茹でガエルの日本人
健一の給料明細を見た妻が、何も言わずに冷蔵庫を閉めた。
手取り18万。額面は22万だが、そこから何やかんや引かれて18万。東京で家族三人、これで暮らせというのか。
「パパ、明日の遠足、お弁当いらない」
小学4年の娘が言った。
「なんで」
「みんな、お弁当持ってこないもん」
妻が娘の頭を撫でた。健一は新聞を畳んだ。
求人広告を見る。どれも「業務委託」「成果報酬」「副業OK」。正社員なんて言葉、いつから見てないだろう。
隣の佐藤さんちは先月、夜逃げした。
部長は3ヶ月前から出社していない。鬱だという噂。後任は来ない。
課長の俺が部長の仕事もやって、給料は据え置き。文句を言ったら、総務の女が言った。
「嫌なら辞めてもらって構いませんよ」
辞められるわけがない。
コンビニの前で、スーツ姿の男が座り込んでいた。50代くらいか。
缶コーヒーを買って、渡した。
「ありがとうございます」
男は缶を受け取らなかった。
「大丈夫です。まだ、そこまでじゃないんで」
プライドか。俺も同じだ。
駅前の本屋が潰れた。あそこで娘に絵本を買ったのは、いつだったか。
跡地にはドラッグストア。健康食品と、湿布と、栄養ドリンク。老人と疲れたサラリーマンしか客がいない。
電車の中で、高校生が喋っている。
「マジで日本出たい」
「どこ行くの」
「どこでもいい。ここよりマシなとこ」
隣に座っていた老人が、舌打ちした。
「最近の若いもんは」
高校生が睨み返した。
「お前らが全部食い潰したくせに」
老人が何か言おうとしたが、結局黙った。
会社に着いたら、机の上に辞令。
「業務効率化のため配置転換」
子会社出向。給料は2割カット。
人事に文句を言いに行ったら、部屋には誰もいなかった。
貼り紙。
「ご用の方はメールでご連絡ください」
俺は椅子に座って、天井を見た。
それから、トイレに行って吐いた。
家に帰ると、妻が泣いていた。
「お母さんが、入院するって」
「金は」
「ない」
翌日、義母に会いに行った。病院のベッドで、義母は言った。
「もういいのよ。治療、やめるから」
「何言ってんですか」
「あんたたちに迷惑かけたくない」
妻が泣いた。俺も泣きたかったが、泣けなかった。
帰り道、妻が呟いた。
「いつから、こんなふうになっちゃったんだろうね」
俺は答えなかった。
答えられなかった。
気づいたら、もう手遅れだった。
その夜、娘が熱を出した。
39度。
妻が慌てて救急車を呼ぼうとしたが、俺は止めた。
「タクシーで行く」
「でも」
「救急車、有料になっただろ。3万だぞ」
近所の夜間診療所に駆け込んだ。
待合室には、同じように子供を抱えた親が10人以上。みんな、疲れ切った顔。
順番が来るまで2時間待った。
診察室で、医者は娘を一瞥しただけで言った。
「ただの風邪ですね。薬出しときます」
「ちゃんと診てください」
「診ましたよ。次の方」
会計で8,000円。
帰りのタクシーの中で、娘が言った。
「パパ、ごめんね」
「何が」
「お金、使わせちゃって」
妻が娘を抱きしめた。俺は窓の外を見た。
深夜のコンビニで、高校生がバイトしている。
公園で、段ボールを敷いている人影。
全部、日常。
誰も驚かない。
翌朝、出社したら、総務から呼び出された。
「桜井さん、ちょっとお話が」
クビかと思った。
違った。
「来月から、週休1日制に変更します」
「は?」
「会社の方針です。嫌なら」
「わかりました」
帰りの電車。満員。
誰も喋らない。みんな、下を向いてスマホを見ている。
画面には、芸能人のスキャンダル、ゲームの広告、猫の動画。
現実から、目を逸らすためのもの。
俺もスマホを取り出した。
ニュースアプリを開く。
「日本、また格下げ」
「出生率、過去最低」
「平均寿命、3年連続減少」
全部、他人事みたいに書いてある。
俺は、アプリを閉じた。
家に帰ると、娘が宿題をしていた。
「パパ、日本ってさ、昔すごかったんでしょ?」
「ああ」
「今は?」
「...今は、どうなんだろうな」
娘は教科書を閉じた。
「先生が言ってた。みんなで頑張れば、また良くなるって」
「そうだな」
嘘だ。
良くなるわけがない。
でも、娘には言えない。
夜、妻が眠った後、俺は一人でビールを飲んだ。
第三のビール。350ml、98円。
テレビでは、政治家が演説している。
「国民の皆様とともに、この難局を」
俺はテレビを消した。
窓から外を見る。
向かいのマンション、また一部屋、明かりが消えた。
空室か、夜逃げか。
どっちでもいい。
俺は、缶を握りつぶした。
それから、3ヶ月が経った。
会社は潰れなかった。給料は下がったが、まだある。
娘の熱も下がった。義母も、まだ生きている。
何も変わらない。
悪くなっていくだけ。
ある日、帰り道、駅前で若い奴が演説していた。
「このままじゃダメなんです! みんな、声を上げましょう!」
誰も聞いていない。
俺も、素通りしようとした。
でも、足が止まった。
若い奴と、目が合った。
「おじさん、どう思います? この国」
「知らねえよ」
「知らないで済むんですか?」
「済まないけど、どうしようもねえだろ」
若い奴は、首を振った。
「諦めたら、終わりですよ」
「もう終わってんだよ」
俺はそう言って、歩き出した。
でも、10歩くらい歩いて、止まった。
振り返った。
若い奴は、まだそこに立っていた。誰も聞いていないのに、喋り続けている。
バカだな、と思った。
でも、羨ましかった。
俺にも、あんな時代があった。
俺は、ポケットの小銭を全部、若い奴の前に置いた。
「頑張れ」
「え、あの」
「何が変わるかは知らねえけど」
若い奴が、笑った。
「ありがとうございます」
家に帰ると、娘がまた宿題をしていた。
「パパ、今日ね、学校で先生が言ってた」
「何だ」
「大人になったら、どんな仕事したい?って。私、わかんなかった」
「そうか」
「パパは、今の仕事、好き?」
俺は、しばらく黙った。
「好きじゃない。でも、やるしかないんだ」
「そっか」
娘は、また教科書を開いた。
俺は、娘の頭を撫でた。
「でもな」
「ん?」
「お前が大人になる頃には、もうちょっとマシになってるかもな」
「ほんと?」
「わかんない。でも、そうなるといいな」
娘が、笑った。
その笑顔を見て、俺は思った。
諦めるのは、まだ早いのかもしれない。
変わらないかもしれない。
でも、変わらないと決めつけるのも、違う気がする。
翌朝、また満員電車。
隣のサラリーマンが、小さく呟いた。
「もう、やってらんねえ」
俺も、小さく呟いた。
「だよな」
男が、俺を見た。
「でも、やるしかないんだよな」
「だよな」
二人で、笑った。
電車が、駅に着く。
ドアが開く。
俺たちは、また今日も、降りる。




