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来たりし春の都街  作者: 橘樹 啓人
第一章 葵の契約
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人は見かけによらぬもの

「なあなあ、葵祭あおいまつり、一緒に行かへん?」


 鳥居南とりいみなみ愛咲あさが、無邪気な笑みを顔面に広げる。あまりにも短兵急な誘いだったため、佑暉は反応に窮した。


 五月の大型連休後の月曜日。授業の合間の休み時間に、彼の席へ、彩香の親友である愛咲が急に訪ねてきて、開口一番にそう言ったのである。


「何ですか、突然」


 困惑して口を閉ざしていた佑暉は、愛咲の話に思考が追いつくと、ようよう問い返したが、その発声には、少々呆れが混じっていた。


「だからさあ、明後日の葵祭、一緒に観に行こうや」


「明後日? 学校はどうするんですか?」


 愛咲は目をしばたたき、一瞬狼狽えるような素振りを見せたが、すぐに顔を彼に寄せると、こう囁いた。


「たまにはサボってもいいやん。それより、自分、行ったことないやろ?」


 葵祭は、祇園祭ぎおんまつり時代祭じだいまつりとともに数えられる、「京都三大祭」の一つだ。確かに、佑暉は一年前のこの時期、東京から来たばかりで、まだ京都の生活に慣れていなかったことも相俟って、「葵祭」という名も聞いたことがなかった。のちにサキから教えられ、興味を抱いて「いつか行ってみたい」と思ったのも事実だ。


 ただ、学校の授業を放り出してまで行く意義があるかと問われれば、それはそれで、回答が異なってくる。


 どちらかといえば、彼自身、日々を穏便に過ごしたいという思想の持ち主なので、あまり目を引くような行いは、なるたけ避けたかった。学生の本分である勉学をおざなりにするだけでなく、周囲に迷惑をかけてしまうのではないか、という罪悪感も勿論ある。


 名残惜しい気持ちもなくはないが、ここは学業を優先し、断ることにした。


 しかし、口を割ろうとする佑暉の返事を、愛咲が遮った。


「だって、勿体ないやん? 葵祭って、毎年、何日か決まってるから、平日以外の年じゃないと、行けへんもん。その年が来るの待ってたら、一生見れへんかもしれんで」


 彼女の意見に、佑暉の心は、一瞬左右される。咄嗟に、喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。


 ……確かに、そうかもしれない。いや、しかし。やはりそんな理由で、授業を欠席するわけにはいかない。


 残念ですが……と、誘いを断るための口上を述べようとしたその時、またしても愛咲の言葉によって、遮られた。


「ほんじゃ、まあ、明日までに考えといて」


 佑暉に呼び止める暇すら与えず、愛咲は颯爽と、教室の外へ歩いていった。佑暉は予期せぬ悩みを抱えてしまい、がっくりと肩を落とし、憂慮した。



 帰路についても、まだ朝の出来事が、彼の懊悩を解消するどころか、増大させていた。愛咲の言っていた通り、この機会を逃してしまえば、来年の五月十五日まで葵祭は開催されない。しかしながら、学校は知らぬ顔で、当日も平常運転で授業が行われる。


 それでも、授業を優先するべきか、学校を休んででも行くべきか、佑暉には迷いがあった。


 誰か身近な人に、相談を持ちかけようか。しかし、正美はおろか、一番親しい仲居にすら、叱られる予感がした。それも至極当然だ。いったい誰が、学校を休んでまで遊びに行っていいと言うだろう。


 では、彩香はどうだろうか。歳が近いこともあって、話しやすくはあるが、彼女もきっと、怪訝な顔をするに違いない。「そんな子だったのか」と、軽蔑を含んだ目で見られるのではないか。


 愛咲本人は、どういう心境なのだろう。思えば、彼女も彩香と同じく三年生で、今年は受験生ではないのか。祭りになどに、熱を上げている余裕があるのだろうか。


 佑暉は四条通を歩きつつ、色々と考えを巡らしては、結論を出しあぐねていた。


 八坂神社の境内が近づくと、楼門の前に、数人の高校生らしき男たちが屯しているのが、目に入った。歩みを進めるに連れ、それが四条高校の生徒であることに気づいた。三人のうち、二人は髪を明るい茶色に染め上げ、一人はストレートの黒髪だ。


 神社前の横断歩道を渡りきると、彼らが視認した通りの人物だったので、佑暉は幾許か安堵した。灯籠にもたれかかっていた一人が、彼の存在を感知したように、ぱっと顔を上げた。


「おう、河口」


 玲音が幼気な笑顔で、佑暉に向かって手を上げた。佑暉は、彼らの前で立ち止まった。


 彼らは何かをしていたというふうもなく、ただ一箇所に集い、雑談していただけのようだ。そこでふと、彼らであれば、自分の抱えている問題について相談しても、鼻白んだりはしないだろうと思えた。


 そして思い切って、玲音たちに葵祭のことを話した。冗談ではないことを示すために、ことさら深刻な表情を作って、打ち明けた。すると案の定、彼らはけらけらと笑い出した。


「そんなもん、知るか。行きたかったら、行けばええやろ」


 玲音は、白い歯並を覗かせながら、佑暉のこれまでの憂慮を詰るように、笑い立てる。


 そうしていると、玲音の友人の一人、土師はし友一ゆういちが言った。


「授業とかおもんないやろ、正味」


 玲音も「やんな」と、斜め後ろの土師に調子を合わせる。


 佑暉は、彼らに笑いものにされている気がして、あまりいい気がしなかった。やはり、言い出すべきではなかったと、後悔すらした。


 時間の無駄だったと内心で嘆きながら、佑暉が旅館に足を向けようとした時、たまたまもう一人の男子と目が合った。他の二人とは違い、彼の口は固く引き結ばれている。一人だけ漆黒の髪を持ち、やや長めの前髪が微風に流れ、どこか物悲しげな、ミステリアスな雰囲気のある男子である。高い鼻梁、大きく見開かれた瞳が、よりその印象を深めているように思われる。


 出会った時は、「不良に絡まれている」と脳が自動認識し、逃れようと必死に思考を働かせていたから、彼らの風采をじっくり精察するほどの余裕がなかった。だが、こうして自分にとって害がないことがわかってみると、そういった精神的なゆとりが生まれたのだ。


 玲音や土師と比べても、一際背が高く見え、形のよい唇は閉ざされたまま、佑暉をじっと見つめている。その冷酷にさえ感じる眼差しは、彼に大人の輪郭を付与し、他者を惹きつけるには、充分な役割を果たしている。


 容貌だけでは、とても不良とは思えない。それどころか、品行方正な模範的少年ではないかとすら思える。玲音が誇らしげに親友だと語る、日和ひより啓介けいすけだ。


 何秒間も見つめ合っていることに思い至り、佑暉は自然を装いつつ、彼からゆっくりと目を逸らした。数瞬後、日和の方から、先に反応があった。


「お前、葵祭、見に行ったことないんか」


 佑暉は視線を戻した。日和は微笑もせず、硬い表情のまま、彼に視線を注ぎ続けている。


「はい。去年、京都に来たばかりなので……」


 どぎまぎしながらも、佑暉は自信なさげに答える。そこでようやく、日和の日本人離れした色白の頬が、俄に赤みを帯び、わずかに綻んだように見えた。


「俺、小さい頃、百万遍ひゃくまんべんあたりに住んでたから、よう友達と一緒に行列見に行ってたわ。その後、ただすの森の中で遊んだりしてた」


「糺の森……?」


 思わず、佑暉はオウム返しした。


「下鴨神社の参道にある、原生林。よく、小説とか映画の舞台にもなってる」


 恬淡と答える日和の話を聞いて、佑暉も、父親の慎二から聞いたことを思い出した。慎二も高校生の時分、仲間とよくそこを通ったものだと。


「ナニ仲良うなっとんねん、お前ら」


 玲音が不服そうに口を挟んできて、日和の肩に手を回した。一方、日和は冷淡かつ慣れた手付きで、その手を払い除ける。


 一見して、爽涼たる雰囲気を漂わせているものの、まだまだ底が知れない日和啓介という男に、佑暉は内心警戒していた。ひょっとして、懐に何か強力な武器を忍ばせているのではないか、という想像をしてしまうほど、彼の本性がわからない。


 玲音や土師は、阿呆面をさらけ出して笑っているだけで、特に何かを隠しているような後ろ暗いところはないが、日和に関しては、雌の蟷螂のごとき凶暴で醜悪なものが、予想もしないところから、卒然と兆してくるような気配があった。


 人当たりの良さそうな生徒が、実は不良グループの成員だったこと。そしてその彼が、自分への制裁に加担したこと。それらが目の前の少年と重なり、佑暉の本能は過剰反応を起こし、戦慄を覚えるのだった。

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