれていく。