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茹でガエルの日本人

掲載日:2026/02/09

 健一の給料明細を見た妻が、何も言わずに冷蔵庫を閉めた。

 手取り18万。額面は22万だが、そこから何やかんや引かれて18万。東京で家族三人、これで暮らせというのか。

「パパ、明日の遠足、お弁当いらない」

 小学4年の娘が言った。

「なんで」

「みんな、お弁当持ってこないもん」

 妻が娘の頭を撫でた。健一は新聞を畳んだ。

 求人広告を見る。どれも「業務委託」「成果報酬」「副業OK」。正社員なんて言葉、いつから見てないだろう。

 隣の佐藤さんちは先月、夜逃げした。

 部長は3ヶ月前から出社していない。鬱だという噂。後任は来ない。

 課長の俺が部長の仕事もやって、給料は据え置き。文句を言ったら、総務の女が言った。

「嫌なら辞めてもらって構いませんよ」

 辞められるわけがない。

 コンビニの前で、スーツ姿の男が座り込んでいた。50代くらいか。

 缶コーヒーを買って、渡した。

「ありがとうございます」

 男は缶を受け取らなかった。

「大丈夫です。まだ、そこまでじゃないんで」

 プライドか。俺も同じだ。

 駅前の本屋が潰れた。あそこで娘に絵本を買ったのは、いつだったか。

 跡地にはドラッグストア。健康食品と、湿布と、栄養ドリンク。老人と疲れたサラリーマンしか客がいない。

 電車の中で、高校生が喋っている。

「マジで日本出たい」

「どこ行くの」

「どこでもいい。ここよりマシなとこ」

 隣に座っていた老人が、舌打ちした。

「最近の若いもんは」

 高校生が睨み返した。

「お前らが全部食い潰したくせに」

 老人が何か言おうとしたが、結局黙った。

 会社に着いたら、机の上に辞令。

「業務効率化のため配置転換」

 子会社出向。給料は2割カット。

 人事に文句を言いに行ったら、部屋には誰もいなかった。

 貼り紙。

「ご用の方はメールでご連絡ください」

 俺は椅子に座って、天井を見た。

 それから、トイレに行って吐いた。

 家に帰ると、妻が泣いていた。

「お母さんが、入院するって」

「金は」

「ない」

 翌日、義母に会いに行った。病院のベッドで、義母は言った。

「もういいのよ。治療、やめるから」

「何言ってんですか」

「あんたたちに迷惑かけたくない」

 妻が泣いた。俺も泣きたかったが、泣けなかった。

 帰り道、妻が呟いた。

「いつから、こんなふうになっちゃったんだろうね」

 俺は答えなかった。

 答えられなかった。

 気づいたら、もう手遅れだった。


 その夜、娘が熱を出した。

 39度。

 妻が慌てて救急車を呼ぼうとしたが、俺は止めた。

「タクシーで行く」

「でも」

「救急車、有料になっただろ。3万だぞ」

 近所の夜間診療所に駆け込んだ。

 待合室には、同じように子供を抱えた親が10人以上。みんな、疲れ切った顔。

 順番が来るまで2時間待った。

 診察室で、医者は娘を一瞥しただけで言った。

「ただの風邪ですね。薬出しときます」

「ちゃんと診てください」

「診ましたよ。次の方」

 会計で8,000円。

 帰りのタクシーの中で、娘が言った。

「パパ、ごめんね」

「何が」

「お金、使わせちゃって」

 妻が娘を抱きしめた。俺は窓の外を見た。

 深夜のコンビニで、高校生がバイトしている。

 公園で、段ボールを敷いている人影。

 全部、日常。

 誰も驚かない。

 翌朝、出社したら、総務から呼び出された。

「桜井さん、ちょっとお話が」

 クビかと思った。

 違った。

「来月から、週休1日制に変更します」

「は?」

「会社の方針です。嫌なら」

「わかりました」

 帰りの電車。満員。

 誰も喋らない。みんな、下を向いてスマホを見ている。

 画面には、芸能人のスキャンダル、ゲームの広告、猫の動画。

 現実から、目を逸らすためのもの。

 俺もスマホを取り出した。

 ニュースアプリを開く。

「日本、また格下げ」

「出生率、過去最低」

「平均寿命、3年連続減少」

 全部、他人事みたいに書いてある。

 俺は、アプリを閉じた。

 家に帰ると、娘が宿題をしていた。

「パパ、日本ってさ、昔すごかったんでしょ?」

「ああ」

「今は?」

「...今は、どうなんだろうな」

 娘は教科書を閉じた。

「先生が言ってた。みんなで頑張れば、また良くなるって」

「そうだな」

 嘘だ。

 良くなるわけがない。

 でも、娘には言えない。

 夜、妻が眠った後、俺は一人でビールを飲んだ。

 第三のビール。350ml、98円。

 テレビでは、政治家が演説している。

「国民の皆様とともに、この難局を」

 俺はテレビを消した。

 窓から外を見る。

 向かいのマンション、また一部屋、明かりが消えた。

 空室か、夜逃げか。

 どっちでもいい。

 俺は、缶を握りつぶした。


 それから、3ヶ月が経った。

 会社は潰れなかった。給料は下がったが、まだある。

 娘の熱も下がった。義母も、まだ生きている。

 何も変わらない。

 悪くなっていくだけ。

 ある日、帰り道、駅前で若い奴が演説していた。

「このままじゃダメなんです! みんな、声を上げましょう!」

 誰も聞いていない。

 俺も、素通りしようとした。

 でも、足が止まった。

 若い奴と、目が合った。

「おじさん、どう思います? この国」

「知らねえよ」

「知らないで済むんですか?」

「済まないけど、どうしようもねえだろ」

 若い奴は、首を振った。

「諦めたら、終わりですよ」

「もう終わってんだよ」

 俺はそう言って、歩き出した。

 でも、10歩くらい歩いて、止まった。

 振り返った。

 若い奴は、まだそこに立っていた。誰も聞いていないのに、喋り続けている。

 バカだな、と思った。

 でも、羨ましかった。

 俺にも、あんな時代があった。

 俺は、ポケットの小銭を全部、若い奴の前に置いた。

「頑張れ」

「え、あの」

「何が変わるかは知らねえけど」

 若い奴が、笑った。

「ありがとうございます」

 家に帰ると、娘がまた宿題をしていた。

「パパ、今日ね、学校で先生が言ってた」

「何だ」

「大人になったら、どんな仕事したい?って。私、わかんなかった」

「そうか」

「パパは、今の仕事、好き?」

 俺は、しばらく黙った。

「好きじゃない。でも、やるしかないんだ」

「そっか」

 娘は、また教科書を開いた。

 俺は、娘の頭を撫でた。

「でもな」

「ん?」

「お前が大人になる頃には、もうちょっとマシになってるかもな」

「ほんと?」

「わかんない。でも、そうなるといいな」

 娘が、笑った。

 その笑顔を見て、俺は思った。

 諦めるのは、まだ早いのかもしれない。

 変わらないかもしれない。

 でも、変わらないと決めつけるのも、違う気がする。

 翌朝、また満員電車。

 隣のサラリーマンが、小さく呟いた。

「もう、やってらんねえ」

 俺も、小さく呟いた。

「だよな」

 男が、俺を見た。

「でも、やるしかないんだよな」

「だよな」

 二人で、笑った。

 電車が、駅に着く。

 ドアが開く。

 俺たちは、また今日も、降りる。

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