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来たりし春の都街  作者: 橘樹 啓人
第一章 葵の契約
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我が校の秘密と契

 四条高校は、かつて京都有数の進学校だった。偏差値は毎年七十を超え、難関の公立高校として、巷で名を轟かせていた。その狭き門を突破するためには、中学では常に優秀な成績を収めている必要があった。


 とりわけ、その成果が顕著に現れるといえば、特色選抜入試と呼ばれる試験である。いくら五教科で満点をとっていたとしても、内申点が伴っていなければ、合格は厳しい。それゆえ、合否が内申に懸かっていると言っても過言ではない。毎年、皆、一点の差で争うのだ。


 そんな学校が、何故、現在のように凋落してしまったのか。


 事の発端は、事務所宛に届いた一通のメールだった。


『そちらの校内のどこかに、爆弾を仕掛けた。○月△日□時×分、起爆装置を作動させる』


 ――いわゆる、爆破予告だった。名のある学校や教育施設にこのようなメールが届けられるのは、今回に限った話ではなく、いつでも起こりうる内容の出来事だった。四条高校でも、例に漏れず、単なるいたずらだろうという結論が出され、そうして当時は片付けられた。それでも万一のことを考え、メールに書かれた日を臨時休校とし、点検を行うという旨が後日、生徒や保護者に通知された。


「それで……結局、爆弾は仕掛けられてなかったんだよね?」


 不安に駆られた佑暉は、つい口を挟んだ。爆破予告は十中八九、虚偽であるという認識が彼の中にもあったが、四条高校の今の実情に鑑みて、欺瞞では済まされないという気もした。


 彼がかすかに予感した通り、美鈴はゆっくり、首を左右に振った。


「本当に仕掛けられてた。体育館倉庫と、校舎の二箇所に」


 彼女の返答は、悪い意味で、佑暉の予想を上回った。


 幸いにも、導火線が作動せず、いずれも不発だった。電子回路の設計ミスなのか、あるいはわざと不発処理を施されていたのかは、未だに判明していない。


 だが、本物の爆弾が見つかったとなれば、ただ事で済まされるはずもない。各メディアが、その事件を大々的に取り上げ、四条の名が瞬く間に、京都から全国に広まった。


 ワイドショーでもそればかりにスポットが当てられ、インターネットの掲示板サイトなどでは、大小様々な悪評が、それが根も葉もない噂話かどうか吟味する過程をすっ飛ばして、長い間、地中深く眠っていた化石を掘り起こすように、白日の下に晒された。


 暴力団と関わりがあるのではないか、反社会的な団体が運営しているのではないか、などの悪い噂が、いたるところから湧いては独り歩きした。そのどれもが憶測の域を出ないが、どこから情報を仕入れてきたのか、あるメディアが、四条高校に在籍する一介の男子生徒が、事件に関与していたと報じた。幹部からの指示で、校内に爆弾を設置した、というものだ。


 これに関しては、勿論、学校側は否定した。が、その記者会見の様子を見て、そのニュースを見ていた誰しもが、不信感に満ちた眼差しを向けたであろう。


 この事件により、一等大きな被害を受けたのが、数カ月後に受験を控えた当時中学三年生の学生たちだった。自分の志望していた高校が、暴力団と癒着しているかもしれない。その恐怖と不安感は、報道が収束しても、なお癒えなかっただろう。


 年が明け、特色選抜入試の出願が始まった。そこで、運営側も予想していなかった事実が、またしても各メディアを通じて、伝えられた。


 ――開校以来、初めて定員が割れたのだ。


 事件前の四条高校といえば、そのブランドから、かなりの人気校として知られ、特色選抜においても、如実にその人気ぶりが認められた。定員四十人のところ、三二〇人――およそ十六倍に膨れ上がった年もあるほどだ。それなのに、事件後すぐの入試では、わずか二十数人しか出願者が出なかったのだ。


「それで、テストは行わずに全員に合格通知を出したの。定員を少しでも埋めたいっていう、学校側の思いだったのね」


 美鈴は、感情らしきものは特に出さず、淡々と説明した。まるで、初めて教壇に立った実習生が、教材の内容だけを残らず生徒に教えているみたいだと、佑暉は思った。


「で、一般入試もいつも通り実施されることになったんだけど、どうなったと思う?」


「どう、って……」


 美鈴がこちらに流し目を送ってくる。佑暉はゴクリと唾を飲んだ。正解はすぐにわかった。しかし。それを口に出すことは、恐ろしいことのように思われた。


 美鈴が語るには、一般入試も特色選抜と同様、定員割れが甚だしかった。しかも、四条高校にとって、次なる誤算が待ち受けていた。


 四条高校は、高偏差値を誇る進学校だ。そんな名門が、定員割れ起こしたと報道されたら、どうだろう。自分でも、もしかすると合格できるのではないか? そう考える者たちが一定数現れる。


 特色での定員割れが大きく報道されたことにより、京都府内の一部の落第生たちが、快哉を叫んだ。


「あのニュースを見た頭の悪いやつらが、こぞって出願。まあ、結果的に、そいつらの賭けは功を奏したわけだけど」


 佑暉は、美鈴の言葉を聞きながら、ただ唖然としていた。自分の通う高校が、現在の有様になるまでの、一部始終を聞いて芽生えた感情が一体何なのか、彼自身もわからなかった。怒りか失望か、それすらも認識の範疇を超えていた。


 やがて、一つの疑問が、頭の中に浮かんできた。


「その人たちは、なんでわざわざ、難しいところ受けに来たんだろう」


「ヤンキーってね、地域ごとに群れてマウント取り合ったりするんだと思うけど、喧嘩以外に自慢できることが何もないから、少しでもレベルの高いところに行って、優位に立ちたいって思ったんじゃない?」


「でも。そんな理由で、進路を選択することに意味あるのかな」


「知らない」


 興味がないといったふうに、美鈴は答えた。それでも、佑暉の中には、俄には信じられないという気持ちもあった。


 幸運にも、同級生たちが、彼に危害を加えてきたことは一度もない。皆、誰にでも優しく、広大な心を有しているように見えた。しかしそれは、張りぼてに他ならなかったのだろうか?


 不安感を募らせつつ、それでも知りたいという思いから、佑暉は尋ねてみた。


「だけど、そんな下心はなくて、ちゃんと実力があって入学してきた人はいるはずだよね」


 美鈴が、かすかに頷いたように見えた。しかし、次にこう言った。


「まあ、多少はね。でも、今の三年の学年偏差値、四十三なんだって」


 佑暉は絶句した。仮に偏差値七十の人が三割いたとして、残りの三分の二は皆、平均以下ということになる。


「そんなこと、ある……?」


「疑うなら、知り合いの人にでも聞いてみればいいよ。きっと、偏差値の概念すらわかってなかったんだろうね。不動であるはずないのに……」


 美鈴が、両手でペットボトルを軽く押しつぶす動作をしながら、呟くように語った。それを見ていた佑暉はふと、先程それを買いに走らされたことに思い至る。


「そういえば、それ、飲まないの?」


 五月とはいえ、すっかり日が高くなった空からは、初夏を思わせるやや強い日差しが、驟雨のごとく降り注いでいる。ついでに自分の分も買ってくればよかった、と佑暉も内心後悔していたくらいだ。


 彼に言われて思い出したように、美鈴は、手の中のペットボトルに視線を落とす。それからキャップを外し、本体を傾けてそこに直に注いだ。さながら酒宴で見るお猪口のように、逆さにしたフタいっぱいに水が満ち、その小さな表面から溢れて飛び散った水滴が、彼女の人差し指を伝って滴り落ちた。


「ふたまつ」における酒宴の席でも、客たちが小さな食器に酒を注ぎ、一気に飲み干している姿をよく見かける。彼も正美の手伝いでしばしば同席するため、度々目にする光景だ。


 そのようなことを考えていると、美鈴が突然、彼にそれを差し出してきた。


「飲んで」


「え?」


 彼女のその行動について、瞬時に理解が追いつかなかった。


「これ、飲んで」


 美鈴はもう一度、佑暉をまっすぐ見つめながら、言った。


 彼女の意図が読めないまま、佑暉は手を伸ばし、水を零さないように慎重に、その小さい器を受け取った。そして、言われた通りに飲み干した。


 気温によって、買った直後よりもやや温くなった水は、上向いた彼の口の中を潤しながら、舌から喉へと滑るように流れた。


 佑暉は視線の位置を元に戻すと、空になったボトルキャップを眺めた。すると、美鈴が乱雑に、彼の手からキャップを取り上げた。取り上げたというよりも、強引に奪ったと表現した方がいいかもしれない。


 佑暉は、何事かと彼女に目を向けると、間髪入れず、彼女は先程の彼と同じ行動をとった。キャップに水を注ぎ、それを一気に飲み干したのだ。


「これで、あなたと私のちぎりは交わされた」


「え?」


 わけがわからず、佑暉は思わず頓狂な声を発した。


 ますます混乱する彼とは反対に、美鈴の瞳は湖のように澄明で、どこにもふざけたところがない。ただ冷徹な視線を、佑暉に送り続けているだけだ。不思議なことに、その目を見ていると、何故だか佑暉も、動揺が静まるのを感じた。


 しかし、美鈴は続いて、佑暉をさらに混乱に陥れる口上を述べ始めた。


「じゃあ、これから契約内容を言うわね。まず、私とカップルである『ふり』をすること。次に、私以外の人との会話は極力避けること。最後に、私に何かあれば、身を挺して守ること。わかった?」


「わからないよ。契約って何?」


「あなたに、私の手伝いをしてほしいの」


 佑暉はきょとんと、美鈴を見つめる。


「さっきも話したように、今の四条高校では、不良が跋扈してる。あのままだと、四条の評判はどんどん地の底に落ちて、最悪の場合、修復不可能になる。それだけじゃない。これ以上、ヤンキーたちが好き放題し始めると、祇園の町も荒んでいって、誰も寄り付かなくなる。そうなる前に、少しでも早く、あの学校を変えたい。そのためには、あなたの協力が必要なの」


 訴えかけるように力説する美鈴に、佑暉は僅かながら、心を搏たれた。だが、当然ながら、腑に落ちないこともある。


「どうして、僕なの?」


 今しがた頭に浮かんできた素朴な疑問を、そっと投げかけてみる。数秒間、美鈴は沈黙していたが、形のよい艶美な唇を開けると、短くこう答えるのだった。


「あなたが、さっき、私を『助けたい』って言ってくれたから」


 仮に、たったそれだけの理由だったとしても、必要とされたことが、佑暉にとっては何よりも嬉しかった。


「僕も、君の力になれるなら、それでいいと思ってる。だから、わかったよ。君の言う通りにする」


 佑暉の言葉を聞いて、偽りはないと理解したのか、美鈴は口許に薄い笑みを浮かべた。


 次に、こんなことを口に出した。


「ありがとう。契約満了日は、今年の十二月二十四日だからね」

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