古都の目覚め
アラームの声で目を覚ました。羽毛布団で身を覆って、しばらく持続する微睡みの中に佑暉はいた。すると、意識が段々鮮明になってくる。
思い切って起き上がり、振動するスマートフォンを切る。そうして、部屋の周囲をしげしげと眺め渡す。
左手に襖がある。いくらか黄ばんだシミが、斑模様のようになって見えるが、単調な格子柄の襖だ。手入れが行き届いて、目立った傷らしきものは見当たらない。
京都市左京区、東山三条の交差点から百メートルほど北上したところに、小さな老舗旅館がある。そこの玄関先に掲げられた古色蒼然たる看板には、「ふたまつ」という筆文字。江戸時代から代々受け継がれてきて、現在は女将がたった一人で、その旅館を切り盛りしている。佑暉は現在、とある事情で、そこの世話になっているのだ。
もともと、彼は父親と一緒に東京で暮らしていた。父・慎二は、京都烏丸の小さな薬屋の次男坊だったが、先代の跡は長男が継ぐと決まっていたため、高校卒業後は京都を出て上京し、ゲーム制作の下請け会社で、エンジニアとして雇われていた。
妻が家を去ったのちも、息子と一緒に、質素ながらもささやかな幸せを形成していったが、そんな生活も、ゲリラ豪雨のごとく突然やってきた現実によって、失われた。
他社の事業改革によって、勤めていた会社から何人ものプログラマーが引き抜かれ、経営が危うくなってしまった。製作の依頼もがぐっと減少し、人件費削減などの対処もままならないまま、ついには経営破綻するまでに至った。無論、慎二も解雇された。
とはいえ、運よく社長の根回しもあって、転職には困らなかった。ただ、そううまくは事が運ばないのも事実だった。次職に就いた後の給料の差額をどうしても埋められず、慎二は息子を、京都の知人のところに預けることを思いついた。妻との結納の際、仲人を務めてくれた人で、東京に戻ってからも、何度か手紙での交流が続いていた。
それを、佑暉が中学を卒業したのを契機に明かすと、事情を知った佑暉も、直後は動揺していたものの、素直に現状を受け入れた。誰のせいでもないのだから、と。
父は頭を下げたが、佑暉は終始、毅然としていた。
それからすぐ、父に言われた通り、佑暉は京都――自分の新しい居場所へと向かった。それが、ちょうど一年前であった。
佑暉はそれから、京都市内の公立高校に通い、二年生になった。今日がその始業式である。
クリーニングしたばかりの制服に腕を通し、この一年ですっかり馴染み深いものになった襖を開けた。彼の部屋は一階奥で、部屋を出ると、長い廊下がフロントまで伸びている。佑暉はここを歩く時、この廊下をまっすぐ進んでいくと、どこか知らない場所に連れて行かれるのではないか、とよく想像する。
廊下に沿った壁は年季が刻まれ、ところどころに傷らしきものが見られるが、汚らしい感じは一切ない。日本画を模した絵画が飾られ、壁に沿うように置かれた棚の上には、壺や土器が多種多様に並んでいる。それらが毎朝、彼を遠き古の都へと誘うかのように、迎えてくれる。
外見は古びているが、内装は隅々まで掃除が行き渡り、くすんだ茶色の板張りには、塵ひとつ見当たらない。ここで約一年を過ごした佑暉でさえも、未だに感動を覚えるほどだ。
佑暉は、今と昔が混淆した空気を胸いっぱいに吸い込み、踊るような足取りで、廊下をひたひたと歩いていく。
「もう〜! 部活、間に合わんねんけど!」
「だから、昨晩、何べんも言うたやろ。はよ寝なさいよって」
「じゃあ、なんでもっと早く起こしてくれへんの!」
ロビーの方から、親子の口喧嘩が喧しく聞こえる。真紅の華やかな柄の着物を朝から纏い、呆れたように眉を歪めて、自分の娘と向かい合っているのは、この旅館の女将、正美だ。
「あんた、部長なんやろ? もっと自覚を持ちなさいよ」
「いや、だって、普通、寝坊してたら起こさへん? 今日から新入生も入ってくるし、大事なミーティングがあるって、夜も話してたやん」
「そんなん言うたって、お客さんにお出しする朝食の準備もあるし、いちいち気ぃ回してられへんよ」
正美からそう言われた娘の彩香は、口を尖らせて母親を睨んでいた。
佑暉が少し戸惑い気味に、彼女たちの脇を行き過ぎようとすると、正美はそれに気づいて、頬筋を緩めると、彼に柔和な笑顔で挨拶した。
「おはよう。朝ご飯、できてるよ」
「はい、おはようございます」
佑暉も真面目に、そう返した。
この一年間、慎二から預かった居候の佑暉を、実の息子のように世話し、高校の保護者会にも出席し、彼を様々な面で支援してくれたのが、この正美であった。
何気ない普段通りの微笑みが、新学期への期待も手伝ってか、いつもより優しかった。佑暉にはそのように思われた。
佑暉は丁寧にお辞儀すると、居間に向かった。こんな彼の他人行儀な応酬にも、正美はよく「もっとざっくばらんに話してね」などと言ってくれるが、佑暉からすれば命の恩人に等しい彼女に対して、馴れ馴れしい口を利くわけにはいかなかった。
居間には、すでに朝食が用意されていた。客間に使われる大広間とは違い、八畳ほどの和室で、六人が囲めるほどの座卓があるだけだ。その中央あたりの席で、背を向けて黙々と食事をとっている女の子の姿があった。佑暉と同じ年頃で、アイロンをかけたての小奇麗な制服に身を包んだ後ろ姿は、今年進学したばかりだろうと安易に想像できるほど、初々しく映る。
佑暉は、彼女の斜向かいの自分の定位置に着いた。そして、声をかける。
「おはよう」
正美に挨拶した時のような辿々しい様子はなく、気さくな声音だった。
「はーよ」
彼女はご飯を口に入れたまま、間の抜けた返事を寄越した。彼女は、正美の次女の夏葉だ。
夏葉は、佑暉から見て一つ下の学年で、今年度から彼と同じ高校に通学している。
「入学式、どうだった?」
佑暉は、何気ない調子で尋ねた。
「サキちゃんと同じクラスになった」
夏葉が、咀嚼の延長線上のようなくぐもった声で応答すると、佑暉の顔が幾分輝いた。彼女の女子らしからぬ仕草には馴れていたが、そこから出た言葉が、彼を嬉しくさせたのだ。
「あの子も喜んでた?」
佑暉とは異なり、夏葉は素っ気ない態度を崩さず、無言で頷いて、傍らの水を飲み干した。
構わず、佑暉が次の言葉を口にしようとしたその時、開け放した襖の外から、けたたましく足音を響かせて、彩香が飛び込んできた。先ほど、ロビーの付近で正美と口喧嘩をしていた、夏葉の姉だ。
彩香は、鴨居に引っ掛けた制服のブレザーを、ハンガーから乱暴に剥ぎ取るや、和室の隅の通学用鞄を手に取った。
「あー。オカン、ムカつく」
彩香はそうブツブツと独り言を呟きながら、再び居間を出ていこうとするので、ふと疑問に思った佑暉は、彼女を呼び止めた。
「彩香さん。ご飯、食べないの?」
「そんなヒマない」
彼の方を振り向かず、彩香は、突風のごとく飛び出していった。
彩香は今年、三年生になった。彼女もまた、佑暉や夏葉と同じ学校に通っている。姉の挙動を終始無視していた夏葉も、食べ終わったのか合掌して、「ご馳走様」と呟いた。
登校の準備をしに夏葉が席を立つと、佑暉は改めて、食卓の上に目を落とした。
旅館とはいえ、経営者側の食事は至って簡素で、白ご飯に漬物、残り物のタイの煮出し汁、ほうれん草の胡麻和え……という具合の献立が、無造作に並べられている。ただ、佑暉にとっては、十分すぎるくらいだった。こんなに豪勢な朝食は、少なくとも東京で父と二人暮らしをしていた頃は、お目にかかったことがない。まるで、毎日が旅行気分だ。
正美が用意してくれる朝食、夕食ともに和食が中心だが、例の姉妹も文句ひとつ言わない。それというのも、時々、ファーストフードなどをこっそり買食いしているからだ。そのことを佑暉も知ってはいるのだが、当然、正美に密告したことはない。そうやって彼女たちも、ストレスの均衡を保っているのだろう。
眼前の朝食にも、卵焼きはあるが目玉焼きはない。ブレックファーストというよりも、朝餉と称した方が、この場合は適切かもしれない。佑暉は、毎日欠かさず執行している儀式のように、胸の奥で感謝の気持ちを唱えて合掌し、箸を取った。
自分が今、こうして不自由ない暮らしができているのは、実父の慎二、そして母親も同然の正美のおかげだ。