はじめて (トイレは大自然)
正直、色々とあきらめた。
ここには、そこだけ現代技術的に何とかできたりする、都合のよい魔法なんかも存在しない。
あるのは原始の荒野だけ。
大自然のそこかしこがトイレだし、紙なんてないから、その辺に落ちてる丸い石が代用品だ。
というか、本来、紙の方が代用品なのか?
そういえば中世日本では、木ベラや藁縄を共用してたりしたらしい。
草木の葉っぱを使えば? と思うかもしれないが、そう思う人は、サバイバル志向のキャンプはしない方が良い。
植物は、結構邪悪なのだ。
目視もできないような和毛が、とんでもない激痛を招いたりする事もあるのだ。
とにかく、前世どちらにおいても絶対に許容できなかったであろうレベルの悲惨さにも、慣れるしかなかった。
だって、ないものは仕方がない。
なんせ産まれたときからコレだ。
たいがい、慣れもする。
とりあえず、便所改革は乳幼児に何とかできる問題ではない。
いまできること、それは、言語の開発だ。
幼児語すらないこの世界では、幼児からの逆発信くらいがちょうど良いトレーニングであろう。
まずは、母親を執拗に「ママ」と呼び続けてみた。
ごはんを「ウンマ」と言い続けて、小用は「しーしー」と言ってみる。
言語による思考のない世界での知能は、2~3歳児程度がせいぜいだ。
つまりは、乳児と同時進行で言語を習得していけば良いのだ。
最初、母親は戸惑っていた。
だが、すぐにだいたいの意味を理解した。
「ママ」とは自分を示す、もしくは自分に対する何らかの要求。
「ウンマ」は食べ物、あるいは食べる事。
固有名という概念がないため、表すものが名なのか動作なのかは曖昧だが、関連付けができれば上出来。
色々なモノを、擬音なんかを使って示し、
まずは、そういう単語を少しずつ増やしていった。
程なく、単語の便利さに、群れ全体が気付いた。
様々な物に、どんどんと名前が付けられていった。
種としての呼称が増えて来たところを見計らって、次には、群れの皆をそれぞれに呼び分けてみることにした。
個体名である。
これもたちまち受け入れられて、群れの皆に、それぞれに名前がついた。
ワタシにも名前が付けられたようだ。
思い違いでなければ「ウーダ」が、今世でのワタシの名だ。
おそらく未来の誰にも知られる事はないであろうし、これがどれ程の偉業であるかを理解している者もいないが、ワタシはこの世界に初めて「単語」と「名前」という言葉を生み出し、言語の祖となったのだった。