4.浮気発覚。
花の驚きの発言に人々は青ざめたが、堪え切れずに「ぷっ!」と噴き出したのは、ルークに一拍遅れて現れていたレナード。
だが次の瞬間、それは絶叫に変わった。
「陛下!! 八つ当たりは止めて下さい!!」
どうやらレナードは皆には見えない攻撃を受けたらしい。
そして気が付けば、ルークに従い近衛騎士達が続々と転移して来ていた。
皆が突然降臨した魔王――ではなく、皇帝に恐れ戦き跪く中で、一人立ったままの花は気まずそうにルークから目を逸らした。
しかし、ルークは明らかな心配を見せて問いかける。
「ハナ、大事ないか?」
「……はい、大丈夫です。すみませんでした」
申し訳なさと情けなさで居た堪れなくなった花は、おずおずと視線を戻すと沈んだ様子で謝罪した。
「いや、無事ならいい」
俯く花の頬にそっと触れて安堵の息を吐くと、ルークは周囲に目を向けた。
花の強い動揺が伝わり、すぐさま駆けつけたものの、状況を把握していた訳ではない。
膝をついて軽く頭を下げるランディ達に視線をやると、腰を抜かした三人の男達が「ひいっ!」と耳障りな悲鳴を上げて失神してしまった。
その不快な光景を視界から追い出したルークは、辺りに潜む気配の数々に色々と察して今度は大きく溜息を吐いた。
「ディアンか……」
どこか諦めた様子で呟いたルークだったが、もう一度改めて花を見つめると顔をしかめ、いきなりその小さな鼻をつまんだ。
「ふがっ!?」
驚く花を無視して、ルークはそのまま低く詠唱する。
と、途端に花の纏う気が誰にでもわかる程のいつもの柔らかく温かなものへと戻った。
「ハナ」
「ひゃい」
ようやく解放された鼻を押さえて返事をする花に、ルークは珍しくきつい口調で続けた。
「出かけるのは構わない。それを私に告げないのも、まあいいだろう。だが、他の男の気を纏うような事はするな」
「……ごめんなさい」
今回のお忍びでは、花の目立ちすぎる気配を隠す為にディアンが術を施していたのだが、その微かな痕跡さえもルークには我慢ならなかったのだ。
例えそれが、ルーク以外の誰にもわからない程度でも。
花は初めてルークから冷たい感情を向けられて、かなり落ち込んだ。
怒られる覚悟は当然していたのだが、実際に目の当たりにすると予想以上につらく、考えが甘かった事を痛感した。
「本当に……ごめんなさい」
「――いや、違う。きつく言い過ぎた。すまない」
今にも泣き出しそうになりながら、それでも声を震わせて再び謝罪した花に、ルークは堪りかねてそっと抱き寄せた。
深く息を吸い込むと花のほのかに甘い香りがルークを満たし、焦慮と嫉妬で乱れた心を落ち着かせていく。
そこでやっと冷静さを取り戻したルークは、花を腕に抱いたまま目配せで側に控える者達へ指示を出した。
それを受けて、皆がすばやく動き出す。
それまでの様子を、頭を下げながらもこっそり窺っていた街の人達は、ただただ呆気に取られていた。
皇帝陛下を前にして跪くこともなく、とんでもない事を口走ったあの娘さんは不敬罪で殺される――と、肝を冷やしたのもつかの間、皇帝の怒りはすぐさま治まり、まさかの甘々っぷり。
近衛騎士達の態度からしても、どうやらあの娘さん――あの方がハナ様に間違いないのだろう。
――― ってか、陛下……ハナ様にメロメロじゃね?
とは、誰もが思ったが口には出来なかった言葉である。
その後、どこからともなく現れた馬車に乗り込んだ二人を、人々は喜びに顔を輝かせて見送った。
奇跡の二人を間近で目にすることが出来たばかりか、街の人達には逆らうことを許されない厄介者だった貴族の若者達を騎士達が引き立てて行ったからだ。
だがしかし――。
「……絶世の美女は?」
「……」
誰かがぽつりと呟いた声には、微妙な沈黙で応えるだけだった。
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「あの……セレナ達はどこに……?」
街へと出た時と同じ馬車のゆったりとした車内にルークと隣り合わせに座った花は、皆を待たずに扉が閉じられた事にわずかな戸惑いを見せた。
この馬車は簡素な外観ではあったが、振動も少なくて非常に乗り心地が良く、妊婦の花も快適に移動できるのだ。
「もう一台、別の馬車で来ているから心配いらない。それより、ハナは大丈夫か?」
「――はい、ありがとうございます」
いつの間にもう一台手配したのだろうと驚いたが、花はルークの優しい気遣いにお腹を撫でながら何とか微笑んで答えた。
それでも未だに落ち込んでいる様子の花に、ルークは気持ちを上手く言葉にする事が出来ず、ただ柔らかく抱きしめてそっと口づけた。
すると微かにこわばっていた花の体から力が抜けていく。
やがて唇を離した二人の間には、温かく穏やかな沈黙が漂っていた。
「……なんだか新鮮で、すごく楽しいです」
「ん?」
幸せにかすれた花の声はルークの心を静かに揺さぶる。
「ルークと二人で馬車に乗るのは初めてなので、ドキドキします」
「ああ……」
頬を上気させて見上げる花のはにかむ笑顔が可愛くて、ルークは目を細めると、もう一度唇を触れ合わせた。
先程よりも、少し長く、深く。
それでもこれ以上を求める訳にはいかず、ルークは湧き上がる衝動を必死に抑えつけて花からわずかに離れると、懸命に頭を切り替えようとした。
「――何か……良い物は買えたのか?」
どうにかルークの口から出てきた適当な問いに、花は顔を輝かせて頷いた。
「はい。露店ですごくかわいい猫の文鎮を見つけました」
「そうか」
嬉しそうに話す花に、ルークもホッと胸を撫で下ろして微笑んだ。
「黒色と白色でどちらにしようかと迷って、結局ふたつとも買ってしまったんですが、ルークはどちらの色が好きですか?」
「……黒……だな」
「では、黒色の猫がルークへのお土産で、白色を私の物にします」
少し考えて答えたルークへ向けた花の笑顔は喜びに満ちている。
「……かわいい猫の文鎮を?」
「はい! すごくかわいい猫です」
「……そうか」
あの時の花の悩みがルークへのお土産選びの為だったとランディ達が気付いていれば、微笑ましくは見ていられなかったかも知れない。
だが、ルークに出会うまで男性と付き合った事もなければ、恋をした経験もない花が、それでも精いっぱい頑張って選んだのだ。
ルークは花の艶やかな髪を指に絡ませながら、くすぐるように淡く染まった頬に触れて、感謝の笑みを浮かべた。
「……どんな物か、楽しみだな」
自分がその文鎮を使っている姿を見て、いったい何人の政務官達が驚くのかもルークは楽しみになった。
と、馬車が停止し、ルーク側の扉が開いてレナードが顔を覗かせた。
「陛下、ハナ様、お疲れ様です」
ルークの手を借りて馬車から下りた花が目にしたのは、家庭的な雰囲気の邸宅。
そこで出迎えるように立ち並んでいたセレナとアレックスが、ルークと花を前にして深く膝を折った。
「陛下、ハナ様、ようこそお越し下さいました」
ゆっくりと進んだ花達の馬車を追い抜いて、皆は先に到着していたらしいのだが、それにしてもこの二人の対応はひょっとしてと思った花の耳に、勢いよく開かれた扉の音が聞こえた。
驚いた花がそちらへ視線を向けると、玄関から飛び出して来た壮年の女性が急ぎ駆け寄ろうとし、そして転んだ。
「あっ!」
「お母様!!」
思わず上がった花の声に、セレナの声が重なる。
どうやらここは、セレナとアレックスの実家であるらしかった。