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はじまりの音

作者: 久遠 睦

第一部 灰色の日々


1. 午後五時の風景


午後五時。西新宿のオフィスビル、その三十階から見下ろす街は、夕陽を浴びて鈍い金色に染まり始めていた。しかし、結実ゆみの目に映る世界は、モニターの青白い光に吸い取られて色を失っていた。カチ、カチ、と規則正しく響くエンターキーの音。それは、彼女の一日を、一週間を、そして社会人になってからの三年間を刻む、無機質な秒針の音だった。


大学を卒業し、とりあえず内定をもらった中堅のIT企業。仕事は、営業が取ってきた契約のデータ入力と、体裁を整えるだけの報告書作成。興味もなければ、特別なスキルが身につくわけでもない 。三年経っても、自分のキャリアパスがどう続いていくのか、全く見えなかった 。給料は、東京で一人暮らしをするには十分だが、この労働の対価として見合っているかと問われれば、首を横に振るしかなかった 。


「お疲れ様です」


隣の席の先輩が声をかけ、結実ははっと顔を上げた。窓の外では、ビルの群れが巨大な墓標のように静まり返っている。自分はこの風景の一部なのだ。そう思うと、息が詰まるような感覚に襲われた。


帰りの中央線は、いつもと同じように混雑していた。人々はスマホの画面に目を落とし、一日の疲れを無表情の仮面に隠している。結実もその一人だった。吉祥寺の駅で乗り換える。ホームに降り立った瞬間、ふと、ざわめきの中に凛とした音が混じっていることに気づいた。


視線を向けると、駅前の広場の隅で、一人の女性がアコースティックギターをかき鳴らしていた。夕暮れの茜色を背負い、彼女の歌声が伸びていく。それは、結実が毎日聞いているオフィスのノイズとも、電車の騒音とも、まったく違う、生きている音だった。ほんの数秒、電車を待つ間の出来事。しかしその光景は、結実の灰色の世界に、鮮やかな一滴の絵の具を落としたようだった。


2. 居酒屋のこだま


「で、結局、今の会社どうなのよ?」


金曜の夜。煙と喧騒が渦巻く居酒屋で、友人の真希が焼き鳥を頬張りながら尋ねた。大学時代の友人との月一回の集まり。話題はいつも、仕事の愚痴から始まる。


「どうって言われても……別に、普通だよ」


結実は曖昧に笑って、ビールを一口飲んだ。


「普通がいちばんじゃん」と、もう一人の友人、沙織が言う。「うちはさ、最近入った新人が全然使えなくて。そのフォローで毎日残業。マジやってらんない」


「人間関係はきついよねぇ」と真希が相槌を打つ。「私のとこも、上司のパワハラがさ……」。


話は、給料の安さ、休日の少なさ、将来への漠然とした不安へと続いていく。誰もが不満を抱えている。でも、誰もが「じゃあ、どうする」という問いには口を閉ざす。転職という選択肢は、会話の端々に浮かんでは消える泡のようだ。新しいことを始めることへの恐怖、未知の環境への不安、収入が下がる可能性 。それらが重い錨となって、彼女たちを「今」という場所に縛り付けていた。


周りを見渡しても、本当にやりたいことを見つけて生き生きと働いている友人は、ほとんどいない 。みんな、結実と同じ。なんとなく日々をやり過ごし、時々こうして集まっては、同じような愚痴をこぼして少しだけ安心する。それでいいのだろうか。このままで、私の人生は終わっていくのだろうか。


結実は黙って話を聞いていた。彼女たちの言葉は、そのまま自分の心の声を反響させているようだった。誰にも打ち明けられないキャリアへの悩み 。その重さを、目の前のジョッキの冷たさが少しだけ紛らわせてくれた。


3. 無意識の巡礼


あの日以来、結実の行動に奇妙な変化が起きた。会社からの帰り道、彼女は無意識に吉祥寺で電車を降りるようになっていた。特に目的はない。「雑貨屋でも見ようかな」と自分に言い訳をしながら、足は自然と、あのストリートミュージシャンの女性がいた場所へと向かっていた。


彼女の名前は、ギターケースに置かれた手書きのCDジャケットから「リナ」だと知った。結実はいつも、少し離れた場所から、彼女の姿を眺めていた。


リナは、ただ歌っているだけではなかった。通行人の流れを読み、立ち止まってくれそうな人の心に届くように、全身で歌っていた。ギターケースには「CD販売中 1枚1000円」と書かれた紙が貼られている 。時折、足を止めた人と楽しそうに言葉を交わし、CDを手渡していた。その姿は、結実が知っている「働く」という概念とは全く異なっていた。そこには、上司も、ノルマも、定時もない。あるのは、自分自身の表現と、それを受け取る人々との直接的な繋がりだけだった。


結実にとって、リナは憧れそのものだった。自分の力で、自分の足で立ち、自分の価値を世界に問う生き方。それは、会社の歯車として、誰かに決められた役割をこなすだけの自分にはない、眩しい輝きを放っていた。彼女は、結実の周りにはいない「ロールモデル」だった 。リナを見つめる時間は、結実にとって、色を失った日常から逃れるための、秘密の巡礼のようになっていった。


第二部 邂逅


4. 街角の現実


ある日の夜、結実がいつものようにリナの演奏を遠くから見つめていると、制服姿の警察官が二名、彼女のもとへ歩み寄った。ロマンチックな幻想は、その瞬間、音を立てて砕け散った。


警察官の口調は丁寧だったが、内容は厳しいものだった。「ここでは許可がないと演奏できないんですよ」「近隣から苦情が出てましてね」。リナは何も言い返さず、ただ黙って頭を下げ、手際よく機材を片付け始めた。その横顔に浮かぶ悔しさと疲労の色を結実は見逃さなかった。


また別の日には、冷たい風が吹きすさぶ広場で、リナはたった一人で歌っていた。道行く人は誰一人足を止めず、ギターケースの中は空っぽのままだった 。ストリートミュージシャンとして生きること。それは、自由で気ままな生活などではなく、許可やルールとの戦いであり 、日々の収入が保証されない厳しい現実との隣り合わせの暮らしなのだと、結実は痛感した。リナは空想の偶像ではなく、現実と戦う一人の人間だった。その事実は、彼女への憧れを、より深く、尊敬の念へと変えていった。


5. 路地裏の雨宿り


突然、空が裂けたかのように激しい雨が降り出した。傘を持っていなかった結実は、たまらず近くのビルの軒下へ駆け込んだ。見上げると、二階へと続く狭い階段の上に、古びた木の看板が控えめにかかっている。カフェのようだ。今まで全く気づかなかった。高円寺の、古着屋が並ぶ賑やかな通りから一本入った、静かな路地裏だった。


雨音から逃れるように、結実はその階段を上った。扉を開けると、そこは別世界だった。薄暗い照明、壁一面の本棚、使い込まれたアンティークのソファとテーブル 。店内には「静かな会話をお願いします」という小さな注意書きがあり、まるで隠れ家のような、時間が止まったかのような空間が広がっていた 。


その店の隅の席に、彼女はいた。リナだった。濡れたギターケースを、タオルで丁寧に拭いている。予期せぬ雨が、二人をこの小さな静寂の箱舟に閉じ込めたのだ。中央線沿線には、こうして物語が生まれそうなカフェがいくつもあると聞いたことがある 。ここも、そんな場所の一つなのかもしれない。


6. 最初の言葉


警察官との一件、そして雨の中の孤独な姿。それらが結実の背中を押した。アドレナリンと、共感と、この不思議な空間がもたらす親密さが混ざり合い、彼女はリナのテーブルへと歩み寄った。


「あの……いつも、演奏見てます」


声が震えた。リナは驚いたように顔を上げたが、結実の真剣な眼差しに気づくと、少しだけ表情を和らげた。


「ありがとう」


その一言をきっかけに、二人の間にぽつりぽつりと会話が生まれた。結実が思い切って尋ねると、リナは自分の生き方について、飾らない言葉で語り始めた。


「なんでこの仕事してるかって?うーん……目の前にお客さんがいて、その人が私の歌で一瞬でも何かを感じてくれる。その手応えが、たまらないんだよね。どんな会社のボーナスより、価値がある」


しかし、彼女は厳しい現実も隠さなかった。場所探しの苦労、警察とのやりとり、そして何より収入の不安定さ 。


「良い日は一週間分くらい稼げることもあるけど、ほとんどの日はラーメン代になれば御の字かな」。彼女は笑って言った。「これも個人事業主みたいなもんだから、ちゃんと税金も払わなきゃいけないしね」。


それでも、とリナは続けた。その瞳には、揺るぎない光が宿っていた。


「でも、自分の時間をどう使うかは、全部自分で決められる。自分の手で、何かを生み出せる。私にとっては、安定した給料より、そっちの方がずっと大事なんだ」


その言葉は、結実の心の奥深くに、重く、そして温かく響いた。安定と引き換えに、自分は何を失っているのだろう。リナの生き方は、仕事からの逃避ではなく、別の価値観に基づいた、もう一つの「仕事」の形だった。それは、情熱と自律性を何よりも重んじる、厳しいけれど誇り高い道だった。


第三部 転換


7. 「やりたくないこと」リスト


リナとの会話が、結実の頭の中で何度も反響していた。「自分は何がしたいんだろう?」その問いは、あまりに大きすぎて、彼女を途方に暮れさせた。


ある週末、結実は自分の小さなアパートの部屋で、ノートとペンを取り出した。リナのような明確な目標はない。ならば、逆から考えてみよう。いくつかの自己分析の記事で読んだ方法だった 。彼女はノートの最初のページに、こう書き出した。


『やりたくないことリスト』


一つ、朝、憂鬱な気分で目覚めること。

一つ、自分が「無駄だ」と思う会議に出席すること。

一つ、満員電車に揺られて、心をすり減らすこと。

一つ、一日中、誰かの作った数字を眺めているだけで、自分の手で何も生み出さないこと。

一つ、自分の仕事に、何の意味も見出せないこと。


ペンは止まらなかった。今まで心の奥にしまい込んでいた不満や違和感が、堰を切ったように溢れ出す。リストを埋めていく作業は、苦しいと同時に、不思議な解放感をもたらした。自分の人生から、これらの「やりたくないこと」を取り除けたら、そこには何が残るのだろう。初めて、自分の手で人生の輪郭を描こうとしている実感があった。それは、変化に向けた、小さくても確かな第一歩だった 。


8. 小さく、私的な世界


結実は、すぐに会社を辞めなかった。そんな勇気はまだなかった。その代わり、平日の夜と週末の使い方が変わった。これまで何となくテレビを見たり、SNSを眺めたりしてやり過ごしていた時間を、自分のための「探求」に使うことにしたのだ。


それは、壮大な挑戦ではなかった。まず、近所の図書館へ行き、何年も足を踏み入れたことのなかった棚を眺めて回った。写真、デザイン、歴史、園芸。興味の赴くままに本を手に取った。インターネットで、キャリアアップとは関係のない、単発のオンラインワークショップを探した。陶芸、プログラミング入門、エッセイの書き方講座 。


彼女は、何かを見つけるために焦るのではなく、自分の心が何に反応するのかを、じっくりと観察していた。それは、大きな決断を下す前に必要な、自己分析と情報収集の期間だった 。魂の「副業」とでも言うべき、静かで、しかし決定的に重要な時間だった。


9. コーヒーショップの師


数週間後、結実は意を決してリナに連絡を取り、あの高円寺のカフェで再会した。今度は、偶然ではない、意図を持った面会だった。


結実は、おずおずと自分の「やりたくないことリスト」と、最近始めた小さな探求について話した。リナは、安易な答えを与えるのではなく、ただ静かに耳を傾け、結実のプロセスそのものを肯定してくれた。


「わかるよ。私も最初は何がしたいかなんてわからなくて、バイトしながら色んなことに手を出して、失敗ばっかりだった」


リナは、結実にとって初めてできた、キャリアの悩みを相談できる相手だった 。二人の間には、単なるファンとミュージシャンという関係を超えた、尊敬に基づいた友情が芽生え始めていた。リナは結実の静かな勇気に刺激を受け、結実はリナの現実的な知恵に支えられていた。人は自分の足で歩かなければならない。でも、その道のりを理解してくれる誰かがいるだけで、旅は全く違うものになる。


第四部 最初の一音


10. 決意


探求の日々の中で、結実の心に小さな灯火がともった。それは、いくつも覗いてみた世界の一つ、写真だった。図書館で借りた写真集に心を奪われ、オンラインで見た写真講座に惹きつけられた。何が仕事になるか、どうやってお金を稼ぐか、そんなことはまだ分からない。ただ、ファインダーを通して世界を切り取るという行為が、彼女を夢中にさせた。


ある日、結実は決断した。それは、人生を賭けた大きなジャンプではなかった。中古の一眼レフカメラを買い、週末に開かれる写真の入門講座に申し込んだ。たった六回のコース。でも、それは彼女にとって、自分の意志で選んだ、新しい道への最初の具体的な一歩だった 。内なる自己分析が、ついに外的な行動へと結実した瞬間だった。


11. 新しい始まり


結実は、写真教室の帰り道を歩いている。その手には、ずっしりと重いカメラがある。今日の課題で撮った写真のことを考えながら歩く彼女の表情は、一年前の、オフィスでモニターを眺めていた時の無表情とは全く違っていた。それは、幸福の絶頂というよりは、静かで、深い満足感に満ちた顔だった。自分の人生を、自分の手で動かしているという確かな手応え。


彼女は、リナがよく演奏している吉祥寺の駅前広場を通り過ぎた。今夜、そこにリナの姿はなかった。しかし、遠くから、別の誰かが奏でるギターの音が微かに聞こえてくる。


結実は、その音に耳を澄ませ、ふっと微笑んだ。


もう、彼女は他人の情熱をただ眺めているだけの傍観者ではない。自分自身の情熱を育むために、歩き始めた旅人なのだ。物語は、最終的な答えではなく、正しい問いを見つけ、最初の一歩を踏み出すことで得られる力強さの中で、静かに幕を閉じた。それは、完成ではなく、 commencement(始まり)の音だった。


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