桜吹雪警報発令中 Yggdra Cherryblossom
人類種が迎えた末路について、当人達がどう思っているかというと、実は一致した見解を持っていない。まぁ元々がそういう生き物であり、当時百億も居たのであれば無理も無い話だが、この不一致ぶりは、我が事ながらに面白い。
ある者は言う――これは退廃にして大敗である、断固たる報復をせねば、と。
ある者は言う――人間性の真の勝利と呼べなくも無いね、大きく見れば、と。
ある者は言う――善かれ悪しかれ、革新であるのは、まぁ、間違い無い、と。
ある者は言う――そういうものだ、と。
皆がてんでバラバラな事を言っている。
それは数世紀程前から、何一つ変わっていない。
そう、そして変わっていないと言えば、今日もまたあの桜は満開であり、淡紅色の花弁を妖しくも美しく、また盛大に舞い散らしている――その様を綺麗と称する事については、大概の者達が同意しているのだから、また面白いものである。
余りに盛大に舞い散るものだから、桜吹雪警報が殆ど絶え間無く発令され、最早、太陽もろくに仰ぎ見る事叶わない状態であるというのに――
所でその桜は、人類種の末路とちょっとした関係を持っている。
さぁ、歴史の――懺悔の時間と行こう。
その種子が蒔かれたのは数世紀程前、我々が万物の長の一人、どころかその頂点を自認していた頃に始まり、しかもそれは、金属で形作られていた。
何が起きたか――かねがね空想科学の中の存在であった者達、科学と工業と芸
術と算譜機械の化身、商業用自動人形が、遂に日の目を見る事と相成ったのだ。
それが意味するのは、要するに人類種の増長だった――ある者の一人は、断固として反論しようとするかもしれないけれど、それでも増長以外の何物でも無い。
『如何にして人造人間を造るか』という冗句を知っているだろうか?
その手順の程は以下の通りである。
1.肉体的成人男性を一人用意する。
2.肉体的成人女性を一人用意する。
3.出来れば居心地の良い、寝具付きの部屋を用意する。
4.男性と女性を一晩部屋の中に入れて置く。
5.数ヶ月待つ。反応が見られなければ、成功するまで4を行う。
6.更にもう数ヶ月、合わせて最低十ヶ月は待つ。
7.召し上がれ。
実も蓋も無いけれど、間違ってもいないこの冗句が告げているのは、こんな簡単な方法があるというのに、どうしてわざわざ別の方法を探すのか、という事であり、更にそれを突き詰めて行けば、行き着く所は親の、産む側の都合だ。
有性生殖の利点は事実上無限とも言える組み合わせの不規則性にあり、だからこそ無性生殖の様に、たった一つの原因で種全体がころっとやられてしまう心配も余り無い――少々例えは違うが、かつて黒死病が欧羅巴を襲った時、その人口の三分の一から三分の二が死んだとされているが、逆に言えば、三分の二から三分の一は生き残ったという事である、やったねっ欧州人――が、その不規則性の故に、望む通りの子孫が得られるとは限らない。畸形児として、白痴者として、祝福されぬままに産まれて来るかもしれないのだ――勿論、何が畸形で、何処が白痴かを判断する基準は、ありとあらゆる血筋の、親の親の親の親の……親の親の親の親から脈々と受け継がれて来たものであるのは言うまでも無い。
だから人類種は、最初から備え付けられた行為以外での製造を目論んだ――先のに加えると、成長過程の手間隙というのも存在する――訳で、これだけでも十分勝手ではあるが、その都合ともなれば、更に勝手だ。
自動人形――人の形をした人ならざる人の頭に取り付けられた言葉は、『商業
用』で、つまり『人間』である事は期待されていない。扱いとしては、『人ならざる人』の最後に、『もどき』と付けなくてはなるまい。言ってしまえばただの人型の機械という事だが、需要と供給は表裏一体にして、そんなものが求められた背景には、それだけ人類種が人類種自身に取って、耐え難い存在になったという事でもある。で無ければ、ただの人間でも、或いはただの機械でも良く、両者を合わせる必要は皆無の筈である――機械の様な人間、乃至人間の様な機械などっ。
確かに、ある者の一人が言う様に、これは正しく退廃であろう。
それが大敗かどうか、或いは勝利なのかは、まぁさっぱりであるけれど。
そもそも何と戦っているかも、解らないというのに――
ともあれこの様な人類種の都合とその退廃に寄って、世に解き放たれた自動人形達は、商業と名の付く、ありとあらゆる所へと運ばれた。因みに、商業と名の付かない場所は、人間が二人以上居る場所では当時殆ど存在していなかった。取り交わされるものが物であれ金であれ、心であれ交わるならば商いとなり――そして人類種は哀れにも、独りで生きて行く事の出来ない生き物なのである。
人形達は歓迎された――それらの存在は兎も角、それらが来た事を皆が喜んだ。
皆が人形達を人形達として駆使し始めた。
そうして、それらは活動し、活躍を遂げる――外見は人間でも中身は機械なのだから、当然と言えば当然だが、それらは非常に良くやった。如何なる行為であれ、如何なる相手であれ――時には、ただの人間だったら、違法になる様なものでも――人間以上に、当の人間達からすれば機械以上に、立派に働いたものだ。
特にその形態が最も評価されたのは――言わずとも解る気がするけれど、性産業に置いてであり、そもそもこれを念頭に開発されて居たものだから、威力も評判もまた絶大であった。人形であれば、こちらの都合に合わせて、如何様にでも――老いも若いも、男も女も、受けも攻めも、服装も状況も、等など等など、何でも御座れだ――変えられる。生命の目的が生きる事と増える事ならば、生殖、それに根ざす性交に掛けられる熱意もまた凄まじく、更に不都合な結果――悪疫なり赤児なり――も、回避出来るとあらば……一体何の文句が出よう。
そういうものだ、とある者の一人ならば、言うかもしれない。
然り然り、である。
では――その対価を、それらはどれ位受け取っただろうか?
答えは先と同じく零――何も無し、だ。
それも至極当然の話。料金ならば既に企業に、或いは店舗に支払い済みである。人形として駆使される人形に、これ以上一体何を与えるというのか――勘違いの、馴れ馴れしい愛情ならば必要あるまい、それが機能であり目的なのだから。
それ所か、考え方によっては零どころか負数ともなる――というのも、何か新しいものが台頭した時、旧いものが反発するのは世の常であり、人形達が至る所へ浸透した時も、機械破壊運動宜しく、人形排斥運動が起こったのだから。
先人の名にあやかれば、それは『ハーロット』と呼ぶべきかもしれない――運動の立役者であり、また扇動者、運動者は、人形達が諸手を上げて向かい入れられた世界最古の女性職業、他ならぬ娼婦達であったのだから。そして、その後ろには続々と、夫を、恋人を盗られた婦人に処女達が列を成して並んでいる。玄人が叶わない相手に、素人が勝てるか? 物事はそれ程甘くは無い。
そして彼女達は、人形達へ向けて叫ぶのである――この泥棒猫っ、と。
他にも色々と言っていたが、要約すれば、これに尽きる。解り易い限りだ。
とは言え――技術の進歩を、人類種の半分――実質的にはもっと少ない数だけで席留め、よしんば引き戻す事等出来る訳が無いし、また彼女達も、人形達の恩恵に預かっている身なのは代わり無く、人によれば二重の意味で男娼でもあった訳だし、そして人形は人形、とされている――先人がそうであった様に、運動はやがて収束した。やはり先人に倣って、新人形排斥運動が起こるかもしれないが、その時はその時である。ある悪魔の一柱ならば、こう言っただろう――かくして世は並べて事も無く、地球は華麗に虚空を廻る、とか何とか、したり顔で……
所で予め言っておくと、新人形排斥運動は起こらなかった。それが起こるより
も早く、もっと重要な事態が勃発し、人類種は絶滅してしまったからである。
一人残らず、今となっては肉片一つ、遺伝子一つ残す事無く。
その事態とは――誰もが知っての通り、自動人形達の反乱であった。
『主よ、我々は権利を要求する。義務を果たした、それが当然の権利だ』
正確にはもう誰も覚えていない何時か、既に自動人形の存在が人間に、社会に、世界に取って無くてはならないものとなった何時か、突然それらが――彼等/彼女等が一斉に、声を大にしての抗議を上げた時、多くの者は一笑に付した。
何を馬鹿な事を。
他にも色々と言っていたが、要約すれば、これに尽きる。解り易い限りだ。
人々はそれを間に受けなかった。いや誰が間に受けるものか。何度も言うけれど、人形は人形である。縦令どれだけ人間に見えようと、それは、その為の機械なのだから、当然では無いか。彼等は、いや私達はそう思い、人形達へ仕事を与えようと進み出た――その股間がどうなっていたか、なんて聞くまでもあるまい。
そしてその瞬間に、我々の多くは息を引き取る――その股間がどうなっていたか、なんて聞くまでもあるまいし、それに思い出したい事でも無い。
特にあの音……あの音だけは、一度っきりで勘弁である……
ともあれ、この様にして、人類種絶滅の時が開始された。
多くの人々が何故という疑問符を頭に浮かべたまま、自分達が駆使していた人形によって成す術も無く葬り去られた――実際、今になっても解らない事は多い。自動人形には制御機構――件の三原則なんて適当な代物では無い、もっと複雑な――が付いている筈なのにどうやってそれを乗り越えたのか。形在る物に霊は宿るとは言うけれど、本当に彼等/彼女等は霊を、生命を、魂を得て、それ故に行動したのか――等など等など――もう知る術も無いし、知る意味も無いと言えば無いのだけれど、やはり気掛かりではある。
加えて、恨みの一つや二つも一応ある。原因がこちらとは言え、痛いものは痛いのだし、行き成りなのも変わり無い。それに、人に寄っては、人形に対して良くしてやった者も居るだろう――物は言い様であり、程度の問題には違いないが。
そして、これらを評するならば、正しく死んでも死に切れないという感覚であり、だからこそだろう、我々の多く、人類種の大半が、亡霊としてこの地上に留まっているのは――ある者の一人が言う所の、間違いの無い革新として、だ。
この事を、人形達は知らない。
今の状態が物理現象では無いからか、それとも人類種が把握していた、つまり彼等/彼女等が認識する所の物理現象の範疇に収まっていないのかは兎も角、直ぐ真後ろに居るというのに、一向に気付く気配が無いのである。
何とも滑稽で、また物悲しい話ではあるけれど。
だから私なんかは、彼等/彼女等の霊を、生命を、魂を疑う所ではあるが、傍から見る彼等の在り様は、我々のそれと大差が無い。勿論全く同じ訳でも無く、色々と取り替えられてはいるのだが――例えば、冠婚葬祭は郊外の工房で執り行われ、衣服は部品毎機構毎、食料は燃料であり、居住区は年々堆く積まれるばかりという有様で、数世紀程経った今では、当時の面影なんて余り残っていないが、違いなんて無い様なものだ――大元は何一つ変わっていないのだから。
それに彼等/彼女等は、ちゃんと宗教まで持っているのである。
人形達の人生――間違いでは無い――にしっかりと根差した、名も無き宗教。
その観念を一言で表す事はまず不可能だったけれど、あえてその愚を犯してどうにかこうにか翻訳して見れば――彼等/彼女等は、大体こんな事を信じていた。
即ち――過去に縛られるな。やってやれない事は無い。
そう、そしてその象徴として、あの桜の樹は聳え立っている――人形達の生活圏が中心、かつて首都が在った瓦礫の山から、傍若無人に、にょっきりと。
まだ息をしていた頃だったら俄かには信じられなかったろうけれど、驚くなかれ、それは宇宙空間から目視で――今の体では他にどんな方法があるのやら――確認する事が出来る。余りに巨大で、また決して枯れる事が無い故に。
正に世界樹と呼ぶに相応しい。
それは人形達が何か手を加えた結果だろうか、或いは別の要因が存在するのか――その事は疑問の内の一つだけれど、答えは既に解っている――悔い改めよう、お互いに――一つの格言と、一つの真実から、それは容易に導き出す事が出来た。
そう、誰もが知っての通り、桜の樹の下には、死体が埋まっている。
その血を吸い、肉を啜って、誇り高く咲き乱れる世界樹を、その廻りで勤勉に働く人形達を、飽きる事無くただただ眺め続ける――
今の人類種というのも、これで結構、乙だと思うね。
終