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めじるしの鈴

めじるしの鈴 梳ヶ峰の霜柱――置いていけなかった鞄に、わたしは付いていました

掲載日:2026/10/21

わたしは鈴です。


目はありません。ですから、音で見ています。


小指の先くらいの真鍮で、組紐に通してあります。組紐は赤いのだそうです。赤がどういうものかは、わたしには分かりません。


鞄の持ち手に付いていて、役目はめじるしです。持ち主は藤谷ちはるさんといいます。二十二の夏に、駅前の土産物屋でわたしを買いました。三百八十円でした。


その夏、ちはるさんは初めての一人旅で、鞄をなくしかけたのだそうです。それからは、旅先でも鞄を手放さない人になりました。走る前には、必ず一度、持ち手を握り直します。握り直されると、わたしは鳴ります。


歩いて揺れて鳴るのは、鳴ったうちに入りません。握り直されて鳴るのだけが、わたしの音です。


これは、買われてから四年たった秋の話です。ちはるさんは二十六でした。声と声のあいだを数えるようになって、二年目の秋でもあります。


梳ヶ峰という山へ行きました。麓の町からロープウェイで山の上の駅まで上がり、そこから砂利の道を三十分歩くと、山小屋があります。一晩泊まって、次の日に同じ道を下りる予定でした。


山へ行く人は、背中に負う袋に荷物を詰めるのだそうです。ちはるさんは、いつもの旅行鞄を提げていきました。


砂利の道で、ちはるさんは何度も鞄を持ちかえました。右から左へ、左から右へ。持ちかえるたびにわたしは揺れて鳴りましたが、それは数に入りません。走る前の握り直しとは、手の力が違うのです。


「その鞄で来た人は、初めて見ました」


小屋の戸を開けると、おかみさんがそう言いました。ちはるさんは、すみません、と言って笑いました。


小屋の中は、木の音がしました。床も壁も天井も木なので、声が少し遅れて返ってきます。真ん中にストーブがあって、薪のはぜる音がときどきしました。二十人ほど泊まれる小屋で、その夜の客は七人でした。


夕方、戸が開いて、聞いたことのない音が入ってきました。


鈴の音でした。わたしよりずっと大きくて、低い音です。背負った荷物に付いていて、一歩ごとに鳴っていました。


「中では鳴らさないでくださいね」


おかみさんの声のあと、その音は布にくるまれたような鳴り方になって、止まりました。


「明日、尾根に出るなら、最初の峰の手前に鎖場がありますからね。暗いうちは気をつけて」


おかみさんは、ついでのようにそう付け足しました。


熊鈴というのだそうです。山を歩く人が付けて、人がいることを熊に知らせるための鈴です。


ほかの鈴の音をそばで聞いたのは、そのときが初めてでした。


ここから先には、わたしに聞こえていなかったことも出てきます。ちはるさんは、旅から帰ると必ず誰かにその話をします。わたしは、聞いたぶんを聞いたとおりに置いておきます。


夕食のあと、ストーブのまわりに人が集まった。


ちはるの隣に座った男は、手ぬぐいで包んだ鈴を膝に載せていた。包んであっても、膝が動くたびに、くぐもった音が少しだけ漏れる。


「それ、苦しそうですね」


言ってから、しまったと思った。知らない人に話しかける癖がある。旅先でだけ出る癖だ。


男は膝の上を見て、手ぬぐいの上から鈴を押さえた。


「一日じゅう鳴ってたので。黙らされて、不満なんだと思います」


男は瀬尾と名乗った。梳ヶ峰の尾根を、四日かけて端から端まで歩いている途中だという。


瀬尾さんは、何か言う前に、膝の上の鈴を手で押さえる人でした。押さえるたびに、布の中で小さく鳴ります。声のあいだの空白は、最初は三秒ありました。


「下りるのは、どこからですか」


「反対側の町です。この小屋には、もう戻りません」


同じ道を二度は歩かない人なのだ、とちはるは思った。


瀬尾は、ちはるの足もとの鞄を見た。


「その鞄、山には向いてないですね」


「なくしたくないんです。一回、なくしかけたので」


「なくさないように持ってくると、手がふさがりますね」


責める言い方ではなかった。思ったことを、そのまま言う人なのだと思った。


「熊って、こんな上まで来るんですか」


「めったに来ません」


「じゃあ、どうして」


「熊よけって言いますけど、本当は、迷ったときのためなんです。霧で動けなくなったときとか。この音を覚えている人がいれば、探しに来てもらえる」


瀬尾は、鞄の持ち手のほうを顎で示した。


「そっちの鈴は、何よけですか」


「よけるためじゃないです。めじるしです。自分の鞄がどれか、分かるように」


「じゃあ、逆ですね。こっちは、人に見つけてもらうための鈴なので」


わたしのことを、何よけですか、と聞いた人は、あとにも先にもあの人だけです。


「覚えている人、いるんですか」


「いないので、困ってます」


真顔で言うので、ちはるは笑ってしまった。


空白は、二秒になりました。


「じゃあ、一回だけ。覚えておいてください」


瀬尾は手ぬぐいをほどいて、鈴を一度だけ振った。


小屋じゅうに響いた。奥のほうで、おかみさんが大きく咳払いをした。


二人は同時に吹き出した。


笑い声が重なりました。重なったのは、わたしの聞いてきたかぎり、二度目です。


その音を、わたしもそのとき覚えました。わたしより大きくて、低くて、鳴り終わったあとに少しだけ揺れが残る音です。


寝る前に、瀬尾さんが言いました。


「明日は四時半に出ます。最初の峰まで一時間です。朝日を見るなら、そこまでは一緒に歩けますけど」


空白は四秒ありました。


「起きられたら」


ちはるさんの語尾は上がりました。それがどういう意味なのか、あのころのわたしは、まだ知りませんでした。


布団に入る前に、手帳を開く音がしました。ちはるさんは字を書くとき口が動く人なので、こちらには分かります。


よじはん。


それだけ書いて、閉じました。


その夜、ちはるさんの息は、なかなか寝息になりませんでした。


二年前の夏、波守の桟橋で、三十六歩まで走って止まった。走ったぶんだけ、止まったあとが長かった。


手帳の表紙の裏には、今年も、命は短し走れよ乙女と書いてある。書き写したのは四回目だ。そう書いておきながら、起きられたら、と言った。起きなくても済むように言ったのだと、自分で分かっていた。


それなのに、さっき手帳に時刻を書いた。同じ道を二度歩かない人に、もう一度会う方法はない。明日の朝を逃せば、それきりだ。分かっているから書いたのだし、分かっているから怖かった。


四時半より少し前に、戸の開く音がしました。冷たい空気が入ってきて、小屋の中の音が一度、硬くなりました。


戸が閉まって、少しして、外で熊鈴が鳴りはじめました。


一歩ごとに一度、砂利を踏む音と同じ数だけ鳴って、小屋から遠ざかっていきます。


ちはるさんは、眠っていませんでした。息が、寝息の速さではなかったのです。


布団の中で、衣擦れの音が一度だけしました。それから、何も鳴りませんでした。


わたしは、熊鈴の数を数えていました。二十二回目で、ちはるさんが跳ね起きました。


それから、鞄に荷物を詰める音が続きました。寝間着をたたむ音、歯ブラシの音、手帳を入れる音。ファスナーが途中で引っかかって、開け直す音。


この朝いちばん長くかかったのは、その音でした。


熊鈴は、そのあいだにも遠ざかっていました。三百回を過ぎたところで、小さくなりすぎて、数えられなくなりました。


持ち手が、握り直されました。


ちりん。


戸が開いて、霜柱を踏む音がしました。そこから、走る音になりました。


砂利の道でした。走る足の下で砂利が鳴り、わたしは鞄の上で揺れどおしでした。揺れて鳴るのは、数に入りません。


しばらくして、前のほうから、あの音がまた聞こえてきました。一歩ごとに一度、少しずつ大きくなりました。


砂利が三百歩を越えたあたりで、熊鈴の音は、前ではなく、上から聞こえるようになりました。


金属の音が混じりました。鎖が岩に当たる音です。


ちはるさんの足が止まりました。


砂利は、三百四十一歩でした。


鎖の下に着いて、ちはるは見上げた。まだ暗い岩の上に、ヘッドランプの光が一つ、揺れていた。


鎖を登るには、両手が要る。片手には鞄があった。


置いていけばいい、と思った。ここに置いて、鎖をつかんで登ればいい。下りてくれば、鞄はまだここにある。こんな時間に、こんな場所で、持っていく人などいない。


分かっていた。分かっているのに、手が開かなかった。二十二の夏、空港のターンテーブルの前で、自分の鞄がどれだか分からなくなったときの感じが、手のひらに残っていた。


なくさないように持ってくると、手がふさがりますね。ゆうべの声が、そのまま聞こえた気がした。


「瀬尾さん」


呼んだ。思っていたより、小さい声だった。


ちはるさんが旅先で人の名前を呼ぶのを、わたしはそのとき初めて聞きました。


上の熊鈴が、止まりました。


二秒でした。


それから、また鳴りはじめました。上のほうへ、一歩ごとに一度ずつ。


聞こえて止まったのか、足場を確かめただけなのか、わたしには分かりません。鈴の音だけでは、そこまでは分かりません。


熊鈴の音は少しずつ小さくなって、峰の向こうへ回りこみ、聞こえなくなりました。鎖の下でちはるさんが止まってから、聞こえなくなるまで、二百十四回でした。


まわりで、鳥が鳴きはじめました。日が昇りはじめたのだと思います。


「まあ、いいか」


語尾が上がりました。


帰りの砂利を、わたしは数えませんでした。数えるようになってから、数えなかったのは、あの道だけです。


小屋に戻ると、朝ごはんできてますよ、とおかみさんが言いました。その鞄で走った人も初めて見ました、とは言いませんでした。


あの旅で、握り直されて鳴ったのは、一度だけです。


熊鈴のほうは、あの朝だけで数えきれないほど鳴りました。歩くたびに鳴る音は、鳴ったうちに入らないと、わたしは思っていました。けれど、鎖の下で聞いた二百十四回は、一回も聞きもらしませんでした。


あの朝のことを、ちはるさんはあとで何度か人に話していました。たいていは、鎖場があってね、で話が終わります。鞄の話まで出てきたのは、一度だけでした。


熊鈴は、迷ったときに人に見つけてもらうための鈴だと、あの人は言っていました。めじるしは、持ち主が自分の鞄を見失わないための鈴です。あの朝、ちはるさんは鞄を見失いませんでした。


置いていけば、届いたのかもしれません。


置いていけなかった鞄に付いていたのは、わたしです。


それから四年あまりたった三月、霧尾の雪の上で、ちはるさんは初めて、鞄を落として走りました。


走ってきた先にいたのは、わたしでした。


置いていけなかったのは、鞄ではなかったのかもしれません。

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