新しい春と不穏な噂
昨春、佑暉は祇園町南側で中城佐希と出会った。彼女は祇園の置屋で暮らしており、学校に通いながら舞妓修行に励んでいた。決まった曜日、決まった時間に、稽古の一環として、花見小路通の古い茶屋に足を運び、舞台に上がっては常連客の面前で踊りを披露していた。それを偶然、暖簾越しに佑暉は目撃したのだった。
サキの舞いは打見しただけで相手を虜にし、余分な思考が取り払われ、金縛りにあったように体を動かすこともままならず、踊りに釘付けにする不思議な力があるように思われた。佑暉も言わずもがな、一瞬のうちに魅了された。
彼女が取り次いでくれたおかげで、佑暉も自由にその茶屋に出入りできるようになり、二人きりで東寺の五重塔を拝みに行ったり、祇園祭の山鉾巡行を鑑賞したり、火の灯った大文字山を雑踏の隙間から見上げたりした。佑暉にとって、どれも今も大事にしている思い出だ。
佑暉はサキに恋をしていた。いつか告白しよう……そんな決心がつくかつかぬかという頃、それまで考えもしていなかった事実が、不思議な因果をもって明るみに出た。
実家、つまり父親の慎二から、佑暉に宛てて一通の手紙が届けられたのだ。そこには、彼にとって震天動地のごとく、衝撃的なことが書き綴られていた。
「佑暉には、実は血を分け合った妹がいて、今は京都で暮らしている」と。
サキは、佑暉の実の母親の不貞によって生まれた子だった。父親は異なるが、自分と同じ母から誕生した、実の妹だったのだ。当然、最初は受け入れることを、彼の理性が拒んだ。……それが、昨年の暮のことだ。
それでも佑暉は受け入れようと試み、春にサキを実家に連れて帰り、父と引き合わせたことで、彼もようやくこれを現実として昇華できたような気がした。
父の転職からちょうど一年が経過するタイミングで、段々と暮らしが落ち着きつつあるが、まだ三人で暮らせるほどに収入は安定していない。佑暉はまだ正美が切り盛りする旅館に居候し、サキも以前と変わらず、一流の芸妓になるための稽古に毎日を捧げている。
当初は中学卒業後の進路として舞妓修行に専念する、という話をしていたが、やはり高校には進学したいと自ら志願し、置屋の師匠にもそれを認めてもらえたので、サキは今年、佑暉と同じ「四条高校」に出願し、合格をもぎ取った。
「夏葉ちゃんと同じクラスになったの!」
八坂神社の門前の信号を渡り、四条通を西に歩きながら、サキは笑顔で話した。
「よかったね」
その様子を、佑暉も微笑ましく見ながら、言葉を返した。
実は、佑暉は少し遠回りをしていた。旅館から彼らの高校へ行くためには、神社の少し手前で右折し、新緑豊かな石畳の小径を、白川筋に沿って歩いた方が早い。だが、そのルートで行くと、今度はサキの足を煩わせてしまう。サキからすれば、八坂神社に出てくるだけでも徒労なのだ。置屋から四条高校はわりと近く、寄り道をしなければ、五分ほどで着く。
ただ、可能な限り、毎朝同じ時間に一緒に通学しようと二人で話し合っていた。互いの住居と高校までの距離を吟味した上での折衷案ともいえるのが、「八坂神社で待ち合わせる」というものであったからだ。
また、一緒に通う主な理由としては、「もっとお互いに慣れる」ということがあった。つい数ヶ月前まで他人だった二人が、今は実の兄妹でいなければならない。どんなに時間を戻したいと願ったとしても、以前のようには戻れないのだ。
ずっと片想いしていた、恋の対象だったサキを、自分の妹として見なければならない。血の繋がった妹を、異性として好きになってはいけない。
サキはサキで、ずっと彼のことを「佑暉君」と呼んでいたのを、春以降は「お兄ちゃん」に変更している。これまでよりも近い存在に自分を置こうと、彼女なりに努力しているらしい。少しでも、彼を実の兄として感じられるように。しかし佑暉にとっては、それが苦痛だった。
彼女を妹だと思い込むことは、容易ではない。心のどこかにまだ去年の引っかかりがあり、意識してしまう時がある。それなら、もっと早くに打ち明けておくべきではなかったか。もしそうしていれば、こんな胸を締めつけるような痛みも、いくらかましだったのではないか?
そんなことばかり考えていても、すべては結果論でしかない。未来などというものは、誰にも読めるはずがない。
無言で歩いている佑暉に対し、サキは何気ない口調で、こんな話を切り出した。
「そういえば、四条高校っていろんな噂話があるよね」
サキは、僕のことをどう見ているのだろうか……という疑問がふと頭をよぎったが、彼女の言葉の意味が気になったので、佑暉はとりあえず、訊いてみることにした。
「たとえば?」
「入学式の日にね、友達から聞いたんだけど。何年か前、一人の生徒が暴力団との関わりを持ってることがわかって、大騒ぎになったの。それが直接的な要因かは曖昧なんだけど、その年の出願者が激減して、初めて定員割れを起こしたんだって」
佑暉は、サキが入学式当日にもう自分の友達を作っていたことに感動したが、そこには触れず、彼女の話に合わせて、言葉を選んだ。
「お父さんも前に言ってた。詳しい話は聞かなかったけど」
サキは内緒話をするように、佑暉の耳許で、こう囁いてきた。
「それでね、それを利用した頭の悪い人たちが、一般入試で大量に受けに来たらしいの。でも定員割れちゃってるから、仕方なく全員合格にしたんだよ。四条高校って、それ以前は高偏差値の超進学校、みたいなのがブランドって感じの学校だったけど、今では『不良高校』の代名詞なんだって」
佑暉は怪訝そうに、顔をしかめてみせた。たしかに、数年前の事件に暴力団が絡んでいたことは、幾度か聞き及んでいるが、出来の悪い不良たちが例の「定員割れ」に乗じて、それこそどさくさに紛れて、四条高校を受験したという。そうしてまで、彼らが入学したかった理由があるのだろうか。
たしかに昨年度は、クラスの何名かは不自然に髪を染めていたり、耳朶にホクロのような傷跡が見えるのでよくよく観察してみると、ピアスのために開けた穴だったり、公立高校にしては校則が緩いのか、というくらいの感想しか持っていなかった。自分はこれまで、何を学んできたのだろうかと、佑暉はいくばくか肩を落とした。
急にサキが心配になってきた。もしも不良に襲われるようなことがあれば、どうしようか。自分が助けなくてはならない。けれども、果たして自分にそんな度胸と勇気があるだろうか。
祇園四条駅の二筋手前で右に折れ、大和大路通に沿って歩いていくと、校舎が見えてくる。四階建ての古い校舎である。手前のグラウンドを背の高いフェンスがぐるりと取り囲み、その内側を運動部が威勢よく、喊声のような掛け声を発しながら、駆け回っている。
橋の下を流れる白川筋の水音が、春らしい清らかな音を奏でている。彼らは橋の上で立ち止まり、互いを見つめ合った。サキがまず微笑み、その目を見た佑暉が、微笑み返した。
すぐ近くを同じ高校の生徒が何人か歩いているが、皆、二人のことは気にすることなく通り過ぎていく。カップル同士で登校する生徒は珍しくないので、彼らもそう思われている可能性は、十分にある。そう思うと、佑暉はまた、少しばかりむず痒くなった。
見つめ合ったまま、再び足を踏み出そうとした時、佑暉の右肩が強く叩かれた。
「やあ」
その声に振り向くと、彼らの上級生が二人、並んで横を行き過ぎるところだった。三年生の鳥居南愛咲と、京極結都だ。彼女たちは彩香の親友であり、佑暉とも何度か交流があった。彼の肩を叩いたのは、愛咲だった。
それから愛咲と結都は、佑暉たちに手を振りながら、正門に向かって遠ざかっていった。
「高校生活、楽しみだね」
隣で呟くサキの声が聞こえた。
彼女も大股で踏み出し、歩みを再開した。それは、桜の花びらが風に吹かれて宙を舞い、遥かなる碧落まで飛んでいく姿と似ていた。