2.噂の人々。
「へっくしょいっ!!――って、申し訳ない」
主だった政務官達が集まり各国への対応を協議している最中、盛大にくしゃみをしてしまったレナードはすぐに謝罪の言葉を口にした。
そんなレナードにディアンが爽やかに微笑みかける。
「おや、レナード――」
「俺は風邪でもないし、バカでもない。……はずだ」
何か言いかけたディアンをレナードは勢いよく遮ったものの、その言葉はどこか頼りない。
「もちろん貴方は大丈夫ですよ、レナード。本物の馬鹿とは何か、これを読めばすぐにわかりますからね」
ディアンがなぜかレナードを励ましながら指し示したのは、円卓の上に並べられた各国王からの親書。
こちらからの返書を待たず焦れたように何度も届くその書簡は、一国を除いたどの国も大した代り映えのない内容であり、サンドル王からのものに至っては痛々しいほどであった。
この度の‘軍事演習’について、事前通達が行き違いで成されなかった為に起きた誤解に関する釈明。
また、ルークと花がユシュタルから祝福を受けた事への祝辞。
しかし、何よりもルークやディアン達を失笑させたのは、その祝賀の為に名代として王女を遣わすとある事だった。
「ここまで厚顔な態度を見せられると、怒るのも馬鹿らしく呆れ果てますね」
セインが珍しく冷めた声で吐き出すように呟く。
「こいつら馬鹿には学習能力ってものはないのかよ」
顔をしかめたレナードの嫌悪もあらわな言葉を聞いて、ディアンは再び爽やかに微笑んだ。
「レナード、その認識は間違っていますよ。馬鹿に学習能力がないのではなく、学習能力がないから馬鹿なんです。ですから貴方はやはり間男ということで」
「なんでだよ!?」
とまあ、いつものやり取りを挟んで息抜きをしながら、各国への対応は決まっていった。
**********
翌日、ルークは昼食を花と一緒にとる為に青鹿の間へ訪れた。
「ハナ、体調は良いか?」
「はい、陛下。ありがとうございます」
嬉しそうに答える花のお腹に添えた手に手を優しく重ね、ルークは柔らかな頬に口づけた。
最近の花はとにかくよく眠り、朝晩はまともに顔を合わす事が出来ないので、ルークはこうして昼間に時間を作るようにしているのだ。
「あまり無理はするなよ。公務なんてものはいくらでも中止して構わないからな」
「わかりました。でも、皆様とても気を遣って下さいますし、少し緊張はしますけど、それがまた楽しかったりするんです」
「そうか。なら、いいが……。すまないな」
「私は大丈夫ですから、気になさらないで下さい」
顔を曇らせるルークに花は微笑んで応えた。
花がルークの正妃となった事でその立場は確固たるものとなったが、マグノリア皇妃という地位には当然の事ながら義務も付随する。
今までは側室――愛人のようなものだったので、暇を持て余すほどに王宮内で自由に過ごせていたが、この先は皇妃――公人として責任ある立場になったのだ。
それでも義務を果たす事で少しでもルークの負担が減るのなら、花にとってこれ以上に嬉しい事はなかった。
とは言っても、今は花が妊娠中である為にしばらくの間はのんびりと過ごす事ができ、安定期に入ってからも公務の内容はかなり考慮されている。
せいぜい三日に一度、何かしらの人物と王宮内で面会する程度なのだが、それでもルークは心配で仕方ないらしい。
お腹の子は順調に育っていると、毎朝行われる検診でも医師から言われており、花はほんの少しふくらんだお腹に手を添えて、幸せに微笑んだ。
「……嬉しそうだな?」
食事を終えて二人きりになった居間で、お茶を飲みながらルークが問いかけた。
「はい。えっと……実は今朝、お医者様から聞いたんですが……」
「どうした?」
微笑む花の頬は淡く染まり、喜びに輝いているのだが、ルークは心配そうに眉を寄せた。
検診結果はルークも毎日報告を受けており、今朝も特に異常はなかったはずなのだ。
「あ、いえ……悪い事ではないんです」
花はルークの反応に少し困ったような顔をしたが、すぐにまた明るい口調で続けた。
「それがなんと、妊娠中はお腹だけでなく、胸まで大きくなったりするそうなんです!」
「……は?」
相変わらずの予想外な言葉に脱力するルークだったが、夢見る花は気付かない。
もちろん個人差がある事も聞いたのだが、花は希望に胸を膨らませていた。……今はまだ希望だけのようだが。
「ついに私にも谷間が出来るかも知れません!」
「……そうか」
「そうなると、ルークも嬉しいですよね?」
「は?……いや……まあ、……そう……か?」
花の無茶振りにルークは答えを詰まらせた。
まさか今この場で試される事になるとはルークも思っていなかったのだ。……何を試されているのかはよく分からないが。
ただ女心が複雑怪奇なものだという事だけは知っている。
「………ハナ」
「はい?」
「白凰の間の準備が整ったらしいな」
結局、勇気ある撤退を決断したルークの少々苦しい話題転換に、花は素直に頷いて応えた。
「ソフィアがすごく手をかけて下さって、とても素敵なお部屋になったんですよ。ただ、こちらを出るのはちょっとだけ寂しいですね」
近々、花は皇妃の間とも呼ばれる白凰の間に移る予定であった。
この世界に来てからずっと暮らしていた青鹿の間には愛着もあるのだが、それ以上の理由もなく慣例に逆らうのは得策ではないからだ。
「そうか……」
正妃になったらなったで、色々な弊害が生じる事に、ルークは申し訳なさそうに微笑んだ。
「ではもう行かなければ……。ハナ、あまり無理をするなよ」
「はい。あ、あの……」
立ちあがったルークが差し出した手を取り、花はぎゅっと握った。
「ハナ?」
わずかな戸惑いと心配に滲んだルークの金色の瞳を見上げて花はゆっくり立ち上がると、そのままルークに抱きついた。
「私は今、すごく幸せすぎて、幸せなくらい、幸せなんです」
この満ち足りた気持ちを伝えたい。そしてルークの心配を消してしまいたい。
そんな花の想いはルークの心をあたたかく満たしていく。
「……幸せが多いな」
「溺れるほどに溢れてますから」
「そうか……」
今度はルークも幸せに微笑むと、少し長めのキスをした。
それから微かな丸みを帯びた花のお腹を優しく撫で、ルークはそっと離れて消えた。
**********
夕の刻前、最近の習慣になったお昼寝から目覚めた花は、のんびりと居間のソファに座って図書館から借りてきた本を読んでいた。
と、ある記述にふと目に止めた。
「――あぉっ!?」
突然上がった花の声に、セレナとエレーンが心配して駆け寄る。
「ハナ様!?」
「如何なされました!?」
「だ、大丈夫です!! すみません!!」
慌てて謝罪した花は、胸を撫で下ろした様子の二人に申し訳なく思いながらも、今すぐ気になる質問を口にした。
その後しばらく、花は得た答えに悩んでいた。
だがやがて、無意識にお腹を撫でながら強く決意を固めると、エレーンが席を外した時に、セレナへと声を掛けた。
「セレナ、お願いがあるのですが……」
「はい、何でございましょう?」
「明日か明後日の時間がある時に、東のサロンでお会いしたいと伝えて欲しいの。――ディアンに」