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23.本当に、ありがとう。


「へっくしゅ!――あっ!!」


「ハナ!? どうした!?」


「だ、大丈夫です!! 何でもないです!!」


 食後のお茶を二人きりでゆっくりと楽しみながら、その日にあったことなどを話していた時に思わず出てしまった花のくしゃみ。

 心配して立ち上がったルークに、花は慌てた。

 予定日も間近に迫っている最近、ルークはとにかく心配で仕方ないらしく、ちょっとした花の言動にも過敏に反応するのだ。

 花はそんなルークに、申し訳ないような嬉しいような複雑な心境になるのだが、たった今現在は違った。


――― こ、これが噂の……アレ……。


 顔を赤くして俯いた花は、かなり困惑していた。

 くしゃみをした反動か、お腹は張っていて少し痛い。

 それよりも問題は、妊娠後期に起こりやすいと聞いていたアレである。

 ルークにはとてもではないが、恥ずかしくて言えない。というか、絶対に知られたくない。

 なんとか誤魔化さなくてはと思いつつ、花は苦笑いを浮かべた。


「あ、あの……ちょっとお手洗いに行ってきます」


 そう言って、ルークが手を貸そうとする前に、テーブルを支えによいしょと立ち上がった花だったが――。


「あっ!!」


「どうした!?」


 その場に俯いて立ちつくす花に、ルークはテーブルを回り、急いで駆け寄った。


「ハナ?」


 何があったのかと、恐る恐る呼びかけたルークを、花はどこか呆然とした様子で見上げた。


「は、破水した……みたいです」


 この時のルークの表情を、花は生涯忘れないだろう。

 超絶美形でもこんな顔をするんだなとか、それでもやっぱり格好いいな、などと思っているうちに、花は落ち着いてきた。


「あの、ルーク? 大丈夫ですか?」


 すっかり固まってしまったルークは、花の声にようやく我に返ると、こくこくと頷いた。


「ハナは……大丈夫か? 俺は何をすればいい?」


 花が今にも壊れてしまうのではないかとでもいうように、ルークは小さな声でそっと問いかけた。


「とりあえず……セレナ達を――」


 花が言い終える前に、ルークはセレナ達を呼ぶ為に、わずかな距離を転移した。

 側近くで大声を出せば体に障るのではないかと恐れたのだ。

 そして、花から目を離さないまま、控室の扉をノックする。

 セレナ達は、花の妊娠がわかってからというもの、いざという時の対処法をしっかり学んでいたので、そこからはあっという間だった。

 その後は医師達が駆け付けるまで大した時間もかからず、花はルークに抱えられて寝台へと運ばれた。

 しかし、そこからが長かった。

 望むように順調にはなかなか進まず、花は断続的に起こる痛みに耐えるしかなかったのだ。



「ルーク……」


「どうした? 俺は何をすればいい?」


 花の腰をさすりながら、ルークは優しく問いかけた。

 もう何度口にしたかわからない言葉。

 どんなに魔力が強くても、治癒魔法を扱えても、この時ばかりは何の役にも立たない。

 ルークは自分の無力さに腹を立て、打ちひしがれていた。


「……どうか少しでも休んで下さい」


 微笑む花の手を握り、ルークは首を横に振った。


「俺は大丈夫だ。ハナは眠れそうか? 何か口にするか?」


 花は何も応えず、目を閉じてゆっくりと息を吸い、またゆっくりと吐き出し始めた。

 痛みを逃す為の呼吸法だ。

 もう丸一日以上も繰り返されているが、その間隔もようやく短くなっていた。

 ルークの手を握る花の手に、かなり力が入る。

 だが、そんな痛みなど、花の苦しみに比べれば、大したことなどない。

 ルークは花の額に滲む汗をぬぐってやった。

 そこへ助産師が現れ、触診すると穏やかに告げた。


「陛下、そろそろですので、ご退室頂きたいのですが……」


「しかし……」


 通常、ユシュタールでは出産に男性が、しかも皇帝が立ち合うなど有り得ない。

 それでもためらうルークに、花は柔らかに笑んで自信を見せた。


「陛下、私は大丈夫ですから、任せて下さい」


「……わかった」


 花の精いっぱいの強がりに、ルークは頷くと、汗ばむ額にキスを落とし、その場の者達に、そして花に全てを任せて部屋から出て行った。

 表の居間では心配に顔を曇らせるレナードやセインが控えており、ルークが目で合図すると、ソフィアが花の許へと勢いよく駆け付けて行った。


 永遠とも思える時間、ルークは黙ったまま、窓から夜空を見上げていた。

 その手は固く握られている。

 夜の静けさの中で、王宮だけでなく、マグノリアの民全てが、花と産まれてくる子の無事を祈っているようだった。



 かすかに聞こえた声に、ルークはハッと振り向いた。

 今まで声を洩らすことのなかった花の、痛みに耐えかねたような小さな悲鳴。

 と同時に、騒然とする気配が伝わり、ルークは急ぎ寝室へと足を向けた。――瞬間、力強い産声が上がった。

 一気に場の空気が明るくなる。

 そして寝室から、顔をほころばせたソフィアが現れた。


「陛下、おめでとうございます! とてもお元気な若君でございます!」


「ハナは!?」


「はい。ハナ様もお疲れになってはおられますが、お体に障りもなく、若君のご誕生を大変お喜びになっておられます。お会いになるのは、もうしばらくお待ち下さいませ」


「そうか……」


 嬉しそうに報告するソフィアに応えはしたものの、ルークはその場に佇んだまま、動くことが出来なかった。

 その背をレナードが強く叩く。


「陛下、おめでとうございます!」


 セインが感極まった様子で祝いの言葉を述べると、ディアンが続いて深く頭を下げた。


「陛下、皇子殿下ご誕生、心よりお祝い申し上げます。私はこの喜びの報を、待ち望む者達に伝えて参りたいのですが、よろしいでしょうか?」


「――ああ」


 ディアンが白凰の間から出て幾分もしないうちに、今までの静けさが嘘のように、王宮中が喜びに沸いた。

 それはサイノスの街へ、国中へと広がっていく。

 これから皇子生誕祝いは国を挙げて行われ、一カ月以上も続くことになるのだった。



*****



「ルーク?」


 花は部屋に入ってきたルークに気付いて目を上げた。

 その顔は疲れてはいたが、喜びに輝いている。


「ハナ……」


 伝えたいことはたくさんあるのに、言葉が全く出てこない。

 ルークは身を屈め、言葉の代わりに気持ちを込めてキスすると、花の枕元にある椅子に腰を下ろした。


「赤ちゃんにはもう会いましたか?」


「いや、まだだ」


 赤ん坊の元気な声は聞いた。

 だから早く、花の元気な姿を見たかったのだ。

 その願いが叶えられ、ほっと安堵したルークに、次の願いが叶えられた。

 助産師が身を清めた皇子を連れて戻って来たのだ。

 急いで起き上がろうとする花を、ルークは慌てて支えた。


「大丈夫なのか?」


「はい」


 花はしっかり頷いて、近付く助産師を満面の笑みで迎えると、息子へと手を伸ばし、慎重に抱き寄せた。

 助産師が静かに離れると、ルークは花の腕の中を覗き込んだ。

 息子との初対面である。


「……俺とハナの、息子……リューイだ」


「はい」


 声を詰まらせながらも、ルークが息子の名を呼ぶと、花が嬉しそうに応えて、その名を繰り返した。


「リューイ」


 優しい声音で呼ばれたリューイは大きな目をぱちりと開けて声のする方へと、花をじっと見た。

 はっきりと目には映らなくても、やはり母親がわかるのだろう。


「瞳が……碧色です」


「ああ、俺の幼い頃と同じ色だな。きっと……強い魔力を発現すれば、色も変わるだろう」


 少しだけ悲しげに言うルークに、花はあたたかな笑みを向けた。


「私は、ルークの瞳の色も、リューイの瞳の色も、どちらもすごく綺麗で大好きです。それに髪の色もすごく綺麗……」


 新生児特有の細く柔らかな、淡い金色の髪に、花はうっとりとして呟いた。


「俺にばかり似てしまったが、耳の形はハナに似ているな」


「そうですか?」


 耳の形は自分ではわからない。

 花は首を傾げながらも、ほっと息を吐いた。


「とにかく、鼻が私に似なくて良かったです。もし私に似てしまって、『ハナペチャ皇子』なんて呼ばれたらどうしようって思ってたんですよ」


 花は本気で心配していたらしく、今は満足げにリューイを見つめている。

 その姿に、ルークは思わず吹き出した。


「笑いごとじゃないです」


 少し拗ねたように言った花は表情を和らげて、ずっと大人しくしているリューイを抱き直した。


「ルーク、リューイを抱いてあげて下さい」


「……大丈夫だろうか?」


「もちろんです」


 微笑んで応えた花は、恐る恐る手を伸ばすルークへとリューイを預けた。

 二人の慣れない手つきに、助産師が助けに入る。

 居心地が悪かったのか、もぞもぞと動く息子にルークはうろたえたが、やがて大きなあくびをして目を閉じてしまった。


「……豪胆だな」


「ルークの腕の中は安心できますから」


 花は幸せそうに二人を見つめている。


「……小さいな」


「はい」


「……可愛いな」


「はい!」


 花の返事があまりに元気良かったせいか、リューイがびくっと大きく反応した。

 慌てて花は自分の口を押さえ、ルークは息子が泣き出すかと身構えたが、どうやら大丈夫だったようだ。

 しかし、そのことを合図にしたように、助産師が遠慮がちに近付いてきた。


「陛下、そろそろハナ様にお休みして頂かなければ……」


「そうだな」


 ルークは応えると、助産師にリューイを預ける前に、花へと身を寄せた。

 花が名残惜しそうに、リューイに触れる。


「ハナ様、今夜はゆっくりお休みになって下さいませ。明日からはしっかりと、殿下のお世話について指導させて頂きますから」


「わかりました」


 花が大きく頷くと、助産師は優しく微笑んで、乳母の控える隣室へとリューイを抱いて去って行ってしまった。

 そして、部屋に二人きりになると、ルークは花に軽くキスをして立ち上がった。


「ハナ、休む前にもう少しだけ時間をくれ」


「ルーク?」


 ルークは窓辺へ歩み寄ると、さっとカーテンを開け、不思議そうに問いかける花へと振り向いた。


「今夜は満月だ」


「あ……そうでした」


 窓の外に浮かぶ、美しい満月を見上げて花は呟いた。

 ルークは笑いを洩らして花の傍へ戻ると腰を下ろし、その華奢な手を握った。


「ちょうど一年前の今日だ」


 金色に輝く満月のようなルークの瞳を見つめたまま、花は小さく息をのんだ。

 花が初めてルークに出会った日。神様にお届けされて、暖炉に落ちたあの運命の日。


「ハナ、ありがとう。俺を……救ってくれて、傍にいてくれて、リューイを産んでくれて。ハナの全てが俺の全てだ。……本当に、ありがとう」


「ルーク……」


 ルークは握った手に、指輪にキスすると、涙が流れる花の柔らかな頬に口づけ、唇を重ねた。

 大きな感謝と深い愛を込めて。


 花とルークが愛を育んだ奇跡の一年は、二人の幸せに満ちた人生のほんの序章。

 ここから始まるのは、残念な親バカ物語。


 両親からたくさんの愛を受けて育ったリューイ――リュウイチロー(龍一郎)は、弟妹達と共に、父親譲りの強大な魔力と母親譲りの癒しの力によって、ユシュタールに更なる発展をもたらした。

 そして今日も、マグノリア王宮にある月光の塔からは、ピアノの美しい音色が響き渡り、世界を希望で満たしている。







 ここまでお付き合い下さり、ありがとうございました。

 この物語にエピローグはありませんが、これでひとまずは終わりです。

 本当に、ありがとうございました。

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