1.街の人々。
「お疲れのようだねぇ」
久しぶりに訪れた疲労の色濃い顔の常連客二人に、食堂のおかみさんが同情の眼差しを投げてよこした。
と同時に、ドンっとジョッキを二つテーブルの上に置く。
それを男達は訝しげに見た。
「私達は頼んでないぞ?」
「これは王宮で頑張って働くあんたらにおまけだよ。今は色々と大変なんだろ?」
「ああ……。すまないな」
「有り難く頂くよ」
男達はおかみさんの言葉に納得がいったように礼を言い、それぞれジョッキを受け取った。
ここの所、多忙を極める王宮内で下官として働く男達は、ようやく仕事が一段落ついたので街で飲もうと足を運んだのだ。
「だが、どうってことはないさ。こんなに喜ばしい事は祝わないと!」
一方の男がジョッキを掲げて声を張り上げると、食堂の皆が応えてグラスを持ち上げる。
「皇帝陛下と皇妃ハナ様に乾杯!!」
「乾杯!!」
あの奇跡の日からもう二カ月(四十日)以上が経つのだが、このようにルークと花を讃える声は至る所で上がっていた。
それはサイノスの街だけでなくマグノリア中の食堂や各家庭で見られる光景であった。
「こんなにめでたい事はねえよ」
「やはりハナ様はユシュタルがお遣わしになられた方だったんだなあ」
などと、食堂の客達が口々に話し始めた。
その顔は喜びに溢れ、希望に満ちている。
「しかも、ハナ様はご懐妊中だって聞いたぜ?」
「ああ、その御子様もユシュタルの祝福を受けられたんだってよ」
「本当かよ!? じゃあ、祝福を受けた方が三人もいらっしゃるってことか?」
「そうなるな。本当に奇跡ってあるんだよなぁ……」
「一時期はどうなる事かと思ったが……」
次第に賑やかだった食堂は静かになり、皆が不安に囚われて過ごしていた日々を思い出していた。
ほんの一年前までは、勢いづく虚無に怯え、先の見えない暮らしをしていたのだ。
そして始まったセルショナードとの戦――センガルの凶報は皆を怒りと悲しみの淵に突き落とした。
そこに起きた奇跡。
あの満月の夜の出来事はマグノリアの民の心に今でも深く刻まれている。
「もしハナ様がいらっしゃらなかったらと思うだけで、ぞっとするよ」
一人の客がぶるっと震えながら発した言葉に、皆も黙って頷く。
少し重くなってしまった場の空気を変えようと、おかみさんが明るい声を上げた。
「ハナ様の歌声も楽の音も、本当に素晴らしいものだからねえ。ちょっと怖い思いもしたけど、あたしはこの時代に生まれて幸せだよ!」
今度は皆も笑顔になって大きく頷き、そこからはいつもの活気溢れる陽気な食堂へと戻った。
その中で、誰かの期待に満ちた声が響く。
「なんでも、ハナ様は絶世の美女なんだってなあ」
と、「ぶほっ!」と店の奥にいた若い男が飲んでいた酒にむせた。
「大丈夫かい!?」
おかみさんが慌てて布巾を持って駆け寄り、向かいに座っていた男が立ち上がってその男の背を叩く。
しかし、それくらいは店ではよくあることなので、客達は気にも留めない。
「そりゃそうだろ? 陛下には今まで何度も、王女様やら貴族のご令嬢やらをお妃にって話があったのに全部断っていらしたんだってよ。それが、ハナ様は一目で気に入られてご側室になされたんだから」
「ああ、女嫌い……の皇帝陛下って噂されるぐらいだったからな……。だがこうして、ハナ様をお選びになったんだから、やっぱりさすがだよ」
「まったくだな」
「以前、南の市場に陛下とハナ様はお忍びでいらっしゃったんだよなあ。そのお姿を見た奴が、ハナ様は眩しいほどに輝いてらして、すげえお綺麗だったって言ってたよ……。ああ、くそ。俺も見たかったなあ」
「お歌を間近で聴けた奴らはほんと、ついてるよ……。なあ、あんたらは王宮で働いているんだから、やっぱりハナ様のお姿を見た事があるんだろ?」
酒のせいなのか、憧れのせいなのか、おそらくそのどちらもであろう上気した顔を下官達に向けて、男が問いかけた。
「そりゃ、もちろんあるさ。私は二度お見かけしたぞ」
「私は三度だ」
下官達はどこか誇らしげに答えた。
「へえ? やっぱりすげえな。で、どんな方なんだ?」
客達もおかみさんも、調理をしていた店主までもが興味津々の様子で注目すると、下官は軽く咳払いをしてゆっくり口を開いた。
「……当然ながら、お近くでご尊顔を拝する事は叶わないが、王宮内を散策なされているお姿を幸運にも三度、遠くからお見かけした」
「で、どうだったんだよ?」
一旦言葉を切った下官に焦れて男が急かす。
「それはもちろん……とてもお綺麗な方だよ」
ようやく答えを得た皆は、「おお!」「やっぱり!」などと感嘆の声を上げていたが、奥の席に座っていた若い男二人だけはなぜか無言で壁を見つめていた。
「まあ、正直に言えば、お顔はよく見えなかったんだよ。だが、あの輝かしいお姿は内面から滲み出る美しさだろうな」
「……ああ」
下官が付け加えた言葉に若い男達が小さな声で同意したが、その事には誰も気付かない。
もう一人の下官が話し始めたからだ。
「まあ何せ、私のような魔力の弱い者でもわかるほどに、ハナ様は陛下の御気を強く纏っていらっしゃるんだ。しかも、陛下の御気はこう……威圧感がすごくて、正直なところ恐怖さえ感じてしまうんだが、どういう訳かハナ様が纏ってらっしゃる陛下の御気は柔らかくて温かいんだよな」
嬉しそうに語る下官達の話を聞いて、店の者達は皇妃像に更なる期待を抱いてしまったようだった。
そこにおかみさんが、空になったジョッキに酒を注ぎながら新たな質問をする。
「――それで、王宮も少しは落ち着いたのかい?」
「そうだなあ……。今回の騒動に多少なりとも関与していた者達はみんな処分されたから、人手がとにかく足りなくて……と、本来なら言う所だろうが、残った者達だけでも意外と回せるんだよ。……まあ、そんな感じだ」
実際、数ヶ月前に政務官達が刷新されてから仕事の効率はかなり上がっていた為、表立った混乱は起きていなかった。
むしろ今回の事を前もって見越していたのではないかと思える程なのだ。
だがさすがに下官達がそれらの内情までを口にする事はなく、皆もそれで満足したのか、また別の噂話に興じる。
「それにしても、かなりの温情だよなあ。普通は謀叛に加担した者だけでなく、その親類縁者、屋敷に仕える者達まで死罪だろ? それが断罪されたのは首謀者達だけで、家族までは大した罪を問わなかったとか……」
「まあそれでも、爵位はお取り上げ、領地もわずかばかりを残して没収となれば、温室育ちのお貴族様にはとんでもない痛手だろうさ」
「ああ、甘やかされてたんだろうなぁ」
「結局、今回の騒動はなんだったんだ?」
「それがよぉ、悪い魔術師が原因だったんだってさ。とても強い力を持った」
「おお、なんでもサンドル王国を乗っ取ろうとしてたって。それで王太子殿下が陛下に助けを求められたんだろ?」
「そうそう。そこで陛下とハナ様が御力を合わせられて、その魔術師を倒したんだってよ」
「へ~!」
「……」
いつの間にか民達の間で広がり始めた、少々安っぽい、それでいてお伽噺のような夢物語。
だが事実を知る者達は口を閉ざし、どこかかゆみを堪えているような微妙な表情をするだけだった。
もちろん、全ての真相はごく一部の限られた者達によって秘められている。
「それであの鐘の音だよ。献身的なお二人の偉業にユシュタルが御心を打たれてお姿を現しになったそうだぞ」
「すごいよな、ユシュタルがお二人を祝福なされたんだ。あんな奇跡まで起きるとはなあ……」
誰かのしみじみとした呟きに、今度は厳かな空気が店の中に流れた。
「……だが結局、サンドルの王太子殿下はお亡くなりになったそうだな」
「ああ、お気の毒になぁ」
「あそこは確か、王様もずっと床に臥していらっしゃるんだろ? 次の王様は誰になるんだろうな?」
「それが、継承権の順だと次の王はディアン・ユース侯爵らしいぜ?」
「ええ!? じゃあ、宰相様はサンドル王国に行かれるのか!?」
「さあ、それはどうだろうな。だが、どっちにしろ悪いようにはならねえよ。宰相様はとても慈悲深くてお優しい方だって――」
皆の会話は「ブハッ!!」と、店の奥から聞こえた音に途切れた。
先程の若い男とその連れであるもう一人が飲んでいた酒を勢いよく噴き出し、そのまま激しくむせているのだ。
おかみさんがまた布巾を持って駆け寄るが、二人は涙まで流して苦しんでいる。
そうこうしているうちに、下官達が代金を置いて立ち上がった。
「……酔いも醒めたし、もう帰るよ」
「なんだかどっと疲れが出たしな……」
酔いが醒めたというより、悪酔いしているのではないかと思えるほどに下官達の顔色は青かった。
そして皆の「気をつけて帰れよ」との言葉を背に下官達は帰宅の途につき、しばらく後に未だ咳き込みながら若い男達も食堂を後にした。
「……噂って恐ろしいもんだな」
「まったくな……。だが、ハナ様はとてもお可愛らしい方だよ」
「当然だろ? ただちょっと……驚いただけだ」
「……そうだな。それにしても……」
「俺、今かなり動悸が激しくて報告書を作成する体力がない……」
「ああ、俺も……。よし、明日にしよう。少し落ち着いた方が俺達にも、レナード隊長にも優しい報告書になるだろうしな」
「だよな……」
と、励まし合うようにお互いの肩を叩き、若い男達――近衛騎士の二人は隊舎へと戻って行った。