悪役令嬢は断罪を拒否する 〜愛されなくていいので、国を立て直します〜
【序章 断罪の舞踏会】
王宮の大広間は、いつもより眩しかった。
無数のシャンデリアが天井から垂れ下がり、蝋燭の炎が揺れるたび、黄金の装飾が赤く、白く、きらめいて見える。その光が、今はひどく目に痛かった。
――どうして、私はここに跪いているのだろう。
公爵令嬢アリシア・ド・セラフィムは、冷たい大理石の床に膝をついたまま、そう思った。背筋を伸ばそうとしても、脚に力が入らない。真紅のドレスの裾が床に広がり、ほどけた金髪のリボンが肩口に垂れている。
視線を上げる勇気はなかった。
周囲から注がれる無数の目――貴族たちの値踏みするような視線、招かれた民衆の好奇に満ちた眼差し。それらが一斉に自分へ向けられているのが、肌で分かった。
まるで罪人を見る目だ、とアリシアは思った。
「――公爵令嬢アリシア・ド・セラフィム」
その声で、否応なく顔を上げさせられる。
玉座の前に立っていたのは、第一王子エドワード・アルバートだった。金髪碧眼、整った顔立ち。王族の象徴である剣を帯び、背筋を伸ばしたその姿は、かつてアリシアが「未来の王」と信じて疑わなかった青年だ。
「お前との婚約は、本日限りで破棄する」
言葉は、あまりにもはっきりしていた。
一瞬、耳が理解を拒んだ。
「……え?」
思わず漏れた声は、自分のものとは思えないほどか細い。
ざわ、と周囲がどよめく。だがエドワードは続けた。
「そして――」
彼の視線が、隣に立つ少女へ向かう。
白いドレスに身を包んだ少女――エリス・ミュラー。平民出身でありながら“聖女”と呼ばれ、王都で人気を集めている存在だ。潤んだ瞳を伏せ、今にも泣き出しそうな表情で立っている。
「エリス嬢に対して行った数々の蛮行。決して許されるものではない。よって、ここに断罪を言い渡す」
断罪。
その言葉が、胸に落ちた瞬間。
「ち、違います……!」
考えるより先に、アリシアの口が動いていた。
その瞬間だった。
乾いた音が、大広間に響き渡る。
――ぱん。
次の瞬間、視界が大きく揺れた。
何が起きたのか理解するより先に、頬に熱が走る。遅れて、痛みが押し寄せてきた。息が詰まり、膝がさらに沈む。
床に、赤い雫が落ちた。
自分の血だと気づくのに、少し時間がかかった。
「黙れ」
低く、冷たい声。
「裏切り者め」
エドワードが、アリシアを見下ろしていた。
「以前から気に入らなかったのだ。公爵家の権勢を笠に着て、平民を見下し、勝手に改革ごっこをする女など、未来の王妃に相応しくない」
違う。
そう言いたかった。
見下したことなど一度もない。救おうとしただけだ。学校を建て、孤児に食事を与え、領地の民の声を聞いてきた。それが、どうして罪になるのか。
だが、言葉は喉で凍りついた。
「まぁ……」
か細い声が響く。
「私のせいでしたら、どうかお許しください……」
エリスだった。
床に伏し、震える声でそう言いながら、ちらりとアリシアを見る。その視線は、ほんの一瞬だけ、確かに――。
アリシアは息を呑んだ。
だが、次の瞬間には歓声が上がる。
「聖女様を泣かせるなんて!」
「やはり悪女だったか!」
「自業自得だ!」
言葉の刃が、容赦なく突き刺さる。
「アリシア殿」
聞き慣れた声に、心臓が跳ねた。
宰相ベルナー・フォン・クラウゼ。
亡き父の代からセラフィム家を支えてきた人物。幼い頃、助言をくれたこともある。信頼していた――いや、信じていた。
「若いとはいえ、その振る舞いは見過ごせませんな」
深刻そうに首を振る、その仕草が、今はひどく遠く見えた。
そして、最後の宣告。
「これより告げる」
エドワードの声が、大広間を支配する。
「アリシア・ド・セラフィムは、全爵位および領地財産を剥奪。王国より永久追放とする。明朝、国境へ送致せよ」
静寂。
次の瞬間、割れんばかりの歓声。
アリシアは、ただ呆然とその光景を見ていた。
エドワードとエリスが並び立ち、誇らしげに笑っている。まるで最初から、この結末が用意されていたかのように。
護衛の手が、乱暴に腕を掴む。
引きずられるように歩かされながら、ふと視界の端に、青年の姿が映った。
近衛騎士の一人。
名も知らないその青年だけが、歯を食いしばり、目を伏せていた。
――どうして、そんな顔を。
問いかける暇もなく、扉が閉ざされる。
その音を最後に、アリシアの世界は闇に沈んだ。
こうして、公爵令嬢アリシア・ド・セラフィムは、罪人として王宮を追われた。
まだ、自分の運命がここから大きく動き出すことも知らぬまま。
【第二章 追放】
馬車の揺れは、容赦がなかった。
石畳の継ぎ目に車輪が跳ねるたび、背中の骨が鳴るような感覚がする。鉄格子の向こう、初夏の光が白く眩んで、目を細めると余計に頭が痛んだ。
アリシア・ド・セラフィムは、馬車の床にうずくまっていた。
真紅のドレスはない。髪飾りもない。指輪も、香水も、なにもかも。代わりに身につけさせられたのは、粗い麻布の服と、手首の冷たい鉄だけだった。
手錠は重く、肌を擦るたびに鈍い痛みが走る。
――あれは夢じゃない。
思い出そうとしなくても、勝手に浮かぶ。
シャンデリアの光。笑い声。乾いた平手の音。頬の熱と、血の味。
誰かが笑った。誰かが叫んだ。誰も止めなかった。
そして宰相ベルナーが、首を振った。
あの首を振る動作が、今も脳裏に焼き付いている。まるで「仕方がない」と言うみたいに。まるで「当然」と言うみたいに。
アリシアは、膝の上で指を握った。
鉄の輪が指の根元に食い込み、痛みがじわりと広がる。その痛みだけが、自分がまだ生きている証拠みたいだった。
「おい、“元”令嬢様」
外から、笑い混じりの声がした。
御者台の兵士が、馬を叩きながら振り返る。顔は見えない。声だけで十分だった。
「腹減ったか? 貴族様の舌には硬いパンは合わねえか」
何かが投げ込まれた。床に落ちた、硬いパンの塊。
乾いた音がした。
アリシアは、手を伸ばさなかった。
伸ばすと、負ける気がした。何に負けるのか分からないのに、そう思った。
「要らねえのか? 気取ってんじゃねえよ」
馬車が揺れる。
鉄格子の隙間から見える空は、驚くほど青かった。
――私は、どこで間違えたのだろう。
問いは、答えを持たないまま胸に残る。いや、答えはある。あるのに、口にした瞬間、自分が崩れる気がした。
改革に手を出したから?
領地の税を見直したから?
孤児院に金を回したから?
それとも――あの男の“都合のいい婚約者”で居続けたから?
考えるほど、喉が詰まっていく。
涙は出なかった。
泣けば楽になると知っているのに、泣けない。
泣く場所がない。泣いていい相手がいない。泣けば、また笑われる。それが身体の奥に染みついてしまっている。
馬車の揺れの中、ふと、母の声が思い出された。
『人はね、アリシア。目の前の弱いものを救った自分を“正しい”と思いたがるの。だから本当に難しいのは、その“正しさ”の裏側を見ることよ』
母エレノアは、フランベールの人だった。香りの記憶がある。ラベンダー。あの庭。夏の光。
父ダリウスは、よく言っていた。
『誇りは、勝つために持つものじゃない。折れないために持つものだ』
その誇りが、今は自分の喉を締める。
折れないために持ってきたのに、折れそうな時ほど、重い。
*
馬車が、急に軋んだ。
速度が落ちる。車輪が砂利を踏む音に変わる。馬の息が荒くなる。
「関所だ。降ろせ」
別の兵士の声。
扉が乱暴に開けられ、外の光が容赦なく流れ込む。アリシアは瞬きをした。目が痛む。
「立て。歩けるな?」
腕を掴まれ、引きずられるように馬車から降ろされる。
足裏に土の感触。熱い。陽射しが刺す。
辺境の小さな関所だった。塀は低く、見張りの兵も少ない。通行人の姿もほとんどなく、空気は乾いている。
遠くで鳥が鳴いた。
平和だ、と一瞬思った。
そして、その平和が“嘘”だと気づくまで、数秒もかからなかった。
「――っ」
最初に聞こえたのは、何かが裂けるような音だった。
次に、悲鳴。
「ギャッ……!」
護送兵の一人が、喉を押さえたまま膝をつき、倒れた。喉元から血が噴き出し、地面が赤く染まっていく。
アリシアの呼吸が止まる。
何が起きたのか理解する前に、もう一人が背後から斬られ、崩れ落ちた。
――暗殺。
その単語が頭に浮かんだ瞬間、身体の芯が凍る。
茂みが揺れた。
黒ずくめの男たちが、静かに現れる。顔は覆面。足取りは軽く、躊躇がない。人数は十を超えていた。
頭領らしき男が、低く言った。
「対象を始末しろ。命令だ」
対象。
その言葉が、まっすぐ自分に刺さる。
アリシアは、喉の奥で息を吸った。肺が痛い。心臓が暴れている。血の匂いが鼻に入る。
護送兵の手が、アリシアの手錠を外した。
カラン、と鉄が地面に落ちる。
解放ではない。
――殺しやすくするためだ。
アリシアは、後ずさった。
脚が言うことをきかない。膝が笑う。足首が固まる。なのに、逃げないと死ぬ。
馬車の陰に身を滑り込ませ、息を殺す。
背中に木の板が当たり、ささくれが服越しに刺さる。痛い。痛いのがありがたい。現実だと分かる。
暗殺者たちの足音が近づく。
砂利を踏む音が、ひどく大きく聞こえる。
――ベルナー。
名前が浮かぶ。
断罪の場で、あの男は首を振った。あれは“忠告”じゃない。“宣告”だった。公爵家の娘は、もう不要だ、と。
自分は追放されただけじゃない。始末される。
喉が震えた。
叫びそうになる。誰か助けて、と。
でも誰が?
王宮の大広間で、誰も助けなかったのに。
その瞬間、風を切る音がした。
ヒュッ――。
矢が飛ぶ音。
黒装束の一人が、胸を押さえて倒れた。続けてもう一本。別の男が喉を押さえ、崩れる。
「……伏兵だと?」
頭領が顔を上げた。
茂みの向こうから、剣を抜いた数人の影が飛び出してくる。先頭の青年が、叫んだ。
「公爵令嬢殿下! ご無事ですか!」
その声。
アリシアは息を呑んだ。
昨夜――自分が引きずられていくのを、目を伏せて見ていた青年だ。近衛騎士。苦しそうな顔をしていた、あの男。
青年は、躊躇なく暗殺者の列へ飛び込み、剣を振るった。動きは鋭い。だが数が違う。囲まれるのは時間の問題だった。
「リヒト隊長!」
仲間の兵が叫ぶ。
――リヒト。
その名が、胸の奥に落ちた。
リヒト・ヴァイス。
彼は剣で暗殺者を押し返しながら、何度もアリシアの方を見た。助けるために来た、という目だった。
アリシアは唇を噛んだ。
どうして。
どうして、今さら。
でも、考える暇はない。
暗殺者の刃がリヒトの肩を裂いた。血が飛び、彼の身体が揺れる。仲間が支えるが、次の刃が迫る。
その時――。
馬の嘶きが、空気を裂いた。
「ヒヒィーン!」
黒い馬が一頭、暴風のように戦場へ突っ込んでくる。土が跳ね、暗殺者が一瞬、足を止めた。
馬上にいたのは、黒髪の青年だった。
旅装のような服。だが、その姿勢は“旅人”じゃない。剣を抜く手に迷いがなく、視線が、冷たい。
「彼女には指一本触れさせない」
声が、低いのに通った。
青年は馬上から飛び降りると同時に、剣を閃かせた。
一太刀。
暗殺者が二人、同時に崩れた。
次の一歩で、間合いが支配される。剣が走るたび、黒装束が倒れる。血の匂いが濃くなる。
頭領が舌打ちした。
「……増援か。引け!」
暗殺者たちが散り散りに後退し、茂みへ消えていく。
「逃がすな!」
リヒトが追おうとした。
だが、黒髪の青年が短く言った。
「追うな。深追いは死ぬ」
その声に、リヒトの足が止まる。悔しそうに歯を食いしばり、剣を下ろした。
静寂が戻る。
……いや、戻らない。
血の匂いと、死体と、震える呼吸だけが残った。
アリシアは、馬車の陰から出た。
足がもつれる。膝が落ちそうになる。ここまで耐えていたものが、遅れて崩れてくる。
「アリシア様!」
リヒトが駆け寄る。
その顔は青白い。肩の傷から血が流れている。なのに彼は、自分の痛みを気にしていない目だった。
「……ご無事ですか」
アリシアは口を開いた。
ありがとう、と言いたかった。
でも声が出なかった。
喉が、震えた。
次の瞬間、涙が出た。
止まらない。
自分でも驚くほど、溢れた。
怖かった。死ぬと思った。誰も助けないと思った。なのに、助けが来た。
その事実だけで、胸が潰れそうになる。
黒髪の青年が近づいてきた。
距離の取り方が、貴族のそれに似ている。無駄に近づかない。だが冷たくもない。視線が、よく人を見ている。
「お怪我は」
青年はそう言って、アリシアの手首――手錠の跡を見た。触れない。だが、見逃さない。
「……ありません」
アリシアはやっと言えた。
青年は小さく頷き、名乗った。
「レオポルド・フランベール」
その名に、アリシアの呼吸が止まる。
フランベール。
母の故国。
アリシアは、無意識に口を動かしていた。
「……フランベール、の……?」
「王弟だ」
淡々とした答え。
アリシアは、眩暈がした。
王弟が、どうしてこんな場所にいる。どうして自分を助けた。どうして――。
問いが多すぎて、声にならない。
レオポルドは、アリシアを見下ろさなかった。膝を折り、視線の高さを合わせる。
「あなたの母君、エレノア・セラフィムの名は、我が国でも知られている」
母の名が出た瞬間、胸の奥が熱くなった。
アリシアは唇を噛んだ。泣きたくないのに、涙が落ちる。
「あなたをここで死なせるつもりはない」
レオポルドの声は、静かだった。
静かなのに、奇妙な確信があった。口先じゃない。約束として言っている。
リヒトが、血の滲む肩を押さえながら頭を下げた。
「公爵令嬢殿下……俺は、昨夜……」
言葉が続かない。悔しさが顔に出ている。
アリシアは、彼を見た。
昨夜、目を伏せていた青年。
その目が今は、真正面から自分を見ている。逃げない目だ。
アリシアの胸が、きゅう、と縮んだ。
怒るべきなのか、感謝すべきなのか、分からない。
ただ――一つだけ分かった。
自分は、まだ終わっていない。
終わらせてはいけない。
アリシアは、震える息を整えて、レオポルドを見た。
「……どうして、私を」
声が掠れた。
レオポルドは一瞬だけ黙り、言った。
「理由は道中で話す。ここは危険だ」
彼は馬の手綱を引き寄せ、アリシアに手を差し出す。
「乗れ」
アリシアは、その手を見た。
白い手袋。血はついていない。だが、さっき確かに人を斬った手だ。
怖い。
でも。
この手を取らなければ、また一人になる。
アリシアは唇を開いた。
「……私を、導いてください」
言った瞬間、喉の奥が震えた。
レオポルドは、ただ頷いた。
「任せろ」
リヒトが剣を収め、アリシアの側に立つ。
「俺も、同行します。……今度は目を逸らしません」
アリシアは返事をしなかった。
返事をする余裕がない。
けれど、足元の土の熱と、頬に残る昨夜の痛みと、いま差し出された手の温度だけは、確かに感じていた。
そしてその感覚が、ひどく現実だった。
――生きている。
アリシアは、馬の鞍へ手をかけた。
ここから先は、もう“追放されるだけの令嬢”ではいられない。
そう思ってしまった。
【第三章 亡命の旅路】
馬の背は、想像していたよりも高かった。
レオポルドの差し出した手を借りて鞍に乗った瞬間、視界が一段上がる。風の当たり方が変わり、遠くの地平が見えた。
――逃げている。
その事実を、身体が遅れて理解する。
後ろを振り返れば、関所と血と死体がある。振り返らなければ、前に続く道がある。
アリシアは、振り返らなかった。
黒馬が歩き出す。蹄が地面を叩く音が、一定のリズムで続く。リヒトと、彼の部下が数名、周囲を警戒しながら進む。誰も多くを語らない。
静かだった。
だがその静けさは、安心ではない。嵐の前の、息を潜めた時間だ。
「……痛みますか」
前を歩くリヒトが、振り返らずに言った。
アリシアは一瞬、何のことか分からず、次いで頬に残る鈍い熱を思い出した。
「……ええ。でも、大丈夫です」
声が、思ったより落ち着いていた。
リヒトはそれ以上何も言わなかった。謝罪も、言い訳もない。ただ、剣を握る手に力がこもる。
それでいい、とアリシアは思った。
言葉よりも、行動の方が、今は重い。
*
野営は、日が沈む前に始まった。
人里を避け、森の外れに小さな焚き火を起こす。火の匂いが鼻をつき、煙が目に染みる。
アリシアは、毛布を肩に掛けられながら、火を見つめていた。
揺れる炎。
その動きに、断罪の夜のシャンデリアが重なる。一瞬、息が詰まる。
「無理に思い出さなくていい」
レオポルドが、向かいに腰を下ろした。
声は低く、押しつけがましさがない。
「忘れろ、とは言わない。ただ……今は、休め」
アリシアは、焚き火から視線を外し、彼を見た。
整った顔立ちだが、王宮の人間に多い“作られた余裕”がない。戦場を知る目をしている。
「……どうして、あなたは私を助けたのですか」
ようやく、聞けた。
レオポルドは、少しだけ間を置いた。
「理由は一つじゃない」
そう前置きしてから、続ける。
「君の母君、エレノアは、我が国にとって恩人だった。思想家であり、外交官であり……何より、人の痛みを軽くする術を知っていた」
アリシアの胸が、きゅっと縮む。
母のことを、こうして語る人は久しぶりだった。
「彼女は言っていた。『この国の未来は、国境の外にある』と」
焚き火が、ぱちりと音を立てる。
「君が追放されたと聞いたとき、彼女の言葉を思い出した。――だから動いた」
アリシアは、目を伏せた。
母の言葉が、まだ誰かの中で生きている。それだけで、胸が熱くなる。
「……それだけ、ですか」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
レオポルドは、微かに笑った。
「それだけではない」
彼は、焚き火に枝を一本くべる。
「君が行ってきた改革について、調べさせてもらった。表に出ていないことも含めてだ」
アリシアの背筋が、僅かに伸びる。
「孤児院への資金供与。農地改革。関税の見直し。どれも、短期的には王家や貴族に不評だが……長期的には、国を救う手だ」
レオポルドは、はっきりと言った。
「愚かなことをした令嬢だとは、思っていない」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
重く、温かく。
アリシアは、何かを言おうとして、やめた。代わりに、深く息を吸う。
泣かない。
今は、泣かない。
*
旅は、静かに続いた。
昼は移動し、夜は隠れる。街道を避け、小舟で川を下り、時には森を抜ける。
その中で、アリシアは少しずつ話を聞いた。
リヒトから。
王都の現状を。
「物価は上がり続けています。小麦は去年の倍。税は減ったはずなのに、暮らしは楽になっていない」
「……なぜ」
「国債です。宰相が刷らせました。『今を凌げばいい』と」
アリシアは、歯を食いしばった。
「軍備拡張も、同じ理由で。外に敵を作れば、内の不満は逸れる。そう考えたのでしょう」
「……民を、道具にして」
「はい」
リヒトの声は、淡々としている。
「殿下は、疑いませんでした。信じたいものしか、見なくなっていた」
アリシアは、目を閉じた。
思い出すのは、かつてのエドワードだ。理想を語り、剣を振るい、国を背負う覚悟を口にしていた青年。
――いつから、変わったのだろう。
それとも、最初から、そうだったのか。
「……私は、間に合わなかった」
思わず、漏れた。
リヒトは即答しなかった。
代わりに、レオポルドが言った。
「いいや」
短く、だが強い声。
「間に合わなかったのは、彼らだ」
アリシアは、彼を見た。
「君は、追い出されただけだ。終わったわけじゃない」
その言葉が、少しずつ、心に染みていく。
*
二ヶ月後。
フランベール公国の都が、視界に入った。
白い石の城壁。開かれた門。人々の行き交う声。
空気が、違う。
王都のような張り詰めた緊張がない。怒りも、恐怖も、ここでは主役じゃない。
アリシアは、思わず息を吐いた。
迎えに出ていた公国の兵たちは、彼女を好奇の目で見なかった。値踏みもしない。ただ、淡々と礼を取る。
王宮での謁見。
フランベール公王と王妃は、アリシアを“客”として迎えた。
「エレノアの娘よ」
王妃は、柔らかく微笑んだ。
「よく、生きて来ましたね」
その一言で、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ溶けた。
――生きていていい。
初めて、そう言われた気がした。
*
夜。
用意された部屋で、アリシアは一人、窓辺に立っていた。
遠くで、人の笑い声がする。市場の灯りが、星のように揺れている。
自由だ。
ここでは、誰も彼女を断罪しない。
それなのに――。
アリシアは、胸に手を当てた。
心が、落ち着かない。
祖国が、頭から離れない。
崩れていく王都。煽られる民。嘘に踊る群衆。
――このまま、ここに居ていいのか。
扉が、控えめに叩かれた。
「……入って」
レオポルドだった。
「眠れないか」
「ええ」
アリシアは、正直に答えた。
レオポルドは、窓の外を一緒に見た。
「帰りたいか」
直球だった。
アリシアは、少し考えた。
「……いいえ」
それも、正直だった。
「戻らなければ、と思っています」
言葉にした瞬間、腹の奥が据わる。
「逃げ延びるだけでは、終われません。私は……」
アリシアは、ゆっくりと言った。
「私の国が、壊れていくのを、見てしまった」
レオポルドは、黙って聞いている。
「見た以上、知らなかったふりはできません」
アリシアは、窓の外ではなく、内側を見つめていた。
「私は、王妃になりたかったわけでも、称えられたかったわけでもない。ただ……」
一拍、息を吸う。
「間違っているものを、間違っていると言いたかった」
レオポルドは、短く息を吐いた。
「なら」
彼は、アリシアを見た。
「準備をしよう」
アリシアは、目を上げる。
「戻るための準備だ。剣ではなく、言葉で」
その瞬間、胸の奥で、何かが静かに燃え始めた。
――私は、終わらない。
追放は、終わりじゃない。
ここからだ。
アリシアは、深く頷いた。
「はい」
夜空に、星が瞬いた。
【第四章 火種】
朝は、静かに始まった。
フランベール公国の王宮に差し込む光は、グラン=フェルデ王国のそれよりも柔らかい。色の違いではない。空気が違うのだと、アリシアは思った。
机の上に広げられた紙束。
王国から密かに届いた報告書だった。
物価の推移、税収の内訳、徴兵数、疫病の流行地域――数字と事実が並ぶ。どれも、彼女がかつて懸念していた通りの結果だった。
紙をめくる指が、止まる。
〈王都南区、パンの暴動。死者三名〉
アリシアは、目を閉じた。
南区には、かつて彼女が支援した孤児院がある。小さな石造りの建物。屋根の修繕費を出したのは、まだ公爵家が健在だった頃だ。
――あの子たちは、生きているだろうか。
「……考え込んでいる顔だな」
部屋の入口から、レオポルドの声がした。
彼は外套を腕に掛け、すでに外出の支度を終えているようだった。
「王宮の会議ですか」
「いや、市場だ」
アリシアは顔を上げる。
「市場?」
「君に見せたいものがある」
*
フランベールの市場は、活気に満ちていた。
香辛料の匂い、焼き菓子の甘い香り、布商人の呼び声。人々は値段を交渉し、笑い、時に口論しながらも、そこには恐怖がなかった。
アリシアは、歩きながら何度も足を止めた。
女性が商会を切り盛りしている。異国の商人が堂々と通りを歩いている。子どもが裸足で走り回っても、誰も眉をひそめない。
「……不思議ですね」
思わず、口をついた。
「何がだ」
「誰も、怯えていない」
レオポルドは、頷いた。
「怯えなくていい仕組みだからだ」
彼は、通りの先を指す。
「税は一定で、理由なく変わらない。徴兵は議会の承認が必要だ。情報は隠されない」
アリシアは、喉が鳴るのを感じた。
それらは、彼女がかつて王国で提案し、却下され続けたことだった。
「理想論だと、笑われました」
「理想だと思うのは、やったことがないからだ」
レオポルドの言葉は、淡々としている。
「やれば、現実になる」
市場の端で、老女が果物を落とした。周囲の人間が自然に拾い、手渡す。礼も過剰な感謝もない。ただ、それが“普通”なのだ。
アリシアの胸が、静かに締めつけられた。
――この普通を、私は奪われた国に取り戻したい。
その想いが、はっきりと形を持ち始める。
*
その夜、アリシアは紙に向かっていた。
羽ペンが、音もなく走る。
計画ではない。宣言でもない。
文章だった。
民に向けた言葉。貴族に向けた言葉。そして、かつての自分自身に向けた言葉。
何が間違っていたのか。
なぜ、人は簡単に嘘を信じるのか。
どうすれば、再び同じ過ちを繰り返さずに済むのか。
感情を煽る文言は、意識的に削った。
敵を名指しで罵る言葉も、書かなかった。
必要なのは、怒りではない。
考えるための材料だ。
夜半、扉が叩かれた。
「入って」
リヒトだった。
「……これを」
彼は、封のされた書簡を差し出した。
アリシアは、開いた瞬間に息を呑む。
王都からの密書だった。
〈即位式、三週間後〉
紙が、かすかに震える。
「早すぎます」
「焦っているのでしょう」
リヒトの声は低い。
「民心が、持たない」
アリシアは、机に手をついた。
三週間。
短い。だが、何もできないほど短くはない。
「……動きます」
リヒトは、即座に膝をついた。
「命じてください」
アリシアは、一瞬だけ目を伏せた。
そして、顔を上げる。
「これは、命令ではありません」
はっきりと、言った。
「私が戻る理由は、復讐ではない。誰かを倒すためでもない」
リヒトは、黙って聞いている。
「国を、壊さないためです」
アリシアは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「だから、私に従うのではなく、共に考えてください」
一拍の沈黙。
やがて、リヒトは深く頭を下げた。
「――承知しました」
その声に、迷いはなかった。
*
数日後。
フランベール公国の裏で、静かに動きが始まった。
商人を通じて流れる情報。
学者による匿名の論文。
民の噂話として広がる、数字と事実。
どれも、アリシアの言葉を元にしていた。
名前は、出さない。
英雄も、作らない。
ただ、疑問だけを残す。
――本当に、敵は外にいるのか。
――本当に、王は民の声を聞いているのか。
火は、小さく灯った。
だが、確かに燃えている。
アリシアは、夜ごと窓辺に立ち、王国の方向を見つめる。
恐怖は、ない。
あるのは、覚悟だけだ。
――私は、悪役でいい。
それで、国が生き延びるなら。
風が、カーテンを揺らした。
【第五章 名を伏せた声】
王都では、空気が変わり始めていた。
誰かが旗を掲げたわけでもない。
誰かが王を名指しで罵ったわけでもない。
ただ――人々が、立ち止まるようになった。
朝のパン屋の前。
酒場の片隅。
井戸端の女たちの輪。
「……最近、パンの値段、また上がったよな」
「戦の準備だってさ。隣国が怪しいらしい」
「でもさ……本当に、全部あいつらのせいか?」
その一言が、空気を裂いた。
それまでは誰もが、同じ言葉を繰り返していた。
聖女が言うから。
王太子が言うから。
宰相が言うから。
だが今は違う。
「……この前読んだ話だと、去年から税は三回も変わってるらしい」
「徴兵されたの、うちの隣だけだぞ。貴族の家は誰も出てない」
「おかしいよな」
小さな疑問。
だが、それは消えなかった。
誰かが答えを与えないからだ。
だからこそ、人々は考え始める。
*
王宮の執務室。
エドワードは、机を拳で叩いた。
「なぜ、収まらない!」
書類が散らばり、インク瓶が倒れる。
「聖女の説法も、祝祭も、減税の布告も……全部やったはずだ!」
玉座の間に集められた重臣たちは、視線を逸らした。
ベルナー宰相だけが、重々しく口を開く。
「殿下……民は、飢えています」
「だからこそ、敵を示してやっているだろう!」
エドワードは、苛立ちを隠さない。
「隣国だ。異民族だ。移民だ。あれほど分かりやすい敵がいるのに、なぜ――」
「……疑問が、広がっております」
若い文官が、震える声で告げた。
「数字や記録が、出回っておりまして。出所は不明ですが……」
「誰が流している」
「それが……」
文官は、唇を噛んだ。
「誰の名前も、ありません」
沈黙。
ベルナーの背中に、冷たい汗が伝った。
――名がない。
――旗がない。
――指導者がいない。
それは、最も厄介な火だ。
「……調べろ」
ベルナーは低く命じた。
「噂の出所を一つ残らず洗え。書いた者、配った者、話した者……」
「しかし宰相閣下、民の噂話を全て取り締まるのは――」
「構わん」
ベルナーの目は、濁っていた。
「恐怖が足りぬのだ」
*
その頃。
フランベール公国の一室で、アリシアは静かに報告を聞いていた。
「……検問が増えました」
リヒトが告げる。
「王都南区では、夜間外出禁止令も」
「死人は?」
「三名。いずれも、噂を広めたと疑われた商人です」
アリシアは、目を閉じた。
胸の奥が、きしむ。
――分かっていた。
――こうなることは。
それでも、止めなかった。
彼女は、机の上の紙に目を落とす。
次に流す文章。
その内容は、すでに決めてあった。
「……やはり、来ましたね」
レオポルドが言う。
「ええ」
アリシアは、短く答えた。
「恐怖で押さえつける段階に入った。つまり――」
「効いている」
レオポルドの声は、確信に満ちている。
アリシアは、立ち上がった。
「ここからは、私が前に出ます」
リヒトが、顔を上げる。
「名を出すのですか」
「はい」
静かな声だった。
「隠れ続ければ、犠牲は増える。……それは、私の望むやり方ではありません」
彼女は、窓の外を見た。
遠く、王国の方向。
「責任を取るのは、言葉を投げた者の役目です」
一瞬の沈黙。
やがて、レオポルドが頷いた。
「場所は?」
「中央広場」
迷いはなかった。
「即位式の前日です」
リヒトが息を呑む。
「……危険すぎます」
「だからこそです」
アリシアは、淡く笑った。
「彼らは、私を“悪役”として断罪した」
その笑みは、強かった。
「なら――その悪役が、何を語るのか。最後まで見届けてもらいましょう」
*
その夜。
アリシアは、一通の手紙を書いた。
宛名はない。
ただ、こう記す。
――私は、アリシア・ド・セラフィム。
――かつて、断罪された者です。
――明日、中央広場で話します。
――信じなくていい。
――ただ、聞いてください。
ペンを置く。
心は、不思議なほど静かだった。
怖くない。
震えもしない。
ただ、覚悟がある。
――私は、逃げない。
ろうそくの火が、揺れた。
【第六章 悪役令嬢、名乗る】
中央広場は、まだ朝靄に包まれていた。
石畳に落ちる足音が、やけに大きく響く。
商人たちは店を開ける準備をしながら、落ち着かない様子で周囲を窺っていた。
兵の姿は多い。多すぎるほどだ。
――即位式の前日。
王都は、張り詰めた弦のように緊張していた。
その広場の中央に、ひとりの女が立つ。
黒い外套。
飾り気のない服装。
だが、その背筋は、驚くほど真っ直ぐだった。
アリシア・ド・セラフィム。
かつて断罪され、追放され、死んだはずの女。
人々は最初、気づかなかった。
だが、誰かが囁いた。
「……あれ、誰だ?」
「貴族か?」
「いや……」
ざわめきが、波のように広がる。
兵の一人が前に出た。
「そこに立つな。即刻立ち去れ」
アリシアは、兵を見た。
怯えはない。
挑発もない。
ただ、静かな視線。
「話をしに来ました」
その声は、大きくなかった。
だが、不思議とよく通った。
「即位式の邪魔をする気か」
「いいえ」
アリシアは首を振る。
「考える時間を、取り戻しに来ただけです」
兵が眉をひそめる。
「……名を名乗れ」
アリシアは、一拍置いた。
そして、はっきりと言った。
「アリシア・ド・セラフィムです」
広場の空気が、凍りついた。
誰かが息を呑み、
誰かが後ずさり、
誰かが叫ぶ。
「う、嘘だろ……」
「死んだはずじゃ……」
「断罪された悪役令嬢だ……!」
兵たちがざわつく。
剣に手をかける者もいる。
だが、アリシアは一歩も引かなかった。
「私は、ここに立っています」
その言葉は、事実だった。
「生きています。逃げていません。隠れていません」
彼女は、ゆっくりと広場を見渡す。
市場の女。
荷を抱えた老人。
痩せた子ども。
見覚えのある顔が、いくつもあった。
「……覚えています」
声が、少しだけ揺れた。
「あなた方の村に、学校を建てました」
「薬が足りないと聞けば、馬を走らせました」
「税が重いと言われれば、数字を洗いました」
人々の間に、ざわめきが走る。
「……本当だ」
「確かに……」
兵の一人が、声を荒げる。
「黙れ! この女は――」
「――悪役令嬢、ですか?」
アリシアは、遮った。
静かに。
だが、強く。
「そう呼ばれました」
彼女は、笑った。
自嘲ではない。
覚悟の笑みだった。
「私は、聖女ではありません」
「奇跡も起こせません」
「あなた方の代わりに泣くことも、怒ることも、もうしません」
広場が、静まり返る。
「ただ――」
アリシアは、胸に手を当てた。
「事実を、知っています」
彼女の背後で、布が外された。
簡素な掲示板。
そこに貼られた、数字、文書、印。
税の推移。
国債の発行量。
軍事費の内訳。
貴族の免税措置。
「これは、噂ではありません」
彼女は言う。
「記録です」
「王宮の倉庫に、今も眠っているものです」
誰かが、呟いた。
「……俺たち、騙されてたのか?」
アリシアは、首を横に振った。
「騙されたのではありません」
一歩、前に出る。
「考える時間を、奪われていただけです」
その言葉が、広場に落ちた。
重く。
確かに。
「敵を示され」
「恐怖を煽られ」
「怒りの向きを、選ばされていた」
彼女は、兵の方を見る。
「あなた方も同じです」
兵の指が、わずかに震えた。
「誰が悪いかを、今ここで決める必要はありません」
アリシアは、ゆっくりと息を吸う。
「ただ、明日」
即位式の方向を見た。
「拍手をする前に、考えてください」
「歓声を上げる前に、問いかけてください」
声が、広場全体に広がる。
「――この国は、誰のものなのか」
沈黙。
やがて、一人の老婆が口を開いた。
「……わしら、か?」
アリシアは、頷いた。
「はい」
その瞬間。
剣を構えていた兵の一人が、
ゆっくりと剣を下ろした。
続いて、もう一人。
また一人。
誰も、命令を出していない。
ただ、選んだのだ。
アリシアは、深く一礼した。
「聞いてくださって、ありがとうございました」
喝采は、起きなかった。
だが――
誰も、彼女を捕らえなかった。
広場には、考えるための沈黙が残った。
【第七章 選ばれなかった即位】
正午の鐘が鳴るはずだった。
王都中の教会が、その時刻に合わせて鐘を打ち鳴らす手筈になっていた。
新しい王の誕生を告げる合図。
祝祭の始まりを告げる音。
――だが、鳴らなかった。
最初は一つ。
次に二つ。
やがて、すべての鐘楼が沈黙した。
誰も命じていない。
誰も止めていない。
ただ、鳴らさなかった。
*
王宮・玉座の間。
エドワードは、立ち尽くしていた。
豪奢な礼装。
王冠を載せるための台。
即位の宣誓文。
すべてが整っているのに、肝心の音が来ない。
「……なぜだ」
喉が渇く。
汗が、背中を伝う。
ベルナー宰相が、顔色を失って駆け込んできた。
「殿下……鐘が……」
「鳴らせ」
短い命令。
「鳴らせと言っただろう!」
「そ、それが……司祭たちが……」
ベルナーの声が震える。
「“民の声が割れている以上、祝福はできない”と……」
エドワードの拳が、震えた。
「誰が、そんなことを――」
答えは、分かっている。
あの女だ。
断罪したはずの。
消したはずの。
悪役令嬢。
「……アリシア」
その名を口にした瞬間、胸の奥が軋んだ。
玉座の間に、別の報告が飛び込む。
「殿下! 中央区の兵が、動きません!」
「南門もです! “民を敵に回す命令は受けられない”と……!」
エドワードは、後ずさった。
「ふざけるな……私は王だ……!」
だが、その言葉に応える者はいない。
*
同じ頃。
中央広場の一角、古い倉庫の屋上で、アリシアは街を見下ろしていた。
叫び声はない。
暴動もない。
ただ、人々が集まり、話し、立ち止まっている。
「……想像以上ですね」
隣で、レオポルドが低く言った。
「ええ」
アリシアは、答えた。
「剣も、火も、いらなかった」
彼女は、自分の手を見つめる。
何かを壊した感触はない。
だが、確かに――何かが変わった。
「怖くありませんか」
リヒトが問う。
「ここから先は、誰にも止められません」
アリシアは、少し考えた。
「……怖いです」
正直な答えだった。
「でも、これは私が始めたことではありません」
広場を見下ろす。
「考え始めたのは、あの人たちです」
*
夕刻。
王宮の裏門が、静かに開いた。
護衛に囲まれた馬車が、忍び足で外へ出ようとする。
中にいるのは、エドワードとベルナー。
即位式は、公式に中止された。
理由は「体調不良」。
誰も、それを信じていない。
「急げ……!」
ベルナーが、馬車の中で囁く。
「このままでは、民に捕まる……!」
だが。
裏門の外に、影があった。
剣を抜いた近衛兵。
槍を構えた市民兵。
その先頭に立つのは――
アリシア・ド・セラフィム。
彼女は、馬車の前に立ち、手を上げた。
「止まりなさい」
馬が嘶き、止まる。
エドワードは、馬車の中から顔を出した。
「……勝ったつもりか」
かすれた声。
アリシアは、首を振った。
「いいえ」
一歩、近づく。
「私は、選ばれただけです」
「誰に……」
エドワードの声が、途切れる。
アリシアは、答えなかった。
代わりに、後ろから声が上がる。
「俺たちだ」
「俺たちが、選ばなかった」
「もう、拍手はしない」
民の声。
怒号ではない。
呪詛でもない。
拒否だ。
エドワードの顔から、血の気が引いた。
「……私は、王になるはずだった……」
アリシアは、静かに言った。
「あなたは、選ばれる努力をしなかった」
それだけだった。
剣は振るわれなかった。
血も流れなかった。
エドワードとベルナーは、拘束された。
裁くのは、民と、記録と、時間だ。
*
夜。
王都の灯りは、静かだった。
祝祭の火はない。
だが、闇でもない。
アリシアは、広場の中央に立ち、最後に言葉を残した。
「私は、王になりません」
ざわめき。
「誰か一人が立つ時代は、終わりました」
彼女は、深く息を吸う。
「ここから先は――皆さんが決めてください」
その背中に、拍手はなかった。
だが。
誰も、背を向けなかった。
物語は、まだ続いている。
剣ではなく、
怒りではなく、
選択によって。
【第八章 名前のない統治】
翌朝、王都は奇妙な静けさに包まれていた。
歓声もない。
怒号もない。
だが、昨日まで張りつめていた緊張だけが、ゆっくりとほどけていくのが分かる。
人々は店を開け、パンを焼き、井戸に並ぶ。
それだけのことなのに、誰もが何度も周囲を見回していた。
――本当に、終わったのか。
誰もが、そう自問している顔だった。
*
王宮の一角、かつて「顧問会議室」と呼ばれていた部屋。
今、そこに王はいない。
玉座もない。
長い楕円形の机を囲み、十数人が席に着いていた。
元貴族。
商会代表。
都市民の代表。
地方領の代官。
そして――アリシア・ド・セラフィム。
彼女は、最も目立たない席に座っている。
主賓席ではない。
中央ですらない。
机の端。
誰でも声を掛けられる位置。
「……では、まず確認します」
声を上げたのは、白髪の商人だった。
「この会議は、“王命”ではありません」
全員が頷く。
「議決に強制力はない。だが、記録は残る」
「決まったことは、公開される」
「反対意見も、削除されない」
一つずつ、確認が進む。
アリシアは黙って聞いていた。
この場に集まった人間の多くは、昨日まで彼女を知らなかった。
それでいい。
「……異論は?」
誰も口を開かない。
「では、第一議題に入ります。“暫定統治の形”について」
空気が、わずかに引き締まる。
誰かが言った。
「王を立てない、という選択は……危険では?」
すぐに別の声が重なる。
「だが、今立てれば“操りやすい王”になる」
「それを、民が一番恐れている」
議論は割れた。
だが、怒鳴り声はない。
アリシアは、その様子を見つめていた。
(……話している)
昨日まで、怒鳴るか、殴るか、従わせるかだった人々が。
今は、言葉を探している。
*
「……アリシア殿」
突然、名を呼ばれる。
彼女は顔を上げた。
「意見を」
視線が集まる。
一瞬、沈黙。
彼女は、ゆっくりと口を開いた。
「私は――」
言葉を選ぶ。
「“正しい形”は分かりません」
正直な答えだった。
「ただ、分かっていることがあります」
視線を一人一人に向ける。
「一人に集めれば、必ず歪みます」
「責任も、憎しみも、欲も」
誰も遮らない。
「だから、名前を付けないでください」
ざわめき。
「王でも、女王でも、摂政でもない」
「“役割”だけを決めてください」
彼女は、机に置いた紙を示した。
そこには、簡潔な文字が並んでいる。
・財政管理
・治安維持
・外交調整
・法整備
・民意収集
「人ではなく、仕事を前に出す」
「人は、入れ替われる」
静寂。
そして、誰かが小さく息を吐いた。
「……それなら」
「誰かを倒す必要もない」
「次の“悪役”も生まれない」
その言葉に、アリシアの胸がわずかに震えた。
*
夕刻。
会議は、まだ終わらない。
だが、決まったことが一つある。
この国は、当面――
名前のない統治を選ぶ。
王はいない。
だが、無政府でもない。
不完全で、面倒で、時間がかかる。
それでも。
夜、アリシアは宮殿の廊下を歩いていた。
「疲れましたか」
レオポルドが並ぶ。
「ええ」
彼女は苦笑した。
「でも……逃げていない感じがします」
「後悔は?」
「ありません」
即答だった。
「私は“選ばれる側”を終えたかっただけです」
足を止める。
「これからは、選び続ける側でいたい」
レオポルドは、少し黙ってから言った。
「……君は、もう悪役ではない」
アリシアは、首を振った。
「いいえ」
夜の窓に映る自分を見る。
「必要なら、また引き受けます」
「誰かが嫌われなければ進まないなら」
彼女は、そう言って微笑んだ。
優しくはない。
だが、逃げてもいない笑み。
王のいない国で、
悪役を恐れない女が、
静かに歩き出す。




