葵祭
葵祭は、欽明天皇の御代に始まり、歴史の変遷とともに、その時々の環境に適応するため、様々に形式を変えながら、今日に至る。戦乱など、世の中の情勢に左右され、何度となく中絶と復興を繰り返してきたものの、それでも伝統として、連綿と続けられてきたのだ。
総勢五百名余りからなる行列は「路頭の儀」と呼ばれ、午前十時半に御所を出発し、京都の町を練り歩く。丸太町通を東へ進み、河原町通を北上。下鴨神社に到着し、「社頭の儀」を行う。行事は午後も続き、下鴨を出るとさらに北上して上賀茂神社を目指す。そこでも同じく「社頭の儀」が行われる。
社頭の儀では、勅使が御祭文を奏上したり、馬寮使が二頭の馬に舞殿の周りを廻らせたり、舞人が東游と呼ばれる優雅な舞いを踊ったり、次々と行事が進行されるのだ。つまり、祭りにおいて、行列の休憩ポイントのようなものだろう。
まだ観に行くかどうかは決めかねているが、佑暉は事前調査を怠らなかった。持ち前の強い好奇心が、これまでの例に漏れず、今回も彼の中に萌芽したのだ。葵祭のホームページなどで概要や日程表を閲覧し、情報を集めながら、じっくりと吟味することにした。
しかし誘われた当初よりも、祭りへの関心は深まったものの、やはり彼の良心は、簡単には肯んじなかった。さすがの好奇心も、罪悪感の前ではその覇気を失い、消沈してしまう。そうして考えた末、翌日、佑暉は愛咲に会って断ろうと思った。致し方のない結論であった。
前日の五月十四日。彼の教室に、愛咲は現れなかった。こちらから訪ねようかと思ったが、よくよく考えると、彼女が何組なのかわからない。彩香のクラスなら知っているので、彼女を介して愛咲と話そうという案が浮かんだものの、言い出しづらいものがある。二人して学校をずる休みし、葵祭を見物に行こうとしているのだから。
結論は出ているが、何も手立てが見つからないまま、放課後になった。佑暉は渋々、昇降口に足を運んだ。自分の不甲斐なさがもどかしく、焦りも手伝って、落ち着かない気分だった。
閑散とした下駄箱のところで、靴を履き替えようとしていた時。佑暉は何気なく、玄関扉の向こうに視線を投げると、正門の前でいつしかのように、不良の三人組が座り込み、その周囲1メートルくらいを占領しているのが見えた。門は大和大路通に面した西側にしかないので、あそこが通れなければ、帰ることができない。
しばらく、佑暉は下駄箱の陰に身を潜めて、三人の動向をうかがっていた。彼らは、佑暉には気づかず、仲間内で駄弁を続けている。
五分以上が経過しても、三人は一向に去る気配を見せてくれない。そろそろ佑暉の心に焦燥が兆してきた時、不意に、誰かに肩を叩かれた。
「何してんねん」
佑暉は驚いて、肩を若干跳ね上がらせた。後ろを振り向くと、玲音がこちらを怪訝そうに見ている。
「先輩、ご無沙汰してます」
動揺したまま、自分でもわけのわからないことを口走ってしまう。
「どっかの会社員なん、お前は」
当然の反応のように、玲音は少し口許を引きつらせる。次いで、昇降口にじっと立っていたことがやはり不審に映ったのか、
「帰らんのか?」
と、玲音は尋ねる。せっかく動揺が回復してきたところに、核心を突かれ、佑暉は再び狼狽する羽目になった。
「いや、あの……」と弁明しようとして、ガラス張りの玄関扉の方に目線を動かす。いつの間にか、校門の前に屯していた不良たちはいなくなっていた。玲音に声をかけられている間に、雑談に飽きたのか、帰ってしまったのだろうか。
ひとまず、不良たちの脅威に怯える心配が消えたことに、佑暉は胸を撫で下ろした。しかし今度は、昇降口の傍らの階段から、軽やかな足音が響いてくる。
姿を現したのは、愛咲だった。彼女は佑暉を認めるや、曇り空の合間から、気まぐれに太陽が顔を覗かせるように、陽気な笑顔になった。
足を速めて近づいてきて、すぐ彼に声をかける。
「葵祭のこと、考えてくれた?」
「何や、葵祭って」
愛咲の質問に、玲音が突っ込んだ。愛咲は彼を一瞥すると、先程とは打って変わって、白けた表情を作った。
「あんたは関係ないやん」
冷たくあしらうように返すので、玲音も眉を顰める。そんなことは気にも留めていない様子で、愛咲はさらに、佑暉に詰め寄った。
「どう? 一緒に行く?」
佑暉は、返事に窮した。結局、まだ結論は出せていないのだ。授業を放棄するのは、どこの学校においても、禁忌だということは理解しているし、いくら観覧する価値がある伝統行事とはいえ、安易には承諾できない。
「何や、お前ら、ほんまにサボって行くんか?」
大約の事情を察知したらしい玲音が、片目を細めながら、揶揄するように言った。
「自分もしょっちゅうサボってるやん」
呆れたような声調で、愛咲も言い返す。そしてふと、何かを思い立ったように目を輝かせた。
「そうや、玲音も一緒に行こうや!」
「は? お前らが勝手に行って来いや。なんで俺まで付き合わなあかんねん」
唐突な誘いに対し、乗り気どころか、玲音は難色を示す。
その反応が、彼女的には意外に映ったのか、理由を問いたげな瞳で玲音を見る。
「え〜、なんで? 京都が好きやから来たんと違うん?」
「ちゃうわ」
二人の応酬が気になり、佑暉は疑問を呈そうと思ったが、玲音は素早く踵を返し、忙しなく階段を駆け上がっていってしまった。その後影を見送っている佑暉に、愛咲は耳打ちするように、小声で囁きかけた。
「葵祭のこと、彩香たちには黙っといてな」
咄嗟に頷いた佑暉は、数秒後に後悔の念に襲われた。誘いに乗ったことを、相手に伝えたのも同然だった。
その後、成り行きのまま、四条川端まで愛咲と一緒に帰ったが、橋の袂で別れるまで、ついに佑暉は言い出せなかった。彼女の中では、すでに互いに合意の上、約束を取り交わしたことになっているのは明白だった。どうやって断ったらいいのか、思いを巡らせているうちに四条通に出ていた。目の前を、緑色の市バスがしめやかに横切ってゆく。
「じゃあ、明日の九時半に、蛤御門の前に集合な!」
愛咲は、元気よく時間と場所を彼に伝えると、祇園四条駅の構内へと降りていった。ぽつんと一人、四条通に取り残された佑暉は、彼女を見送りながら、起こりもしないことについて、漫然と考えていた。
今夜寝て目覚めたら、明日ではなく、明後日になっていればいいのに、と。




