通学路の花
厨房の裏口を通って、佑暉は外に出た。夏葉はまだ自分の部屋に閉じこもって、髪のセットなどしているようだった。
佑暉はいつも、旅館の裏手を巡り、表の東大路通へ出る。一方、娘二人はロビーの玄関から通学している。正美曰く、そこは宿泊客専用の通用口であるため、家を出る時はなるべく裏口を使うようにと口を酸っぱくして言っているのだ。にもかかわらず、二人ともそれを煩わしく思っているようで、客と鉢合わせる可能性をも意に介さず、小学生の頃からこれまで、表玄関からの出入りをやめないでいた。
実のところ、佑暉も昨年度の秋頃までは、娘たちと同様、玄関口から表に出ていた。しかしある日、夕餉の席で正美が二人に苦言を呈しているのを聞いて、初めて知った。それ以来、娘たちは通用口から出ているが、佑暉だけは素直に、その言いつけを守ることにした。
厨房の中では、早くも仲居が夕飯の仕込みをしているところだった。佑暉は彼女に挨拶し、裏口の戸を開けた。
裏手には、古いオフィスビルが厳然と立ちはだかり、旅館との間の小道に暗い影を落としている。人通りも滅多にないため、昼間でも気味が悪いほど薄暗い。この不気味さが嫌で、夏葉たちは表玄関を使っているのだろうか、と彼は何度か考えたりした。
上空を仰ぎ見ると、細長く切り取られた青い空を、薄くスライスしたチーズのような千切れ雲が、いくつも横切っていくのが見える。新学期に相応しい陽気だ。佑暉は、背中を軽く押されたような足取りで、意気揚々と路地を足早に踏み出した。
左手には、くすんだ色味を帯びた細長い木板が、隙間なく縦に整列し、その外貌は築数千年の有形文化財を思わせる。佑暉が毎日寝起きしている部屋の、雨戸の下りた小さな窓がある。外にいても、古めかしい木の匂いが鼻をくすぐる。彼はここを通るたび、思うことがある。
――ヒノキに似ている。
実家の浴槽に掛かっていた檜のバスシャッターも、こんな匂いがした。そういう些細なことを思い返しながら、東大路通まで出る。
佑暉の通う「四条高校」は、旅館から南に歩いて十五分ほどの場所に位置している。最寄りは祇園四条駅で、旅館の最寄りの地下鉄東山駅からは、一駅先の三条で京阪本線に乗り換え、さらに一駅のところにある。彩香や夏葉は電車通学だが、歩いて通うには十分な距離なので、部活に入っていない佑暉にとっては、ちょうどいい運動になる。そういう事情もあって、彼は毎朝、徒歩で登校している。
東山三条の交差点を過ぎ、さらに五分ほど歩くと、八坂神社の西楼門が見えてくる。門の色鮮やかな赤に、朝陽が麗しく照り輝いている。傲然とした面構えは、神社というよりは要塞のような様相を呈している。その境内で、佑暉は待ち合わせの約束をしているのだ。彼が今日という日を心待ちにしていた、もう一つの理由でもあった。
まだ八時過ぎだというのに、石段の周辺はすでに人々で溢れかえりつつある。この時間帯は観光客というよりは、スーツを着た会社員や、彼と同じく通学途中の学生が多い。信号待ちをしている彼らの間を縫って、佑暉は神社の石段を急ぎ足で登り、待ち合わせの相手を探した。
約束の時刻は、八時十分である。首を巡らして周りを見ると、門のそばに同じ学校の制服を着た一人の少女を見つけた。
スカートの裾を指で触ったり、ブレザーにほつれがないか何度も入念に確認したりしているのは、着慣れない服に戸惑っているようにも見える。黒いショートヘアを右手ですくい上げ、耳を露出させる仕草は、歳にも似合わず妙に艶めかしい。佑暉はすぐに、それが自分の探していた人だとわかった。
佑暉は、彼女に近寄り、彼女にだけ聞こえるような声で、そっと声をかける。
「お待たせ」
約束の相手――「サキ」は振り返って、彼に向かって口許だけで微笑すると、こう言った。
「一分遅刻だね、お兄ちゃん」