第十話:勝負の鉄則、負けないムーブ
今夜の双岡は、風が少し騒がしい。竹林がざわめき、庵の屋根が夜の闇に抗うようにミシリと鳴る。
俺は棚の奥から、角の擦り減った古びた双六盤を引っ張り出し、いろりの傍らに置いた。
そこへ、足音を殺して信基が現れた。第九話を経て、無駄なノイズを削ぎ落としたはずの彼だったが、その瞳には隠しきれない焦燥の炎がゆらゆらと揺れている。
「ケンコーさん……例の女房も、俺を笑った連中も集まる双六の席が、数日後に宮中で設けられるんす。俺、そこで一手見せて、これまでの醜態を全部ひっくり返してやりたい。……今度こそ、負けられない勝負なんす」
信基は静かに座り込んだが、その指先は膝の上でわずかに震えていた。勝つ前から、もう負け筋が見えている顔だ。
「勝負、か。いいか、信基。耳かっぽじって……いや、心を開いて聴け。勝負ってのはな、『勝ちに行く』ヤツから順番に脱落していくクソゲーなんだよ。」
俺は賽を二度振った。カチリと乾いた音がして、良い目が出る。
信基の目が、反射的に光った。
「……もう一回、振りたくなるだろ?」
「……なります。勢いがあるうちに、一気に上がりたいっす」
「その顔だ。その顔をした瞬間に、だいたい人は負ける。さあ、連想ゲームを加速させるぞ。昔な、双六の達人に『勝つためのコツ』を聞いたヤツがいたんだ。達人はなんて答えたと思う? 『勝とうとするな。負けないように打て』だ。」
俺は信基の前に賽を転がした。
「『どの手が一番早く上がれるか』を考えるんじゃなく、『どの手が一番ダメージが少ないか』を執拗に計算するヤツが、結局最後に立ってるんだわ。本当のリスク管理ってのはな、『勝てる時』に動くんじゃなく、『負け筋』を全部潰してから一歩踏み出すことなんだよ。」
外では、強風に煽られた木の枝が庵の壁を叩いた。乾いた、鋭い音。
「お前のその『最後の戦い』も同じだ。相手を惚れさせよう、笑った連中を黙らせよう……そんな『攻め』の姿勢は、相手から見ればただの隙でしかない。いいか、信基。今日のお前の勝ちは、あの女房を振り向かせることじゃねえ。その場を壊さず、『また話してもいい』と思われて帰ることだ。勝ちを小さく設定しろ。小さい勝ちを拾えるヤツだけが、大負けしないんだわ。」
信基は、双六盤の黒ずんだ線を見つめたまま動かない。
いろりの火が爆ぜ、火の粉が暗闇に散って消える。
「……俺、また『自分がどう勝つか』ばっかり考えてました。勝ちたいっす。正直、めちゃくちゃ勝ちたい。あの人に見直されたいし、笑った連中にも黙ってほしいっす。……でも、その欲を抱えたまま、一歩引いてみます。今日は勝ち切るんじゃなくて、次に繋げて帰ってきます」
「おう。勝負は相手とするもんじゃねえ。自分の『焦り』という名のバグとの戦いなんだ。『まだ行ける』と思った時が、一番の退き時だと思え。 腹八分目で席を立つヤツが、一番美味い思いをして帰れるんだよ」
信基はゆっくりと立ち上がり、賽を俺に返した。
その顔から焦燥が消え、代わりに冷徹な、澄んだ静寂が宿っていた。
「……ケンコーさん。俺、負けないように行ってきます。自分の欲に振り回されない間合いを、守り抜いてみます」
「おう。派手に勝とうとするな。地味に、しぶとく、生き残れ。それがこの狂った時代をハックする、唯一の鉄則なんだからな」
信基は一礼し、風の吹く夜へと消えていった。
その足取りは、もはや風に煽られることもなく、地面を確実に踏み締めていた。
夜は更けていく。
いろりの火を消すと、闇の中に、確かな芯を持った静寂だけが残った。




