相宗美鈴
不登校らしい生徒の家は、JR山陰線の嵯峨嵐山駅から徒歩十分ほどの場所にあった。
佑暉は帰宅せず、四条烏丸から直接地下鉄で京都まで行き、山陰線に乗ってその生徒の家に向かうことにした。
ホームルーム終了後、大西から一日の配布物が入った大判の茶封筒を渡され、「じゃあ、河口君。あとはヨロピクね!」と微笑まれた。
本音を言うと、佑暉はやや辟易していたが、引き受けた以上はどうしようもなく、頷きつつ笑い返した。少し白々しかっただろうか、と電車の窓に凭れながら、ぼんやり考えていた。
駅を出ると、大西がプリントアウトして渡してくれた地図を頼りに歩き、目的地への目印を確認する。
高架下の交差点に出ると、府道に沿って北上し、左見右見しつつそれらしき家を探す。府道沿いには、築年数がかなりありそうな旧びた賃貸アパートや、小さいが小洒落た外装のクリニックなどが並んでいる。
それらを横目にしばらく歩くと、小さな神社があった。古びた石柱には「上木神社」という文字だけが掘られ、石造りの鳥居が聳え立っている。手許の地図を見返すと、目的地の横に、鳥居のマークが蟻のように小さく記され、目印にしていいかもあやふやだ。あまつさえ、廃墟のように人気が全くない。
佑暉は、道を間違えたかと不安になりつつ、再び顔を前に向けた。すると、明らかに周囲の家屋とは異なる、洋風の屋敷があることに気づいた。外壁は白で統一され、なんとなく清潔感のある色合いをしている。三階の出窓を見れば、レースで編まれたカーテンが掛かっていて、中は見えない。それがさらに、この家に高級感を与えている。
神社と隣合わせという奇妙な立地も、この家が異彩を放って見える要因かもしれない。
佑暉は門前に立ち、表札を探した。門に「AISO」と書かれた札がかかっている。この家が、不登校の生徒の家ということは、それで理解できた。
佑暉はやや緊張しながら、呼び鈴を押す。
すぐに応えがあり、『……はい』という、か細い女性の声が返ってきた。当該生徒の母親だろうか、と彼は想像しながら、
「あの。相宗さんと同じクラスの、河口といいます。学校の配布物を届けに来ました」
と、事情を簡単に説明した。
外部スピーカーから、『あ!』という声が聞こえたと思ったら、突然、通話が途絶えた。佑暉が当惑していると、目の先のドアが重々しく開けられ、一人の女性が顔を出した。
その女性は、佑暉の眼前まで歩いてくると、ゆっくりと門を開ける。
「こんなところまで、ごめんなさいね。さ、どうぞ上がって」
彼女は生徒の母親なのか、佑暉に向かってそう話しながら、開いた扉の奥を示した。しかし彼には、その家に上がるつもりなど毛頭なかった。
「あ、いえ、これを……」
鞄から茶舞踏を取り出し、母親に渡そうとした。だが、母親は首を振り、頑なに彼に上がるように勧めた。
「せっかくいらしたんだし、お茶でも飲んでいってよ。それと、美鈴にも紹介したいし。なにせ、学校の同級生がうちに来るなんて、初めてだから……」
哀愁のこもった目で訴えかけるように見つめられ、佑暉も断りづらくなってしまった。
結局、母親に連れられて家の敷居をまたいだ。それにしても、予定外の出来事に行き当たり、佑暉は平静を保つのに腐心した。プリントを渡して帰るだけだと思っていたのに、気がつけば同学級の女子の家に上がり込んでいる自分が、自分でないような心地がした。
まるで無重力の世界に来たように、感覚のなくなった足で母親についていくと、居間に案内された。リビングは予想以上の広さで、天井からはシャンデリアが吊り下がっており、調度の数も多く、ガラスケースの中には、高級そうな家具のコレクションが飾ってある。
豪邸もかくやという内装に、佑暉は段々と自分が場違いに思えてきて、やはり断っておくのが賢明だったと後悔した。
佑暉は、相宗美鈴の母親から、来客用のソファを勧められ、そこに腰掛けた。その後、母親は彼に紅茶を入れてくれた。ほんのりとハーブの香りが部屋に漂い、佑暉は恐る恐る飲んだ。
温かい紅茶が、芳香を維持したまま喉に滑り込み、心にまで染み込むような気がして、緊張を少しだけ和らげてくれる感じがした。
美しい花模様のティーカップも、ソーサーとお揃いの柄で、瀟洒な形状をしている。貴族が広大な庭に出て、パラソルの下でティータイムを楽しむ風景が浮かんでくるようだ。
母親は、彼の向かいに座り、落ち着いた口調で語り始めた。
この家は夫の財産で、もともと自分も娘とともに東京で暮らしていたが、夫が亡くなったことで東京の家を引き払い、二人でここに引っ越してきた。東京に居続けることも検討していたが、当時中学生だった娘が四条高校を志望したため、夫が所有していた京都の家を自分が相続したという。
そこまで話すと、彼女の顔がやや曇った。佑暉は話の先を予期しながらも、「どうしたんですか」と尋ねずにはいられなかった。目の前の女性のたった一人の娘が、ふと、自分と重なったためかもしれない。
娘――美鈴は半年前、突然学校に行かなくなった。理由を訊いても、はっきりとした答えは返ってこない。学校にも相談したが、そういう前兆はなく、特にいじめがあったという様子でもない、という曖昧な返答があっただけで、今ひとつ釈然としなかった。
結局、どうして不登校になったのか判然としないまま有耶無耶にされ、そればかりか、一日中自室に閉じこもりきりで、何をしているのかもわからない始末だという。
佑暉は眉を寄せながら、ただただ母親の話を聞いていた。俯きがちに話していた彼女は、ふと顔を上げ、優しそうな微笑を佑暉に見せた。
「ごめんなさいね。私ばかりこんな話しちゃって。退屈だったでしょう?」
佑暉は軽く首を振って否定した。どうして彼女が不登校を選んだのか、それは彼も気になるところであった。
思わず、
「もしよければ、娘さんのお部屋まで、案内してくれませんか」
と、佑暉は言った。母親は一瞬だけ目を見開いた後、再びにこやかに笑って、頷いた。
リビングルームを出て、玄関脇から、横幅の広い螺旋階段を上った。三階まで行くと、左手すぐのところにドアがあった。そこが娘の部屋だと、母親は彼に教えた。突き当たりのガラス窓が、廊下に白い光を投げかけ、薄橙のフリーリングの床を照らしている。
母親はドアをノックし、声をかけていた。しかし何の返事もなく、ドアノブを引いたが、鍵がかかっているのか、開かなかった。
彼女は佑暉の方を振り返り、申し訳なさそうに眉を下げた。それでも、口許には先程の微笑が、羞恥を隠すように残っている。
「ごめんね。やっぱり、部屋から出たくないみたい」
母親はそう言うとまた、部屋に向き直って、中にいるらしい娘に話しかけた。
「お友達が来てるわよ。出てこないの?」
その時に、中から「友達なんていない」という小さな囁きが、佑暉には聞こえた気がした。
一方、母親は気づかないように、再び佑暉を見て、首を傾げながら彼にまた笑いかけると、一階へ降りていった。
母親の姿が見えなくなっても、佑暉はその場を動かず、部屋の前でじっと固まっていた。中からは、物音ひとつ聞こえてこない。やはり、先程の声は気のせいだったのだろうか。そんなことを思いつつ、母親のところへ戻ろうとすると、ふいに視線を感じて足を止めた。
振り返っても、ドアは閉ざされたまま、毅然とした様相を保っている。だが、妙に誰かから見られているような感覚が、肌にまとわりつく。
佑暉は思い切って、一歩進み出ると、部屋の中に声をかけてみた。
「今日、クラス替えがあったんだ。新しく同じクラスになった、河口佑暉です。席は君の斜め後ろだから、もしも学校に出てこられた時は、よろしくね」
相手が聞いているという感覚はないのに、何故だか話を続けたくなった。
「僕も去年、東京からこっちに来たんだ。だからってわけじゃないけど、友達って言えるような人も、あまりいなくて……。勿論、みんな優しくしてくれるけど、どこか余所余所しいっていうか……、うまく言えないけど、避けてるみたいなところもあるんだ。だから、君も仲良くしてくれたら、嬉しいなって……なんて言ったら、厚かましいかな」
「関東の人?」
そんな声が突然、扉の向こうから確かに聞こえ、佑暉は黙った。
「そ、そうだけど……?」
「……ほんとに、みんな優しいの? あなたに」
声は端然として、とりつく島もないように思われた。もしや怒らせてしまったのかと、佑暉は咄嗟に謝った。
「ごめん。なんか、嫌だった、よね……」
それ以来、声は聞こえなくなった。辺りはしんと静まり返り、まるで今まで幽霊と会話していたみたいな感覚に囚われた。
佑暉は無性に怖くなって、引き返した。それでも、反応があったことに、妙な喜びを覚えている自分もいた。全くの無反応だったらどうしようという不安も、今ではきれいに消え去っていた。それだけで満足だったのだ。