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第一章「ベタ」 1/12

稚拙、または巧拙。寂れて、人も立ち寄らない、築八十年強は経っているであろう家をリノベーションさせて出来たこの家が、僕の居場所だった。人影は少ない。そして、幸せの匂いも、ここには舞い込んで来ない。

 四月七日の朝焼けは妙に綺麗だった。ただの出来物で、しかも澱んだ空気に汚染されてるはずなのに、空の色は、黄色と青と紫と赤の見事なグラデーションで、それは画用紙に吸い込ませたみたいな色のパステルだった。自分の部屋というには貧相な、四畳半から見えるあの空は、虚空にしか見えなくて、色はついていなくぼやけていて、そして画素がとっても低くて、叢雲(むらくも)ばかり漂う。それは多分きっと、僕を現しているに違いない。

 辺りは、ブーゲンビリアの香りに包まれている。さみしい空漠の匂い。空白で、それでいて煩雑とした匂い。それでも、春が訪れる前に見た今日のこの空は、十七年の月日の中で、いちばん綺麗な空に違いなかった。

僕が住んでいるこの場所は北陸の、雪と静けさに埋もれた町。冬の間、空は灰色に貼りつき、雪は粒のまま降り積もるのではなく、霧のように、静かに、空気の中に漂っている。車道の端に積もった雪は黒く染まり、歩道には誰かの足跡だけがまばらに残る。海は近いが、冬のあいだはほとんど姿を見せない。潮騒も風に消されて、波の音が聴こえるのは、風のない日の朝だけ。その海沿いには、かつて栄えていた漁港の名残りがあり、錆びた網や、使われなくなった小屋が並んでいる。浜辺は漂流したプラスチックとシーグラス。海はジーンズ色の濃い青。濁って魚の死体が浜に打ち上げられたりもする。町の背には、低い山々が控えていて、春になると雪解け水が川を満たし、そこにカエルが鳴き、桜がやっと咲き始める。夏は湿度をたっぷりと含んだ空気が町を包み、ぬるくて蒸した暑いだけのうんざりした気温になる。秋になると海沿いの防風林が、一斉に葉を落として冬の準備を始める。今やっと冬を過ぎて、季節は春になろうとしている。この季節が好きだった。誰にでもやさしくて、明るくて希望みたいな顔をしているのに、僕だけまだ何も変わっていないようで、眩しさに目が開けられないのが。

僕はそういう所に生きていた。



 朝は父に殴られて起きる。それか、または中身の無いビール瓶を壁にぶち当てられて起きるか、癇癪を起こされるか、地団駄を踏まれて起きるか、口に雑誌を突っ込まれて起きるか、腹を思い切り蹴られて起きるか、髪の毛をぐっと掴まれて起きるか、枕で窒息させられそうになって起きるか、母の死ぬ夢を見て、涙を流して起きる。一日は毎日やって来るし、僕は毎日僕のままだ。もちろん、父も、母も、弟も、祖父も。でも僕だけが僕じゃないみたいで気持ちが悪い。ずっとその感覚は治らない。

 制服に着替えて家を出る。制服は、今に流行らないネイビーブルーの学ラン。私立東汐(ひがししお)高校が僕の通う学校だ。偏差値は五十。でもきっと嘘だ。少なからず頭のいい人もいるけど、悪い人の方が多い。僕は真ん中くらいで、学力では地の底に付かない。学校までは徒歩か自転車で向かう。

いってきます、の一言を言わなくなって三年くらい経った。もうその言葉に、意味がないから。僕は一人で生きているから。

今日はいい天気だ。それがたまらなく嫌だ。誰かの運の良い出会いになるのが嫌で仕方ない。こんな日は、一番嫌いだ。

歩いて寂れた公園を過ぎた辺り、実は横に裏道があって、そこを通れば早く学校に着くことを知っている。本当の事を言うと、その近道を僕は通りたくない。暗いし、狭いし、何より学校に着いて欲しくないからだ。通行人を避けて進む。行き交う人みんな僕の顔を見て訝しむ。その反応は正解で、僕の顔は怪我してないところが少ないほど流血か痣か絆創膏でいっぱいだ。もちろんそれがかっこいいと思ってる訳じゃなくて、僕に向けられる憎悪の掃き溜めみたいなもの。

 治しても治しても降りかかる憎悪に、僕は見ないふりをして絆創膏や傷口パッドを貼り続ける。

その行為には、意味が無いに等しい。

 学校に着くと、僕は決まって旧校舎裏に向かう。二年生になって、これが最初の()()になる。

「来たな」

 名前は荒川だったかな、

「飽きないよな、俺らも」

 こっちは松本とか?

「今日はいないんですか」

 そよ風が僕の鼻を撫でる。暖かい春の訪れ。

「うん?あー、橋本なら今日は来ねーよ。」

「…」

 ぐふっ

 黙っていると、突如後ろからど突かれる。僕はその場に四つん這いになる。

「だからって、ボコボコにされない訳ないだろ?笑」

 こうしてチャイムが鳴るまでそれは続いた。珍しいな、橋本が朝居ないなんて。振り翳される暴力を肴に、僕は今日のやる事について考えていた。悪口は右耳から左耳へ流れていく。聞いたことのある大体の悪口はコンプリートしたし、長年耐えてきたのだから、こんなことでは悲しくもなれない。

ただ、ああ。僕ってそうなんだって思うだけ。

 とりあえず、家に帰ったらまずは、溜まった食器を洗い、拭いたあと、洗濯物を取り込もう。そしてゴミを出したあと、そのまま母の病院に服を持って行って、帰りに銀行で金を引き出し、薬局で薬を買って、そしてスーパーで割引シールの貼られるのを待って、ついたらそれをレジに持っていく。家に着いたら一刻も早く酒を父に献上し、一日のノルマ達成。風呂に入り、ご飯を食べて、歯磨きをした後、床冷えする玄関の近くで眠る。父が酔って外に出ないように。まるで土嚢のように。

「おい、聞いてんのか?」

「……え?」

 髪を持ち上げられ、パシパシと頬を叩かれながら絆創膏を剥がされる。

「…っ!」

 僕は痛くて目を大きく開ける。どろどろ液体が溢れる。絆創膏が抱えていたのは、血なのか組織液なのか、はたまたどちらでもないのか分からない、僕の身体に通っていた液体が、その傷口から止め度なく溢れ出て、彼らの手や目を汚す。

「うお、汚ねぇ!」

「ははははは」

 彼らは笑って、勢いよく僕の頭を地面に叩きつける。今日のご飯は何にしよう…

 時間は全てを解決する。始まったら終わる。それに時間が止まることもない。始業時間五分前のチャイムが流れる。チャイムの音はだらしないビッグ・ベンのメロディ。僕にとっては、負けを知らせるゴングに過ぎない。

「もうそろ行こーぜ」

「だな」

「動かなくなってつまんねーし」

 彼らは僕の身体から立ち上がり、校舎へと戻っていく。僕はうつ伏せで、地面に寝転がっている。アスファルトの砕石が、さっき付けられたばかりのまだ新しい擦り傷に張り付いている。おまけに殴られたから鼻血が出て、それが口に入りとても不快だ。でも立ち上がることも出来ない。なぜだか今日は、いつもより酷くて、僕は頑張る気力がない。

情けない

本当に情けない

「あの、」

それは邂逅だった。恨めしい出会いだった。

「大丈夫ですか?」

後ろから声が聞こえた時、神様が喋ってると思った。でも僕はその時、喋ることなく寝たままだった。というか、無視していた。何故ならそれは同情しているようで、本当は馬鹿にしたいだけの輩が話しかけてきていると思っていたから。

僕の顔の前に近付く足音を鑑みれば、革のローファーで傷一つない。今時、こんなお洒落に使う若者は少ない。物ひとつとっても、僕は大切に最後まで使うことは出来ない。

「おーい」

彼は僕の頭を引っ張って掴み、半ば強制的に僕の顔を持ち上げる。ここら辺にはいない、ミルクティー色の服の生地。いかにも金持ちと言ってるような、貴賓溢れたブレザー姿の男。逆光で、顔がよく見えない。

「鼻血、出てますよ」

彼はそう言ってポケットにあるハンディーティッシュを取り出し、惜しむことなく僕の鼻を押さえた。少し強引で、僕はティッシュを引き取る様にそれを渡し貰う。彼から木蓮の懐かしい匂いがした。それは母の匂いだった。そこで太陽は雲に隠れた。彼がよく見える。

 随分綺麗な顔だな、すごく綺麗な顔をしてる男だ。

「あ…ありがとうございます」

 僕はふらつく足を押さえて、何とか立ち上がる。どっと鼻血が溢れて来る。彼はもっと僕にティッシュを寄越す。

「それ、どうしたんです?」

 彼はそんなことを聞く。ほんとに知りたい訳ないだろうに。

「ああ、転んだんです。」

 僕はこの場から早く離れたかった。だから嘘をついた。

「名前は?」

「…紺野、棗です」

「棗…」

 彼は僕の名前なんか聞いて、そしてそれを噛み締めるように呼んだ。

「秋生まれですか?」

 突飛だな、随分。この人は、質問しか出来ない人なのだろうか。

「いえ、違います」

「そうですか」

 少し残念そうに息を吐いて、僕の肩や背中に着いていた汚れや埃を払ってくれる。僕より少し背が高くて、モデルみたいだ。

「あの、」

「ん?」

「貴方の名前は?」

 そう聞いたのに、遠ざかる彼の耳には通らないで、春の光風にそれは流されてしまった。

「早瀬くん、待ちましたよ」

 脇から教頭先生が現れる。彼は律儀にお辞儀し、教頭を驚かせる。黒髪に、光が当たって少しボルドーに見える。流れる毛束は凄く綺麗だ。教頭は、彼と嬉しそうに握手をした後、僕のことを見る。その目は腫れ物を見る目で、僕にはそれがテンプレであった。

「はあ、紺野くん。君も居たのか…早く、保健室に行って処置を受けてきなさい」

「はい。」

 僕はよろよろと保健室に利口に向かう。彼は、

「またね」

 そう言っていた。















 変なものを見てしまった。俺は教頭先生の後につけて、この学校に入る。向かった先は校長室で、形だけは豪勢な、地方の安い学校だった。待っていたのは校長と見られる男で、一見、人の良さそうな顔なのに、この人の悪いゴシップのネタを俺は知ってる。他にも、こちらは黒い噂を何個も握っている。だから謙る必要はないのに。それでも家を背負ってるのだから、不躾なことは出来ない。

「いやあ〜、本当によく来たね早瀬くん」

 校長は嬉しそうに手を握る。弱みを洩らさないよう、強く強く俺の手を握っている。

「疲れただろ?少し休んで行きなさい」

 お茶が出される。笑顔で啜るが、とても苦くてありがた迷惑だった。それでも飲み干さなければ。この人も、ただ遠くから来た転校生を案じて茶を出してる訳じゃなく、接待として俺と話をしているんだ。そんなことは十に分かってる。

「はい。ありがとうございます」

 手を離し、椅子にバレないように拭う。

「君のお祖父様とお父様には本当に、助けて貰ったんだよ。目をかけてくださって、良くして貰ったんだ。」

 彼は生きている俺に対し、既にこの世のどこにも居ない亡者の話をしている。

「そんな偉大な二人のご子息である君は、本当に立派で美しく育ったね。当然、あのエリートの白崎学園に名を連ねるよね。あそこを離れるのは、やっぱり寂しいかい?」

 白崎(しらさき)学園とは、俺がここに越してくる前にいた学校で、有名大学に毎年何人も輩出してる東京の名門校だ。偏差値もここよりずば抜けて高く、設備もいい加減なわけなくて、平たく言えば、金持ち学校だ。

父も祖父もこの学園出身で、正式な学園は中学校からだが、幼稚園、小学校までもこの学校団体の設立する所に通わされていたので、生まれた時からずっと俺は白崎の人間だったと言える。

俺はそんな場所を追放されて、北陸の、こんな海に近い場所まで流されてしまった。

「ええ。ですが、とても楽しみです」

「ああ、そうかい。そんな事を言ってもらえるなんて、こちらとしては鼻高々だよ。あの、知事の孫で、理事長の息子に言ってもらえるだなんて」

 はは、と愛想笑いを返して、校長室の内観に目を向ける。歴代校長は全部この人だった。設立の時には、祖父がこの人と握手している写真があり、隣には学校の校章を持って、父親と写真を撮っているこの人が居た。

「いやあ、ねえ、君のお祖母様に、この学校に入学したいと言って貰った時は驚いたよ。」

「はい」

 背筋を伸ばして目を見て、相槌をしながら、話を聞き流すことはいつ覚えたのだろう。右から左へ、情報が耳を通り抜け消えていく。

「あ、そういえば、お祖母様はいつごろ会えるのかな?贈り物を渡したくてね」

 贈り物とは、賄賂の事だ。俺の家は昔から政界との力が強く、祖父はこの県の知事でもあったのだから。

「はい。祖母に伝えておきます。」

そう返すと校長はありがとうと言って、教頭に目配しをした。

「ああ、では早瀬くん、こちらに。担任の先生を紹介しますからね」

ついて行くと、背が自分よりも背が少し低くて、黒縁の眼鏡をかけた、いかにも真面目そうな三十代くらいの男がいた。

「君が、早瀬…」

「ちょっと」

教頭が小突く。まるで無菌室から出てきた人みたいに。

「すみません、早瀬瞬くんですね。」

「はい」

「私は滝沢。滝沢吉高です。担当教科は数学。」

律儀に礼をする姿に感動はなかった。

「では、行こうか」

 滝沢先生に続いて、校舎の中を歩く。十年ほど前にできたらしい校舎は、早瀬がいた白崎学園よりも古びている様に感じた。

「学校生活は楽しみ?」

 階段を登る途中に聞かれる。

「ええ。とても」

「ならよかったよ」

 そう流して、階段を踏み外さないように慎重に登った。

教室はとても静かだった。いや、静かになった。滝沢の姿がちらつくだけで、廊下を見ていた生徒がしっーとみんなに号笛していた。

「どうした?」

滝沢が愚直に聞く。後ろで俺に待てと教鞭を執る。

「いや!転校生のために、真面目な姿をみせようと!」

そう意気揚々に言った生徒の名前は、時枝と言うらしい。なぜ分かったかと言えば、教室に入る前、ウォールフックに真っピンクのトレンチコートの下がかけて合ったから。油性ペンで時枝と書かれていたのを見た。そしてこの男はその上着を羽織っている。

「おい時枝、教室だぞ。上着を脱げ」

「はーい」

「じゃあみんな、今日から新しいクラスで学校生活が始まる。そして転校生も紹介する。来なさい」

 足を踏み出し、自分がまた罪を犯したと思った。

「東京から来ました。早瀬瞬です。皆さんよろしくお願いします」

 今度は馴染みやすい柔らかい笑顔と、軽い会釈を。滝沢が拍手をし始め、それに習って皆も拍手をする。でも奇妙だった。皆俺の顔を見ている。そんなにおかしいことだろうか。そんなに珍しいのだろうか。田舎のバカ高校とは言え、東京は知ってるはずだろうに。

非常に平凡で、凡庸で、当たり障りのない普通な挨拶をした後、疎らな拍手を受けて、担任に言われた席に座る。通路を挟んだ隣の席は空席だった。空っぽで寒そうな机。最初が肝要だと言うのに。どうして休むのだろう、後で後悔するのに。

「…じゃあ連絡は終わり。みんな早瀬をよろしく。あ、時枝。お前放課後暇か?早瀬に学校案内してやれ」

 そう言い残したあと滝沢はさっさと教室を出て行ってしまった。時枝は部活サボれる!と嬉しそうに後ろの友人と話している。今は一時間目が終わったチャイムらしく、休み時間となった途端、人が俺の席に押し寄せてくる。机はあっという間に人で囲まれ、俺は蟻の気持ちになった。蟻からしたら大きすぎる子供が、自分の周りに何人もいて、仲間はぶちぶちと手や足で踏まれてしまうみたいな。そんな、被害者意識。

「ねえ、背何センチ?ちょーたかくない?」

「インスタやってる?てか、クラスラインはいってー!」

「部活なにしてた?」

「かっこいいね、もしかして練習生?」

さっきの人にやった始末を思い出し、罪悪感が湧く。こんなに虫が好かないことだなんて。

「あのさ」

時が少し止まる。俺は座ったまま口を開いた。

「質問は一つずつだと助かるな」

困ったように無難な笑顔を浮かべる。

ガラガラ

扉が突如開く。皆がそちらを向く。ゆっくり後ろを振り向く。目が合った。じっと見下ろす、光がない瞳が。顔はボロボロで、黄色や黄緑や青や赤の痣がそこら中に見える。顔にも首にも、きっと身体にも。

絆創膏や傷口パッドがテープでシールのように貼り付けられ、痛々しい顔付き。でも残念ながらそれを看過できない人は、自分しかいなかった。皆顔を背けて、自席に戻っていった。

普段ならそういうのに興味を持たない。電車で怒鳴り合う喧嘩や、修羅場も、参考書や映像授業より大事だと思えないし、関係ないと思ってしまう。だけど今日はなんだか違った。考えるより先に声が出ていた。

「鼻、止まって良かった」

彼の鼻にコットンが入ってるのを見て、こつんとその鼻を触って言う。彼は口を開けて、喋り出すのに数秒ほど時間がかかって、やっとのことで言葉になって出てくる。たったの数秒が厭わしく感じた。

「ああ、えっと」

急に俺が話しかけて驚いている。俺も、なんで話しかけたか分からない。

「同じクラスだったんだね。」

口を隠すように小さく笑って、その子の顔を伺う。

「そうだね。嬉しいな、」

下を向いてにまっと口角をあげている。

紺野棗

自分の目には何一つおかしいところが見えなかった。

逆に、この子以外が皆、気持ち悪いとも思った。














 この人はどうしてそんなに顔がいいのだろう。肌も、鼻も、髪も、睫毛も、身体も、全部綺麗だ。自然界でこんな顔の人が誕生する確率はゼロに等しい。こういう人が生まれる確率は地球ぐらい低いんだろうな…と。

どこを見ても完璧で、一点の曇りもなくて。彼に手を引かれて、僕の机に座る。落書きがない新学期らしい新しい白い机。汚されるのに、変えるのは誰のためなんだろう。

彼は通路を挟んだ隣の席に座る。まさか、隣の席なんて。尽く、今日が怖い。

「俺は早瀬瞬。良かったら友達になって」

肩を組んでくる、早瀬瞬の首から、また木蓮の香りがした。懐かしい。思わず預けたくなった、この人の肩に。でも身体を離した。

「ああ、ごめん、やだった?」

彼が問う。思ってるはずない顔をしながら。

「いや、みんな見てるし…」

 小声で喋る。目線は彼の足元に集約する。さっきも見た、男子には珍しい、茶色のローファー。

僕のとはいうと、薄汚れて色褪せた紺のスニーカー。皮が剥げてむき出しに鳴っているところもあって、僕は無意識に足を窄める。

「そうだね」

彼は第一ボタンを開けながらそう答える。一人だけ奇抜な色の制服はよく目立つ。間に合わなかったのか、それともわざとなのか。胸元にはエンブレムが施され、シラ、サキ?聞いたことない学校の名前。それでも彼がいたこの学校に、僕みたいなのはきっといないんだろう。

「でも俺は、話してたいな」

「えっ」

情けない声を出してしまった。

「みんながなに?関係ある?」

彼はこれが普通だと、鞄から絆創膏を出す。「首のところ、捲ってくれる?」

糸が全く掴めない。言われるままに僕は学ランの衿を捲って、首筋を露出する。みんなが見ている。早く終われ、早く終われ…

「あのさ、」

早瀬瞬が言う。驚いて隣を見る。

「紺野、って呼んでいい?」

 少し申し訳なさそうに言う顔がおもしろくて笑ってしまう。

「あ…名前の方が楽か、」

「いや、紺野でいいよ。好きな呼び方で。」

彼はいつの間にか絆創膏を携えて、僕も気づかなかった新しい傷に貼ってくれる。彼は小さいポケットサイズの手鏡を貸してくれて、僕はそれを見る。柄物で、彼には相応しくない子供っぽい絆創膏。

「そう。なら、俺も。俺のとこも好きに呼んで」

「ありがとう…」

僕は少し大きく言ったのに、彼は感謝されるのが嫌いなのか、歯痒そうに、口をもごもごさせて、眉毛をふいっとあげるだけ。

僕はその絆創膏を数回撫でて、動きにくさを実感する。衿をしっかり戻そうとしたとき、周りから僕ら二人の話が聞こえる。

「あいつ、なに?」

「転校生と知り合いなのか?」

「よくやるよなー、俺だったら不登校か、退学してる笑」

疲れた、でも殴られないからマシか。

「転校生って、もしやゲイなの?」

「えっ?」

彼を見ると驚いていた。急に僕が立ったからか。耳がいいのが本当に恨めしい。彼はなんにも気にしない顔で僕を見ている。

僕は落ち着いて席に座り、気まずい顔を隠した。彼は時枝らに手を引かれ、楽しそうに笑っている。

そんな彼を見れば見るほど、この人は自分と違うと思った。制服もそうだし、肌が白くて、首筋が綺麗で、傷一つついてない高級品。僕のようなチープな贋物では、近づくことさえできないのに。


授業が始まると、彼は先程より顔が生きていない、と思った。でも間違いなく優秀で、頭がいい人なんだと分かる。先生に当てられても淀みなく答えるし、隣の子から質問されても、

「ああ、これはね…」

と、優しく教えてあげている。隣の子はやった!話せた!って嬉しそうに言っていて、当の本人はどうでもいいみたいに教科書をペラペラ捲っていて。彼の文房具は見てわかるいいやつだったし、解く姿勢すら計算されているようだった。傍ら僕は、シャーペンを握る力が強くなってしまい、シャー芯を折ってしまった。目を彼に向かわせる。特に、横顔は凄く綺麗だった。人を隔絶する目が、なんか、なんだか、気に入った。




 












 退屈だ。こんなの、去年やったことの繰り返しじゃないか。田舎はまだこんなのをやっているのか。気が滅入る。でも溜息は少しずつ漏らす。普通の呼吸だと言うように。早く戻りたい。こんなところ、早く出たい。でも、戻ったところで迎えてくれる家はない。仕方ない。これは償いだと思おう。そうすればまた、祖母に従順になれるはず。

俺はペンをしっかり握って、答えをノートに書きながら、余った時間で隣の子の事を考える。このクラスの人はなぜ彼を除け者にするのか。ここでは誰が正しくて、誰が間違っていて、誰が歓迎されて、誰が疎まれて、誰が自分を守ってくれるのか。

「あっ」

ふいに横を向くとその彼と目が合った。紺野はすぐ目を逸らし、急いでペンを握るが、何も文字を書いていない。

そのままじっと見て、頬杖をつく。制服はまだ比較的綺麗だけど、靴は残念。スニーカーは糸が飛び出たりしてぼろぼろ。髪の毛も頂点がふわふわしていて整えたくなる。みっともない。授業は聞かないで、自分の爪を眺めていた。

一日が終わり、荷物を鞄にまとめる。昼は適当な時枝と、その仲間たちに誘われて食べて、ある程度普通の人間だと知らしめた。本当は、紺野も呼ぶべきか考えた。でも振り向くと、その姿はどこにもなかった。昼からの授業が始まるギリギリに来て、何にもなかったみたいにノートを開く。靴下が捲れている。朝はこんなはずではなかった。

「はあ…」

思わず溜息をついてしまったようで焦る。彼がこちらを覗く。今度は目を離すことはしなかった。

「今日の放課後、空いてる?」

そう言うと、こくんと頷く。

意外と優しいんだな。それに便利なやつだなと。

「早瀬ー、案内いく?」

「あ、ごめん時枝。お前、今日部活あるんだって?」

「え、」

続けて

「申し訳ないからいいよ。他のやつに頼んだし。 」

彼の方を見る。

「あー…」

時枝も紺野をみたまま

「だからさ、部活行けよ」

時枝の顔を見た。

「おっ、けー。了解。紺野、よろしくなー」

残念そうにそういい、サボれんかったーと友人に話す声が廊下に聞こえる。

「え、えっと」

紺野は困惑している。勘が悪いやつだな。

「今日さ、紺野が学校案内してくれない?」

「ぼ、僕が」

「そう」

頭をぐるぐるさせているんだろう。

「だめ?」

そう聞けば、返ってくるのは決まっていた。

「いや、いいよ。僕でよければ」

よく見れば悪くない顔をしている。怪我を治せば、好きになる女の子、多いと思うのに。


「ここ、音楽室」

「へえ…」

中には思ったより多くの楽器が置いてあった。ピアノはヤマハのSシリーズで、音がいい。

「ピアノ、弾けるの?」

「え?」

鍵盤蓋を撫でていたら急にそんなことを聞いてきた。

「昔はね」

「今は?」

「どうだろ。忘れちゃったな」

適当な嘘をついて、さっさとここを離れる。紺野に任せたのは間違いだったみたいだ。口が回らないから選んだのに、二人きりになるとなにかと聞いてくる。さっきも、東京のどこから来たのだとか、どうして転校してきたのかとか、彼女はいるのか、とか。結局、こいつもクラスの人達と同じだと、見込んだ自分が浅はかに思える。全部に端的な返事をして、彼の視線に気づかないフリをした。















 

朝はあんなに僕に質問責めをしてきた癖に、逆の立場になるとこんなに下手くそなんて、早瀬瞬は面白い人だ。さっきから返す返事全部が含みを持っていて、何か圧を感じる。でも馬鹿な真似して聞いてみようかな。流石に嫌われるか。そしたら、意味が無い。

「ここは図書室」

「広いんだね。意外と」

「この学校つくるときに貢献した人が、いつか自分の孫が通うかもしれんって一番力を入れたらしいよ。」

「へえ…」

彼は本棚に刻まれてある寄贈した理事長の名前を撫でながら呟く。

「傲慢だね。随分」

「そう、だね。我儘だ。今は誰も本なんか読まないし、ましてやそのお孫さんも来ないしね」

「居たらどうする?」

初めて彼が会話に乗った。目が合って、彼の奥二重はとても綺麗だと感じる。切長の、睫毛が長くて、涙袋がぷっくりして…

「居たら?」

「うん」

「仲良くするよ」

「どうして?」

「お金持ちだから」

ぷはっと彼は図書室なのに吹き出して笑った。そんなにおかしいことだろうか。

「俺もそうすると思うな」

そう言って今度は歩幅を合わして僕の隣を歩いてくれた。僕の問いに、彼は段々寛容になった。核心に触れた質問は、まだ依然とはぐらかしてくるけど。中学はなんにも部活はやっておらず、塾ばかりいっていたこと。生まれは東京の港区で、風貌からわかる通り、お金持ちのご子息だと。頭がよく、顔もよく、性格は優等生。でも垣間見える彼の見下した発言が、なぜが納得を生む。僕は決して上に立てる人ではないのに、彼が言うことに、たしかに。と思う。

「他には?他に聞きたいことは?」

彼は面白くなってきたようで自分から質問を扇ぐ。

「じゃあ、その、今、彼女はいる?」

「どう思う?」

「いる、と思う」

「どうだろうね」

また笑った。その含みがある妖艶な笑み。皆に向ける、上面の上手な笑みの仕方じゃなく、人を小馬鹿にしたような、可愛い笑顔。

「教えてよ」

「そんなに知りたい?」

「うん。とっても」

「いたらどうする?」

「ま、またそれ?」

ふふ、と彼は笑う。その顔は苛立ちを誘発させない。彼は人を試すのがこんなにも好きなのか。僕は正直にしか言えない。

「身を引くよ」

馬鹿みたいに嘘が付けない。彼が口を開く。

「じゃあいないかな」

「え?」

「紺野、案内ありがとうね」

いつのまにか校門前に来ていた。狐に惑わされたみたいに。

「またね」

彼はそう言い、僕の背中を押した。帰れと言われてるようだった。歯向かう事もせず、僕は歩き出した。きっと明日は酷くなるだろう。でも別に、構わなかった。彼がいるから。

「また明日」

僕は彼がもういないのにそう呟いた。



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