翻訳家の手紙 ―背を見つめる恋
リオンは、白い手袋をはめた指先で、セピア色に焼けた本のページをゆっくりとめくった。
厚く、古い書物。
ときおり、パラリと粉が落ちる。
開け放たれた窓からは、霧の匂いと、柔らかい日差しが部屋に滑り込んできた。薄いカーテンがわずかに揺れる。
向かい合わせに並べた机。
片方の机は、本や書類が乱雑に積まれ、今にも崩れ落ちそうだった。水差しに差したペン先がいつまでもそのままになっている。
もう一方の机の上は、最低限の本だけが置かれ、書類や使っていない文具は引き出しにしまわれていた。柔らかいベルベットの布の上に丁寧に銀のペン先が並んでいる。
雑然とした机に向かっていたリオンは、開いていた古書に視線を落としたまま「あ」と声を上げた。
「ねぇ、セオドア」
「なんだ」
セオドアは、整然とした机の上で書類を整理している。
「翻訳依頼で預かってきたこの古書にさ、手紙が挟まってたよ」
「……そのままにしておけ」
リオンはぱっと顔を上げて、セオドアの黒い瞳をまじまじと見つめた。
セオドアは眉を寄せて、リオンの琥珀の瞳を見つめ返す。
「……君は気にならないの?」
セオドアは小さくため息を吐くと、リオンの手元の古書をちらと見た。
「プライバシーの侵害だ。戻せ」
「……ふうん」
リオンは手紙を両手に持ち、視線を落とす。
ふと、彼の眉が上がる。
「お、これ、ラブレターだよ」
「……おい」
セオドアが止めるのも気にせずに、リオンは胸に手を当て、手紙を読み始めた。
「『君の背を、僕はただ見ていた。
それだけなら、許されるだろうか。
愚かな僕を、君はどう思うのだろうか。
j.a.』
だって」
リオンは満足げに顔を上げた。
セオドアは視線だけで答えた。
「……ロマンチック」
「戻せよ」
窓の外から、馬車の通り過ぎる音が聞こえてくる。
リオンはノートに手紙を挟み、鼻歌を歌い出した。
「リオン。戻しておけって」
「翻訳の邪魔になるから、避けておくだけだよ。
さぁ、仕事仕事。この古書の翻訳は、大変そうだねぇ」
「そうだな」
セオドアは席を立つと、壁の大きな本棚から、いくつか文献を取り出す。
「王立図書館に行って、文献を取り寄せた方がいいかもな。手持ちの物では足りないかもしれない」
「そうだねぇ」
リオンは窓の外を見た。
霧の街オルドンは、今日も白く包まれ、向かいの屋根は溶けるように見えなかった。
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小さな庭。
植物がたくさん植えられたその庭で、セオドアとリオンの二人は、庭の手入れをしていた。
霧に濾された淡い光の中で、花とハーブの香りが二人をくすぐる。
並んだ薄紫の花は、ゆったりと揺れていた。
しゃがみ込んで雑草を抜いていたリオンは今日も鼻歌を歌っている。
「j.a.さんかぁ。思いは通じたのかなぁ」
少し離れた場所にかがみ、ハーブの寄せ植えを作っていたセオドアは、ちらとリオンを見る。
彼の周りでは、抜かれた雑草があちらこちらに散っていた。
「……まだ考えていたのか」
「だってさ……。
あとで焼き菓子買いに行かない?」
「唐突だな。――いいよ。買いに行こう」
「あれはやっぱさ、禁断の恋だよね」
「……話がころころ変わる」
「ここ、何か植えようよ」
柔らかな土の箇所をスコップで指して、リオンはにこにことセオドアを見る。セオドアは手を止めた。
「僕は花がいいんだけど、どうせ君はハーブか野菜がいいっていうんでしょ?」
「綺麗な花の咲く野菜にしたらいい」
「j.a.さんはさ……」
「忘れろって」
「僕はさ、“花”って感じの花を植えたいんだよ」
「好きにしたらいいだろう」
リオンは膝を抱えた。
リオンのエプロンは泥まみれなのに、セオドアのエプロンはあまり汚れていない。
「セオドアは文句言わない?」
「俺が言ったことがあるか?」
リオンは視線を空に逃がす。
「……ないかも」
「なら問題ない」
「まぁ、この家は僕が借りた家だから、君に文句を言われる筋合いはないもんね」
「……だから、文句は言っていないだろう。
そもそも君が“家賃が高くて一人で払えない”って泣きついてきたんじゃないか。
俺だって家賃を払ってるんだから、文句を言う筋合い自体はある」
「……花を植えてもいい?」
「いいよ」
セオドアが頷くのを見て、リオンはにっと笑った。
リオンはまた視線を地面に戻して、雑草を抜く。
「なんか、小旅行したいな」
「……たまにはいいかもな」
「どこ行く?」
「湖畔に城館があっただろう」
「あぁ。すごく綺麗だって聞くよね。いいね。今度行こうよ」
「そうだな」
「j.a.さんは、恋のお相手とデートとかしたのかな」
「……リオン」
セオドアがリオンを目を細めて見ると、彼は肩をすくめた。
「セオドアは、この話は嫌い?」
「……菓子でも買いに行くか?」
「そうだね」
セオドアは立ち上がるとエプロンの汚れを払い、リオンを置いて先に部屋の中に入っていく。
リオンはスコップを地面に放り、慌てて彼の後を追った。
葉が揺れ、ハーブの香りがふわりと舞った。
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セオドアは本棚の前に立つと、一冊の本を抜き出した。その場でページをめくる。
それを戻し、また別の本を取り出した。
リオンはインク壺にペンを浸しながら、ちらとセオドアを見た。
「何か探し物?」
「例の古書を翻訳するにあたっての文献」
「……どのジャンル?」
「錬金術……」
「錬金術? そんなのほとんど禁書扱いなんじゃないの?」
「ほんの少しだけど、出てくるんだ。
王立研究院に問い合わせないといけないかもな」
「資料の請求費がかさむ……。
翻訳料に上乗せしよう。そうしよう」
「そうだな」
セオドアは諦めて席に戻ると、机上の一冊を手に取った。
「これ、ユリウス・アーベル……」
彼らが翻訳に取り組んでいる古書と同時代に発行された別の書籍の翻訳書。
セオドアは訳者の名が載るページを、リオンに見えるように掲げた。
リオンは顔を上げて、その文字を読む。
「……僕らの大先輩のユリウス・アーベル?」
セオドアは表情を変えずに、小さく頷いた。
「あ! j.a.だね! Julius Abel」
「……そうなんだ。……だが」
リオンは目を輝かせたが、一方でセオドアは本を閉じながら小さくため息を吐く。
その様子をリオンは不思議そうに眺め、やがて、彼も視線を下げた。
「……そっか」
リオンは手元の古書の写しをそっと撫でる。
「この古書はまだ、誰にも翻訳されていなかったよね?
翻訳家の彼の手紙がここに挟まるのは、少し不自然な気がする。
彼の持ち物だったわけでもなさそうだし」
セオドアは静かにリオンを見つめ、リオンはペンを置いて腕を組んだ。
「この古書の持ち主であるオスカーさんが、貰ったものなのかもね。
それか、オスカーさんの前の持ち主とか……?」
リオンも、セオドアの目を見つめ返す。
小さく首を傾げた。
「……でも、なぜわざわざそんな私的なものを古書に挟んだんだろう?
……わかんないことだらけだね」
セオドアは小さく笑って、視線を手元に落とす。辞書を引き寄せ、仕事を始めた。
「……今、なんで笑ったの?」
「いや、リオンは妙にj.a.に、思い入れてるなと思ってさ」
リオンはノートに挟んだ手紙をちらと見た。
「だって……背中を見るだけで“愚か”だなんて言う彼の恋は、切ないじゃないか」
「……そうだな」
紙の上をペン先が擦れる音が、そっと部屋に落ちる。
リオンは、セオドアの黒い髪をぼんやり見つめた。
セオドアがふと顔を上げたが、リオンは視線を外し、彼もまた、仕事に取り組み始めた。
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「あ! オスカーさん!」
「ごきげんよう。リオン君」
リオンが居間にやってくると、ソファには老人オスカーとセオドアが向かい合って座っていた。
翻訳を依頼してきたオスカーは古書の収集家だ。これまでにも何度も彼らに依頼を持ち込んでいる。
オスカーの手土産である菓子が並んだ皿を見おろしながら、ローテーブルを回ってリオンがセオドアの隣に座る。
クッションが一瞬だけふかりと沈んだ。
「進捗はどうだね?」
「苦労してます。錬金術の話をしたかと思えば、流行りの芸術について語りだしたりするので」
セオドアが淡々と答える横で、リオンは我関せずと、テーブルのカップを持ち上げて飲み始める。
オスカーは鷹揚に笑っていた。
「あっはっは。
あれは、権力者の日記のようだったからな。思いついたままに書いているのだろう。
文化的背景を追うのが大変そうだ」
「えぇ、本当に」
「いやしかし、学術振興のためとは銘打っているが、私の古書収集という趣味の延長だ。
少し時間かけてくれてもいい」
「いつもオスカーさんにはお世話になってます」
「君たちのような若手翻訳家を育てるのも老人の仕事だ。
また古書を見つけたらどんどん持ってきてあげよう」
セオドアは小さく笑う。
「ははは。どうかお手柔らかに」
リオンが菓子に手を伸ばす。セオドアがその手を軽く叩いた。
「リオン。まずは礼を言え」
リオンは手を擦ると、オスカーを見てにこりと笑う。
「オスカーさん。ありがとう!
食べていいですか?」
オスカーはそれを見て愉快そうに笑った。
「どんどん食べてくれ。リオン君は焼き菓子が好きだったと思ってね」
「覚えててくれたんですね。オスカーさんは最高のパトロンだ」
「……リオン」
セオドアが目を細めてリオンを見るが、リオンは気にせずに口に菓子を放り込む。
「私はリオン君の性質も気に入っているんだ。好きにさせてやりたまえ」
「……はい」
オスカーが好々爺の笑みを浮かべながら言うと、セオドアは渋々引き下がった。
カップを持ち上げかけて、ふとセオドアは顔を上げる。
「あの……。オスカーさん。つかぬことをお伺いしますが、ユリウス・アーベルという翻訳家をご存知ですか?」
紅茶を飲んでいたオスカーの手が止まる。
ゆっくりとカップをテーブルに戻し、彼は静かに琥珀色の水面を見つめた。
やがて、セオドアを見て、柔らかく笑う。
「……知っているよ」
少ししゃがれた声に複雑な色を感じ、セオドアとリオンは目を見合わせた。
オスカーは何かを味わうように居間の本棚を見つめる。
「……そうだな。私の古い……友人なんだ。
とても親しかった」
部屋の暖炉には、今は火が入っていない。
老人の昔話を待つかのように、それは静かに黙していた。
「彼は、若くして亡くなってしまったんだよ……。
君たちに依頼した本も、本当ははじめは彼に翻訳を頼んだんだ……」
セオドアは視線を落として、小さく頷く。
「しかし、翻訳を終える前に、彼は――」
リオンも菓子を食べるのをやめて、オスカーをじっと見つめた。
「それ以来、私も、なんとなくしまい込んでしまった」
老人は苦く、小さく笑う。
「……でもなぜだろうな。
ふいに、君たちに頼もうと思ったんだ。
私が持っている本の中でも、保存状態が悪いだろう。……すまないな」
オスカーはカップを持ち上げると、静かに茶を飲んだ。
「その……彼のお墓は……。
もしご存知なら、教えていただけますか?
翻訳家の先輩に、ご挨拶に伺いたいのですが」
セオドアの黒い瞳を静かに見つめ返すと、オスカーは柔らかく笑む。
「王都にあるよ。すぐそこだ。
……若い人に来てもらえるなんて、きっとユリウスは喜ぶだろうな」
老人はカップを置く。
その小さな音が、かすかに部屋に落ちた。
「……花を。
……持っていってやってくれないか。
白い花が、彼は好きだった」
「……はい。持っていきます」
セオドアがそう言って頷くと、オスカーは満足そうに小さく笑った。
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王都の石畳。
セオドアとリオンは並んで歩いていた。
歪にうねった白色と灰色が混ざった石畳。
紙がいくつも張り付けられた掲示板の前で議論する人々。
大学や書店、研究所が立ち並ぶ学院街。
このハートウェル区の周辺には、中流階級向けの住宅街が広がる西区があり、反対側には行政街セント・ブリッジ区がある。
整ったその二つの区に囲まれたこの区画だけは、どこか歪で、未完成な街の顔をしていた。
ふわりと漂ってきた紅茶とハーブの香り。
少し開けた広場で、ドリンクの赤い色の屋台が出ている。
「あ」
リオンがセオドアの肘の服を掴んだ。
「ココアが飲みたい。ココアココア」
セオドアは振り返って、屋台とリオンを見比べる。
「……まだ少しも歩いていないのに、休憩するつもりか?」
「セオドアには、聞こえない? ココアが僕を呼ぶ声が」
「聞こえないな」
再び歩き出そうとしたセオドアの服をリオンが強く掴んだ。
「買ってくるから、そこのベンチに待機。いいね?」
「……わかった」
セオドアは小さく息を吐くとおとなしくベンチに腰掛け、リオンは今にも飛び跳ねそうな勢いで屋台へと歩いていく。
空は霧で白く霞んでいる。
ガス灯のガラスは霧の雫をまとい、それが小さく光を弾いていた。
「ココア二つ!」
リオンの声がここまで届く。ふわっとした猫っ毛を揺らして、店主にあれこれと話しかけているようだ。
彼は人懐こい。
寄宿学校時代からの付き合いだが、その頃からリオンはセオドアの後をついて歩いていた。勉強はできるのに、どこか要領が悪く、いつもセオドアが面倒を見る羽目になっていた。
リオンが駆け戻ってくる。
「……こぼしそうだな」
セオドアは立ち上がってリオンを迎えに行く。彼からブリキのマグを二つとも受け取ると、並んでベンチまで戻ってきた。
隣り合って座る。
しばらく黙って二人してココアを飲んだ。
甘い香りが鼻をくすぐる。
「もしかしてだけどさ」
セオドアが横を向くと、琥珀の瞳とかち合う。
「ユリウスさんの想い人って……」
「さぁな」
そっけなく視線を逸らせると、リオンはセオドアの瞳を覗き込んだ。
「ユリウスさんの手紙は、翻訳作業中の古書に挟まってたってことだよね。
その古書は、オスカーさんのもので――」
セオドアは眉を寄せる。
「しかもさ……ユリウスさんの手紙が挟まった古書を、オスカーさんはずっとずっと持っていた。
オスカーさんはユリウスさんが亡くなった後、その古書の翻訳を誰にも頼みたくなくて……。
それって……。それってさ」
「リオン」
「何? セオドア」
セオドアがじっと琥珀の瞳を見つめると、リオンはきょとんと見つめ返した。
「……故人の気持ちを、俺はいじくり回したくないんだ」
リオンは驚いたように目も口も開ける。
そして、マグを両手で持ち、視線を落とした。
「……そうだね。
ちょっと、今のは僕が良くなかった」
リオンがまた、視線を持ち上げてセオドアを見る。
「……ごめんね」
「いや。
……ココア、甘いな」
「うん。甘くて美味しいね」
二人はまた、黙ってココアを飲んだ。
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街の外れ。
背の高い木々に囲まれた一画に、小さな墓地があった。
樹木の間に、ぽつぽつと墓石が並んでいる。
木漏れ日の間を抜け、二人は静かに歩いていた。
人の声のしない、静かな場所。
小鳥の鳴き声と、葉すれの音だけが、そっと落ちている。
「……“Julius Abel”。
あったよ」
二人は墓石の前で立ち止まり、途中の花屋で買った白い花を一束ずつ置いた。
風が、花びらをかすかに揺らす。
「彼の気持ちは……伝わっていたのかな」
黒と琥珀の瞳が交わる。
リオンは、ふっと、先に視線をそらした。
「伝わってたらいいなって……そう思ったんだ」
「……そうだな」
「ごめんね、何度もこの話をして」
リオンの白い頬に、木漏れ日が揺れている。
セオドアは、それを静かに見つめた。
「……リオンが話したければ、俺は聞くよ。
でも――俺自身は、ユリウス氏の気持ちに、やっぱりむやみに触れたくないんだ」
「……うん」
セオドアが視線を下げて墓石を見る。
リオンは、その端正な横顔をそっと見た。
「きっと……大切な想いだろうから」
「うん。そうだね」
柔らかい風が、二人の髪をそっと揺らした。
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扉の開く音。
木床を踏む音が重なり、続いて仕事部屋の扉が開いた。
帰宅したリオンはまっすぐに窓に向かうと、カーテンを開ける。
セオドアは帰りがけに買ってきた食料品を台所で整理しており、廊下の向こうから音をさせていた。
伸びをし、街ではきっちりと留めていたシャツのボタンをいくつか外す。袖もまくると、やっと一息つく気がした。
椅子に腰掛け、ノートをパラパラとめくる。
「……さすがに今日は進めないとね」
インク壺のインクの量を確認していると、向こうから声がした。
「リオン。先にティータイムにするか。
買ってきたパイを切り分けるが……
どうする?」
顔を上げる。
「する! ティータイム!」
扉の向こうのセオドアに返事をすると、ノートもペンもそのままに、リオンは立ち上がった。
「カスタードパイには、勝てないでしょ」
そう言っていそいそと部屋を出ていく。
ユリウス・アーベルの手紙が置かれたままのノート。
風もないのに、かすかに紙が揺れた。
ノートの端に、文字が浮かび上がる。
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リオンとセオドアが揃って仕事部屋に戻ってきた。
二人は合わせたように同時に席に着く。
「……あれ?」
リオンはノートの文字に指を沿わせた。
『恥ずかしいから、読み上げるのはさすがにやめてくれ。
でも、ありがとう』
だが、文字は、ゆっくりと滲み、やがて消えた。
彼は、少しだけ頬をほころばせる。
「……僕もね、あなたの気持ちが分かるような気がするんだ」
指先の下は、もう、ただの白い紙。
「リオン、どうした」
セオドアの声に、顔を上げる。
「何でもないよ」
リオンは、そっと、ノートを閉じた。
再び顔を上げると、優しくこちらを見ているセオドアの黒い瞳。
リオンは、また、ふっと目をそらして窓を見た。
霧の街。
行き交う馬車の音が、遠くから聞こえてくる。
この部屋には今日も、インクと、古い紙の匂いがしている。




